第二試合 夏vs自分①


次の日の早朝五時。
私は地元の川辺を走っていた。

昨日、楽器を所持して改めて体力が重要だと痛感した。
今までは演奏と体力作りの繋がりが感じられず、陰で休んだりと情けない行動を取っていた。だらしない過去の自分に恥ずかしくなる。

昨夜の翔吏との会話から思考を切り替え、少しでも自分に投資しなければいけないと考えての自主練だ。
音すら鳴らせない今のままでは、届く思いも届かない。
特に私は、同期と同じ立ち位置に立てていないのだから、人一倍努力をしなければいけないんだ。

あれだけ走るのが嫌だったのに、自ら行動に移っているなんて、二日前の自分は考えてもいないだろう。

六月に入ったことですでに日は昇っているものの、早朝であることから周囲は閑散としていた。 どちらかといえば田舎に分類される私の地元には、家から徒歩数分の場所に大きな川がある。この周囲では運動をしている人をよく見かけるので、ここなら走っても問題は無いだろう、と朝から訪れていた。

校舎内とは違い、風も通れば地面も土で足の負担も少ない。校舎内での運動に慣れていたことから案外いけるものだ。

爽やかで澄んだ空気が心地良い。川で冷やされた緩やかな風が、ジワリと浮かぶ汗を撫でる。
朝から運動するのは、これほど気持ちがいいものなんだ。

無心になって走っていたが、ふと高架下に見覚えのある姿が目に入る。

「速水さん?」

思わず足が止まる。

高架下には、一心にバットを振る速水さんの姿があった。
スポーツブランドのTシャツにジャージ姿で、頭にはタオルを巻いている。
大きな身体でスイングするその姿は豪快だった。

茫然と視線を送っていたことで、速水さんも私に気が付く。
寝間着同然のジャージ姿であることで恥ずかしくなり、私は露骨に顔を逸らしてしまった。

「ははっ、身体はでかいしスゲー食うけど、悪い奴じゃないよ」

速水さんは抱えていたバットを下ろして爽やかに笑う。
私は慌てて手を振る。

「やっ、まさか地元にいらっしゃるとは思わなくて……そそそんなんじゃないです」

「あ、君もここが地元なんだ」

「君も?」

「俺もここが地元なんだ」

ちなみに家はそこ、と速水さんは後ろを指差す。馴染みの道に位置しているだけ目を見開く。

「ま、毎朝通ってます!」

「そうなの? じゃあさ、雪村病院前の桜の木も知ってる?」

「一本だけ満開になるやつ!」

「そうそう。じゃ、このパン屋はわかる?」
そう言って速水さんは、近くに置いてある紙袋を指差す。

「モモヤマベーカリーだ」

「正解。生粋の地元民だ」

速水さんは満足気に笑うと、腕を下ろした。

「すごい偶然だね。えっと……そういや名前聞いていなかったっけ。君は?」

「た、橘 陽葵(タチバナ ヒマリ)です……」

「橘さんか。俺は速水 瞬(ハヤミ シュン)。同じ地元民としてよろしく」

速水さんは目尻を下げて笑うと、「よかったら橘さんもどう?」とパンの入った紙袋を掲げながら手招きする。
突然の誘いに私は身体が静止する。

「あ、ごめん。練習の邪魔かな?」

「い、いえ、えっと、良いんですか?」

「うん。実はこのパン屋の看板娘と幼馴染でさ」

依都のようにクールで美人な看板娘さんの姿が思い浮かぶ。

「新作の感想聞かせてくれって言われてるんだけど、『瞬は美味いしか言わない』っていつも怒られるから、むしろ協力してくれると嬉しい」と速水さんは笑う。

地元民では知らない人がいないパン屋なだけに、新作が食べられることに心が躍った。
橋の下に降り、速水さんの元まで向かう。

紙袋から取り出されるパンはどれも黄金色に輝き、目から美味しいと伝わる。

「今回は夏向けらしくてフルーツのものが多いかな。でも俺はやっぱりこれが一番気になるな」
そう言ってカレーパンを手に取る。

「カレーパンも改良されたんですか?」

「らしいよ。ただでさえウマいのに、夏向けにさらにレベルが上がったって」

モモヤマベーカリーのパン屋は、カレーパンが一番人気だった。
外はカリッカリに揚げられ、中のスパイスも絶妙な辛さでバランスが丁度いい。文句のつけようのない品であるが、更に改良されたとだけ期待が高まる。

「ほら、橘さんも」

そう言って速水さんは笑顔でカレーパンの入った袋を差し出す。
私は頭を下げながらそれを受け取る。

「温かい……!」

「さっき貰ってきたばかりの揚げたてだよ。中々食べたことないだろ」

「はい。いつもはお昼に食べるので……まさか揚げたてが食べられるなんて」

「幼馴染の特権。遠慮せずに食べてな」

速水さんは爽やかに手をひらひらさせると、パンの入った袋を開け始める。私も腰を下ろしてパンに齧りつく。

カリッと軽やかな音が鳴り、上質の油分の孕んだアツアツの生地を噛み締める。咀嚼するたびスパイスの効いたカレーの香りが充満し、幸せな満足感が訪れる。
冷めても美味しいものの、やはり揚げたてとなると味が格別に感じられるものだ。

「おいしい……!」

「ほんとウマいよなぁ。毎日食べても飽きないっていうか」
速水さんもカレーパンを口にしながら言う。

「本当……本当に美味しい…………温かいから尚更……」

本心から言葉にすると、速水さんは「やっぱ、『美味しい』しか言えないよな」と納得するように頷いた。

「ってすみません、先輩なのに……」
口調が砕けていたことに今更気付く。

「あぁ気にしないで。別に俺、吹部の先輩ってわけでもないから」

「でも…………って、え?」

思わず顔を上げる。「私が吹部なの、知られていたんですか?」

「前にワックで、一ノ瀬たちに挨拶してただろ」
速水さんは笑顔で説明する。

「そ、そういえば」

当時は速水さんのことで浮かれていたが、あの時、店内であるにも関わらず大声で挨拶していたんだ。
あまりにも反射的な行動だったことから、全く意識していなかった。
思い出して急激に顔が熱くなる。

「まぁ上下関係が厳しいのは、もはや伝統でもあるから仕方ないかもだけど、でも、オフの時までかしこまられると結構やりずらいもんだよ。あの時も一ノ瀬たち、ちょっと困惑していたし」

「そ、そういうものなんですか」

「俺も一応、三年なのでね」速水さんは肩を竦める。

「気を抜けと言っているわけでもないけど、固くなりすぎないで。あまり意識し過ぎるとメンタルがダメになってしまうよ」

実際昨日、ダメになっていたので思わず口籠る。

「…………私、部活に入るのが初めてなので、先輩との付き合い方がわからないんです……怒られたくないってばかり考えてしまって」

「まぁ誰だってそうだよ。理不尽に怒る先輩がいることも事実だし」
速水さんは同情するように苦笑する。

「でも、後輩が努力している姿を見ていると多少のことは気にならないものなんだ。だから先輩の目を気にするのではなく、まずは練習に力を入れるほうがいいかもしれないね」

速水さんは食べるのが速いようで、六個ほどあったパンもすでに残り二つになっていた。「これもウマいな」と彼は呟きながらパンをほおばる。

先輩の立場である彼からの言葉を、私は深く噛み締めていた。

「それに上は上で大変なものだよ。特にうちはメンバーが選抜されるだけ、むしろ学年が上がるにつれて気が抜けなくなるというか」

「そういえばクラスメイトにも、ベンチ入り目指している人がいます」

そう言うと、速水さんはふと空を見た後、こちらを見る。

「もしかして、野中?」

「あ、はい」名指しであるだけ軽く驚く。

「そうか。彼ならベンチ入りも、全然あり得るな」
速水さんは納得するように何度も頷く。

「……それだけ翔吏って、上手いんですか?」恐る恐る尋ねる。

「うん。特にバッティングがいいね。彼、ケガで半年ほど休んでいたって聞いたんだけど全くそんなブランク感じさせないし、監督が代打で起用することを考えてても自然だよ」

公園での翔吏を思い出す。誰にも負けない自信があるからこそ、あれだけ強気の発言ができたんだ。
何となく悔しくなり、無言でパンをほおばった。

「ま、先輩は先輩で苦労があるってことだよ。だからあまり固くなりすぎないで。夏の試合で橘さんの応援聴けるの楽しみにしているからさ」

速水さんは爽やかに笑う。嫌味のない純粋なその顔に心臓がドクンと脈を打った。
こんなにも素直にまっすぐに感情を伝えられる人は、眩しく感じるものなんだ。

「ありがとうございます。あと、パンも最高でした」

モニターの協力になれなくてすみません、と頭を下げる。
速水さんは「美味しいんだから仕方ない」と肩を竦める。

「じゃ、ごめん。俺、朝練あるからそろそろ」

「いえ、邪魔してすみませんでした。そしてありがとうございました。では」
私は慌てて立ち上がると深くお辞儀する。

もはや癖となったその行動に、速水さんは「もう脊髄反射だな」と苦笑した。

 

***

 

数日前まで辞めるか悩んでいたにも関わらず、見方が変わったことから今では入部時以上にやる気になっていた。

一年生はコンクールに出場しない為、毎日の課題は応援曲、という具合に練習が進む。体力作り中心だったスケジュールも、今では開始三十分程度で終わるようになっていた。
あれだけ嫌だった体力作りも、意味のある行為だと気付いた今では、むしろもう終わったのかとすら思うようになっていたので、捉え方ひとつでこんなにも変わるものなんだ。

そして、基礎合奏が始まってから気付いたことがある。

「そうか、だからこんなに厳しいのか……!」

吹奏楽部は、全員で一体となって音を奏でることから、人数の定められているコンクールなどの例外を除けば、野球部のようにメンバーが厳選される競技ではない。
だが逆に、一人でも統率を乱す者がいるだけで全体の印象が悪くなる。これこそ「連帯責任」というものだろう。
より良い演奏を行う為には、安定した音を出した上で皆と息を合わせることが何よりも重要だ。

だからこそ、部内の規則の厳しさにも納得ができた。

自分のことしか見えずに、そんなことすら考えられていなかった。
冷静に現状を見つめることで、先輩からの指摘ひとつひとつが、全てはより高みを目指す為だとやっと気付くことができた。

「もっともっと……時間を有効に使わなきゃ…………!」

ランニングシューズの紐を締めると、朝日の差す中、川辺を目指して今日も走り始める。

***

野球部のメンバーが発表されたようで、今日から本格的に練習が始まる。
うちは野球部も全国に名前が知られる強豪だ。甲子園にも何度も訪れ、そのたびに吹奏楽部の演奏がテレビで流れていた。
だからこそ、下手な音は出すことができない。

選手ごとに割り振られた楽曲の記載されたプリントが配られる。
いよいよこの時が来てしまった。夢にまで見た応援の練習が始まるんだ。

緊張で手が震える。
恐る恐るメンバーを確認すると、一番見たかった爽やかな名前が目に飛び込んだ。

「速水さん、やった!」
小さくガッツポーズをする。

打順の五番目に「速水 瞬(三年・主将)」と記載されていた。
楽曲は某野球部ドラマの主題歌であり、まさに彼のイメージとぴったりの選曲だった。

浮かれたままプリントを確認していたが、そこでさらに目を見開く。

「翔吏…………!」

ベンチ入りメンバーの欄に、「野中 翔吏(一年)」の文字があった。
珍しい名前なだけに、恐らく彼で間違いないはずだ。

メンバーは大半が三年生で構成され、一年生は彼含めてたった二人しかいない。
速水さんもベンチ入りの可能性はあるかもと言っていたが、それでも彼の実力に言葉を失った。

「あいつ、本当にすごかったんだ……」

じゃ、一年準備、との声が響いたことで慌てて立ち上がった。

 

***