「ゆ、祐介くん?」
「いきなりごめんな」
二宮 祐介(ニノミヤ ユウスケ)は軽く手を上げながら謝罪する。
彼は美子の妹であり、哀の幼馴染みでもある。
嫌味のない笑顔に、鳶色の柔らかい髪、さらりと無地のTシャツを着こなす。
フワフワした美子とは対照的に、常に彼の振る舞いには余裕が感じられるものだ。
周囲に子どもっぽい人間が多いことと、自身の感情を隠すことが苦手な僕にとって、彼の大人な振る舞いは憧れでもあった。
そんな祐介に呼び出されてラウンジまで来ていた。
「いえ、祐介くんが僕に用って、珍しいですね」
僕は率直に彼に問う。普段は哀を通じて会うことが多いだけに、疑問を抱いていた。
祐介は苦笑しながら首を掻く。
「まぁ別に、わざわざ報告する必要もないかなって思ったんだけど、あいつらにバラされるくらいなら俺から話しといた方がいいかなと思って、さ」
「何のことです?」
僕はきょとんと首を傾げる。全く見当がつかないだけ素直に反応してしまう。
だが、祐介の告白は、僕の予想の域をはるかに越えていた。
「美子ちゃんと血が繋がってないんだ……」
僕は目を開いて素朴に呟く。
「うん。実はな」
祐介は、僕の反応を予期していたのか、特に動じず軽く笑う。
「まぁ、直樹以外はみんな、二日前まで知らなかったし、そんな反応も仕方ないな」
「む、むしろ、直樹は知っていたんですか?」
口ぶりから幼馴染みである哀たちも知らなかったとはわかるが、それなら何故直樹は知っていたんだ。
「そうだな。知られたのは本当に偶然だったんだけど」
祐介は頭を掻く。「まぁだから、俺らが互いに嫌っていた理由がわかったろ」
僕は呆然と宙を眺めていた。
直樹が、好きな人である美子の兄、祐介を苦手としていた理由は、二人は血が繋がっていないことを知っていたから。
だから祐介を「兄」ではなく、一人の「男」として敵視していたんだ。
でも、それならひとつ疑問が浮上する。
「直樹が祐介くんのことを苦手としている理由はわかりました……。ですが祐介くんを敵視するだけ、祐介くん自身が美子ちゃんに対する感情が強いように考えているんだと思います」
「そうだな。俺はあいつじゃなくても譲る気はない」祐介は即答する。
「つまり、そういう意味なんですか……?」
僕は彼の表情を窺いながら尋ねる。
すると祐介は、「哀にも同じこと聞かれたな」と眩しそうに目を細めた。
彼の顔を見て、哀が恋愛している人を観察するのが好きな理由がわかった気がした。
誰かを想う人の顔はこんなにも穏やかで柔らかくて温かく、幸せな気分が訪れる。
それだけの感情が表れていた。
「直樹が、適うわけないですよ……」自然と呟いていた。
「そう言ってもらえて光栄だな」
祐介は肩を竦めて答えた。
変に繕うことなく肯定のできる余裕のある人は、こんなにもかっこよく見えるものなんだと改めて実感した。
彼ならば「兄」という複雑な立場に立っているだけ、共感してもらえるのでは、とふと思う。
「あの、少し変なことをお聞きしてもいいですか?」
「何だ?」祐介は首を傾げる。
「祐介くんはその……彼女と恋人同士になりたいって思います……?」
そう尋ねると、祐介はしばらく考え込み、天井を見上げる。
「まぁ、結果、それに越したことはないわな。兄であるだけ難しいけど、でも堂々と直樹を拒否できるわけだし」
「徹底してますよね」名指しであるだけ苦笑する。
「でも、付き合うことが目的な人はあまりいないんじゃないかな」
そう言うと、祐介は顔を下げて僕を見る。
「相手が好きだから独占したい、って考えた結果、付き合うという結果に落ち着くんだ。見ているだけで良い、だなんて奏多みたいにきれいな人間は中々いない」
あまりにもさらりと吐かれたことで静止する。
彼に視線を向けると、顎に手を当て僅かに口角を上げていた。
「……やっぱり、祐介くんにはバレていましたか」
「基本的に俺は、大抵のことは知っている」
祐介は、もはや同情するように笑った。
祐介は、社交力が高い故にあらゆる情報を得ている。そのことから余裕も生まれるのだろう。
彼には、例え道端の石ころである僕の恋愛事情でさえ、把握されているとはわかっていたものの、やはり当然のように情報を握っている。
もはや彼には隠すこともないだろう、と僕は白旗を振った。
「でも正直、本当に今の関係以上を望んでいないんですよ」
「多分、上部しか見えていないからだな。残念ながら、人間ってそこまできれいじゃない」
そう言うと、「じゃあ、ここで残酷な現実をいくつか」と、祐介は指を立てて僕に振り向く。
「俺は奏多の味方だし、奏多には報われてほしいと思っている。でも正直、素直に応援することはできない」
「どういう意味ですか」
「これがひとつめの鍵」
祐介は謎解き展開のように切り返す。
「ふたつ目の鍵。俺は修学旅行で、沙那と直樹と同じ班で、かつ俺が班長だった。基本的に自由行動も班行動だが、班内で話し合えば融通は効く。俺は沙那から『直樹と二人で回りたい』とお願いされ、その機会を設けた。結果二人は、自由行動の時に二人で回っていた」
僕の顔は一気に曇る。
だが祐介は、構うことなく続ける。
「そして最後の鍵。沙那は直樹のことだけは呼び捨てだ」
————奏多くんは優しいね。瑛一郎くんと直樹が弾丸で言い始めたことなんだけど、私も楽しかった。じゃあゆっくり休んでね
確かにその件は僕も引っかかっていた。幼馴染である僕らの中で、唯一直樹だけは呼び捨てだった。
「あとは奏多が好きに推理すれば良いよ。ただひとつ言っておくと、俺は自分で見たことや直接本人に聞いたことしか信じない」
社交力の高さ故の根拠だろう。僕にとっては、尊敬する祐介の言葉というだけで理由になる。
沙那のことが好きな僕を素直に応援できないということは、祐介は別の誰かを応援しているという意味なんじゃないのか。
沙那が直樹と二人で回りたいと言ったところで、直樹だけを呼び捨てに呼んでいたところでどうなんだ。
だが対照的に、心臓がドクドクと脈打ち、変な汗がじわりと滲みはじめる。
黙り込んだ僕を見て、祐介は苦笑する。
「悪い、虐めるつもりじゃないんだ。ただ、こんな情報だけでもおまえの顔は曇っている。それだけ感情は気まぐれなんだ」
そう言うと、祐介は僕の肩を叩く。
「基本的に誰だって、汚い感情は持っているものなんだよ」
***
その日から、ずっと祐介から聞いた情報が頭の中を渦巻いていた。
沙那は直樹のことが好きなのか?
いや、そうじゃない。直樹のことを呼び捨てにしているだけ、それだけ近い存在だったということになる。
つまり、あの二人は昔————。
「————おい奏多?」
言葉が届いて我に返る。
はっとして顔を上げると、瑛一郎が素朴に首を傾げる姿が目に入った。
壁に背を預けてスマホを弄っていた直樹も、手を止めて僕を見る。
「何だよ、ぼーっとして。夏休みロスか?」
瑛一郎は癖のある声で問う。
僕は直樹の視線を避けるように「べ、別に」と顔を逸らした。
普段見ている彼らの知らない一面を知っただけで、こんなにも不安になるものなのか。
僕はただ浮かんでいただけで、海の中がどのような状態なのか気付いていなかっただけなんだ。
だから今まできれいごとを言えていたのかもしれない。
直樹の視線が刺さる。だが、応えられるわけがない。
僕は感情を隠すのが下手だ。
何でも顔に表れてしまう自分が、時に嫌になる。
***
普段のように室内にこもっていると、メッセージが届く。
送信者は直樹だった。素っ気なく「暇なら部屋来れるか?」とだけ書かれている。
「珍しいな……」
僕が外に出歩かないだけ、基本的に皆、僕のところに来るものだ。
不思議に思いながらも、彼の部屋に向かった。
直樹の部屋に向かう途中、対面に見知った顔が現れる。
「沙那?」
「か、奏多くん?」
沙那は僕に気付くと、びくりと肩を震わせる。
自身の肩を掴み、背中を丸めている。普段は皺もないスカートやTシャツも所々乱れていた。以前見た姿と被った。
直樹の部屋の方角から歩いてきただけに、胸がざわついた。
「ど、どうしたのさ。何か最近、元気ないよね……?」
僕は恐る恐る声をかける。
「……何でもないよ」
沙那は目を細めてそう言うと、そのまま歩いて行った。
明らかに普段よりも顔が引き攣っていた。
だが僕は、彼女の腕を掴むことができなかった。
知らない彼女を見てしまう気がして、現実が見えてしまう気がして、前へ進めなかったのだ。
直樹の部屋を開けると、ベッドに座る直樹の姿が目に入る。
彼は僕に気付くと軽く手を上げる。
「今、そこで沙那と会ったんだけど、今までここにいた……?」
そう尋ねると、直樹は僕を一瞥して「そうやけど」とあっさり答える。
「ついさっきまで、ここにいた」
「何で……?」
信じたくなくて、あえてそう問いかけていた。
直樹は数秒黙り、小さく息を吐く。
「俺が女を部屋に入れる理由なんて、ひとつしかないよな」
そう直樹が答えた瞬間、頭がカッと熱くなった。
感情が顔に出ていたのか、反応を予期していたのか。
直樹は僕を見ると、「勘違いすんな」と冷静に続ける。
「俺が呼んだわけじゃない。あいつがここに来たいって言うたからや」
「え?」
「沙那の方から、ここに来たいって言うたんや」
直樹は、はっきりと口にする。
「会いたいっていう女を俺が拒否するわけないやろ。それも沙那みたいな美人を、さ」
彼の口ぶりからも、嘘は吐いていないと感じられた。
だが、そんなのまるで、彼女の方から直樹に抱かれに行ってるようなものじゃないか。
それだけ沙那は、直樹のことが好きというわけか?
「でも、直樹は美子ちゃんが好きなんだろ……」
そう言うと、直樹は意地悪く口角を上げる。
「前に言うたやろ。本命と遊びは別ものって」
その言葉が聞こえた瞬間、雷が落ちたかのように目の前が真っ白になった。
気付けば直樹の肩を掴んでいた。
頭で考えるよりも先に行動していたので、自分でもよくわからない。それだけに言葉が出なかった。
だが直樹は、特に動じずべっ甲色の髪を弄っている。
「修学旅行、沙那と一緒に回ったって祐介さんから聞いた……沙那の気持ちに気付かないほど直樹は鈍感じゃないはず。それなのに、気持ちを弄んだっていうのか……?」
僕は震える声で問う。
直樹はじっと僕を見た後、小さく息を吐く。
「俺はただ、あいつに応えただけ。あいつも俺も同意の上やし、お互い恋人おらんのやから何も問題ないやろ」
「さっき会った沙那は寂しそうな顔をしてた。そんなの、幼馴染なんだからほっとけるわけないでしょ」
「幼馴染、ねぇ……」
直樹は静かに復唱する。
「幼馴染なんて、奏多が思うほどきれいな関係は存在してへんよ」
そう言うと、直樹は僕の手を払い、立ち上がる。
僕は彼の目をじっと睨む。
「箱の中に入ってしまったら抜け出す時に辛くなる。やから俺も姉貴も上部だけで付き合ってたんや。美子ちゃんのことは好きやけど、でも無理ってわかってるしな。敵わん相手ずっと追いかけるほど、俺も気力がない。全部が全部、遊び」
直樹は吹っ切れたように手を振ると、僕に振り返る。
「幼馴染やから沙那が寂しそうな顔してるのが嫌なんか? 違うやろ。奏多は今、俺に嫉妬してるんや。つまり、自分がそうなることを望んでる」
「望んでるわけじゃ……」
「彼氏やないんやから、俺と沙那が会ったところで、奏多に怒る権利はない。でも嫌やって思ってるのが、証拠。つまり、奏多が知りたいって思ってた感情の答えが、それなんや」
————や、やっぱりさ、好きな人とは付き合いたいとか思うの?
直樹は、茫然とする僕の肩を叩く。
「相手を独占したいって汚い感情が生まれるからこそ、付き合いたいって思うものなんだ」
ゴロゴロと雷が鳴った。廊下窓の外には暗くて分厚い雲が広がり、室内のトーンを下げる。
雨音はしないが、雨天でなくても落雷は発生するとはどこかで聞いた。
じっとりとした湿気が肌に纏わりつくが、雨で流せずに気持ちが悪い。
僕は思考が定まらないまま、自室へと戻った。
Day2「曇り、一時雷」 完