第一部①




目を覚ますと、暗闇が広がっていた。

身体を起こして辺りを見回すが、暗くて何も見えない。目が慣れていないものかと思ったが、しばらくしても何も見えない。物音ひとつすらしない。もしかしたら、この空間には元々何もないのかもしれない。

恐怖がこみ上げてきて、無意識に自分の身を守るような体勢になる。冷静になる為に、ひとつずつ頭の中で整理し始めた。

私は、自分の部屋で命を断とうとした。その為にわざわざ暑い中、ホームセンターに向かって必要な品を調達した。

そこまで思い出して、自分の服装を確認する。
制服のままだ。つまり、あの日からの延長線にあることには違いない。

帰宅後はすぐに準備に取りかかったはずだ。窓やドアをガムテープで塞ぎ、自ら密閉空間を生み出した。

おかしい。エアコンの隙間さえ塞いで、確実に外に出られない状況だったはずなのに、ここは明らかに私の部屋ではない。
もしかして死後の世界なのか、とも考えるが、そもそも私はまだ、練炭に火をつけてすらいなかったはずだ。

少しずつ冷静さを取り戻しつつあったが、それに比例して、ますます状況が掴めなくなっていた。

その後は、練炭に火をつける前に鏡で自分の顔を確認して、ミカから貰ったヘアピンを初めてつけて――――

そこではっと思い出す。

そうだ、あのウサギのおばけのような少年が現れて――――

「おばけじゃないよ」

突然、頭上から声が降ってきて、ひぎゃっと声が出る。

「あはは、お姉さん。冷静そうに見えるけど、意外といい反応するよね」

ケラケラ笑いながら、今まさに思い描いていた少年が姿を見せる。

意識を失う前に見た姿と変わらず、少年の目は黒い。歳は十歳も満たないほどの幼さに見える。つぎはぎのウサギのような着ぐるみパジャマ風の服を着ており、ピョコッとした尻尾もついていた。かわいらしさと不気味さが織り交ざったような外見だった。

「君は……誰……? ここはどこ……?」

ひとまずこの状況を把握したかったので、少年に話しかける。幸い、少年の天使のような笑顔のおかげで、意識を保つことはできていた。

「ここは、裏の世界。表……つまり、さっきまで君がいた世界のことを、ボク達は『おもて』って呼んでるんだけど、裏の世界は言葉のままに『うら』の世界。と言っても、表にある物騒で治安の悪い漠然とした社会のことを指してるんじゃないよ。れっきとした裏なんだ。コインの裏表があるように、向こうが表なら、裏街道は正反対の裏。法律もなければ学校もない。いわば、表舞台に立てない人が、舞台袖に引っ込むような場所。『現実逃避』って言葉があるでしょ。まさに裏街道は、現実=表から逃避できる場所なんだ」

少年は流暢に説明する。外見はとても幼く見えるが、随分と慣れた対応だ。
だが、少年の言葉は理解できても、仕組みは理解できなかった。
裏街道、そんな場所があるだなんて、聞いたことがない。

返答に困って黙っていると、少年は私に顔を寄せた。まだ目が黒いことに慣れずに、反射的に身体を逸らす。

「ボク、鏡から見ていたんだけどさ、お姉さん、死のうとしていたね。何だかおもしろそうな人だなって気になったから、強引に連れてきちゃった」

悪びれる様子もなく、ケロッとした顔でそう言った。

「つ、連れてきちゃったって……」

「大丈夫だよ。ただお話したいな、って思ってるだけで、お姉さんに危害を加えるつもりはないよ。それにお姉さんの選択を邪魔しにきたわけでもないからさ」

笑みを絶やさずに、少年は続ける。

「どうせ死ぬならさ、少しだけボクの我儘に付き合ってよ」

どうせ死ぬなら。

そうだ。死ねば、全て忘れる。

見たところ、この少年が私に何かする気配も感じられず、嘘を吐いてる様子もない。急いで死にたい理由もない。少年と数回会話を重ねたことで、恐怖心も薄れていた。
それにだ。万が一何かされても、それはそれで都合がいいのではないか。自ら手を下さずとも、死ぬことができるかもしれない。反射的に恐怖を感じはしたが、よく考えると死を覚悟していただけに、今の自分に恐れるものは何もないはずだ。

何よりも、この少年が何者なのか、「裏街道」と呼ばれる場所がどんなところなのか気になり始めていた。

どうせ死ぬのなら、この少年に付き合ってみるのもいいかもしれない。

「別に、いいよ……」

「やった!状況の飲み込みが早いお姉さんで嬉しいよ!」

少年は私の手を取り、ぶんぶんと振り始める。

「ボクはメイ。裏街道には時計がないから、正確にはわからないけど、多分来てからは長い方だと思うよ。だから、わからないことがあったら何でも聞いてね。まぁ、決まりなんてものは、ないんだけどさ」

メイと名乗ったその少年は、明るくハキハキとした声でそう答えた。

「私は黒川ありす……アリスでいいよ」

「アリス! いい名前だね」

メイは満面の笑みでそう言うと、手を離した。

しかし、ひとつ気がかりなことが浮上した。
さっそく歩き出そうとするメイに、急いで声をかける。

「メイ、一回、表……に戻りたいんだけど」

「え、何で?」

「メイも見てたならわかると思うけど……その、準備に使ったものは今だけ片づけておきたいなって」

私はまさに、今すぐにでも実行に移せるところまで準備を終えていた。もしも、裏で命を落とすようなことになった場合、痕跡を残しながらも当の死体がきれいに消えていることになり、不可解で奇妙な事件としてメディアに取り上げられ、ミステリー好きたちが湧くかもしれない。過去にそういった内容の小説を読んだこともある。
少しでも家族に迷惑のかかることは避けたかった。

「それと、邪魔するつもりがないならさ、八月三十日には表に帰らせてほしい。家族が八月三十一日に家に帰ってくるの。だからそれまでには、表に戻って、終わらせておきたいから」

隠すこともなくそう告げると、メイは一瞬キョトンとするが、再び笑顔になる。

「アリス、死ぬことには揺らぎないんだね。おもしろいよ」

そう言うと、メイは空間を手で弄るような動きをする。

「どこだったかな」

何をしているのかわからずに、黙ってその様子を見ていると、「あ、ここだ」と声が聞こえる。それと同時に、暗闇しかなかった空間から、窓のようなものが現れた。
そこを覗くと、私のよく知った場所が見えた。

「目印が必要だね。何か持ってない?」

メイは、こちらに顔を向けて尋ねた。私は身体をさすって物色する。
髪に触れた時に、ミカから貰ったハートのヘアピンをつけていたと気づく。ふたつあるからひとつくらい構わないか、とひとつ外して窓のような空間のそばに置いた。

「これでよし」

メイは満足気に呟くと、くるっと私に向き直った。

「じゃ、ここで待ってるから早く戻ってきてね!逃げちゃやだよ」

「逃げないって」

そう言いながら、窓のような空間から身を乗り出した。