第二部⑥




「一番、最近発行された本はどれだ」

予想していなかった質問に一瞬目を丸くする。

「えっと、確か……」

本の山を掻きわけ、目的の一冊を見つけだしてガラクに渡す。先月に発行された作品だ。私の一番お気に入りの作家さんの本だった。渡した作品のタイトルにも『殺人』がついていたので、少し恥ずかしくなった。

ガラクは無言でその本を受け取ると、先ほどと同様に、裏表紙をめくって奥付を確認した。
何をしているのか尋ねようとすると、ガラクは小さく息を吐いた。

「今は二○一九年なのか…」
そう呟いた彼の目は、僅かに憂いを含んでいた。

「そうだよ。ちなみに今は、二○一九年八月九日だった」

表の時間が知りたいのか、私は詳細に伝えたが、その言葉を聞いたガラクは、さらに思案に暮れた。よかれと思って話したものの、現実を突きつけることになったのか、少し罪悪感が襲ってきた。
その様子からも、大量の未読の本以上に、表の時間に関心がある様子だった。

「へー、もうそんなに経ってたんだね」

私の思考を掻き消すように明るい声が聞こえる。児童向け書籍コーナーのマット上に転がるメイは、私たちの話が聞こえていたようで、仰向けになりながら口を挟んできた。

「ま、裏街道には関係ないけどね」

あまり関心がなさそうに言った。この言葉にもガラクは反応を示さなかった。
何か考えごとをしているのだろうか。今日のガラクは普段以上に反応がない。

「とりあえず、この本はガラクにあげる。メガネのお礼もできていなかったしさ」
対応に苦慮したので、この場を締めるようにそう言った。

「悪いな」

やがてガラクがそう呟いた。
メイは「ねーガラク、これ読んでよ」と寝転びながら叫んでいた。しかしガラクは、いまだに考え込んでいる様子だった。それでも作品にも興味を抱いている様子なので安心した。

本を運ぶのは大変だったが、それ以上の成果を得られた気がしたので、肩の痛みも気にならなくなっていた。

「せっかくだからさ、ガラクのオススメの作品も何か教えてよ」

「ミステリーやホラー以外は読まないのだろ」

「だからこそ、別ジャンルの作品を読んでみたいなって」

そう答えると、ガラクは逡巡した後、周りに積まれてる本を掻きわけて数冊渡してきた。手渡されたタイトルや装丁を見て、少し目を丸くする。

どの作品も、若向けの青春ものばかりだった。

「……意外」

別ジャンル作品を読みたいとは言ったが、まさかこのような系統を渡されるとは思わなかった。それも学生生活の中で起こる、部活動や恋愛話が中心の内容のようだ。これらの作品の中では殺人が起こる気配は微塵も感じられなかった。

「別系統を嗜むなら、むしろ正反対の方が新鮮だろう」
ガラクは椅子に座り直す。手には私が持参した本を持っていた。

手渡された本に再度目を落とす。青春文学は無縁と言っても過言ではないので、とても新鮮な気分だった。
自分自身を哀れむ。一応、花の女子高生と呼ばれる年代でもあるのだが。

メイは今もなお、絵本を楽しそうに眺めていて、図書館から立ち去る様子は見られない。私も近くの椅子に腰を下ろした。

本を適当に一冊選び、表紙を見る。『青い夏』と書かれていた。タイトルや装丁からも、高校野球をテーマに描かれた作品だと感じ取れた。

高校野球で思い出す。先月、甲子園をかけた地方大会が開催され、見事私の高校が甲子園初出場を決めたことで、学校全体が賑わっていた。
元々準決勝ほどまでは勝ち上がれる実力は備わっていたらしい。しかし今年は中学時代から天才と呼ばれた人物が、強豪のスカウトを蹴って実家から通える距離の高校を選択したらしく、その高校が私の通う公立高校なのだが、とにかくそのカリスマ的一年生の存在もあって優勝を後押しされたと聞いた。
甲子園初出場という肩書、さらに公立高校という枷からも、世間からもうちの高校はとても注目されているようだった。

とはいえ私は、野球についてはほどんど知識がない。今の話も学級通信で延々書かれていたり、授業中に先生が話し出すほどだからさすがに耳に入っていただけだ。
プロ野球中継を見る父親に、背番号の数字は打順なのか?と尋ねると、怪訝な顔をされて以来、こちらから話題に触れることもなくなった。今頃表では甲子園が開催されているのだろう。

高校野球の事前知識はそれくらいしか備わっていないのだが大丈夫だろうか。表紙をめくり、静かに物語の海へと沈んでいく。

読み始めて二十ページほど、まだ冒頭だというのに思わず本を閉じて天を仰いだ。

あまりにも眩しい。とてもフラットでストレートな作風なので、余計にダイレクトに脳に響いた。今までは、殺人、嘘、血、騙し合い、怪異、といった歪んだものばかりを見ていた反動もあるのだろう。

この作品は、物語の世界とはいえ現実に実在してもおかしくない設定の高校が舞台で、登場人物も特殊能力などは持たない、普通の高校生だ。内容も現実で起こりうる可能性があることだ。
特に今年、天才一年生が入部して甲子園初出場を決めた私の高校を舞台にした作品が、今後青春文学として登場してもおかしくない。そこがさらに現実への可能性を見出していた。
少しものの見方を変えるだけで、この作品のようにキラキラした世界が私にも広がっていたのかもしれない。

続きが気になるので本を開いた。そして数分後、再び閉じて上を見る。無意識にそれらを繰り返していたので、はたから見るとかなり不審だ。

反応が気になったので、二人に目を向ける。しかしこちらに気づく様子はなく、二人とも各自手元に広げられている世界に浸っているようだった。

素直に居心地がいいな、と感じた。同じ空間に存在しながらも各自の世界を大切にしており、また世界が荒らされる懸念すら生じない。相手に気を使うこともなければ、自分の好きなことに没頭できる。
メイがあれだけ裏街道が好き、と言っていたことにも納得がいく。

裏街道はとても居心地がいい世界だ。

気づけば椅子の背もたれに寄りかかって眠っていた。身体を起こして隣の児童向け書籍コーナーへ顔を向けると、マット上で寝転がりながら本を読んでいたメイも、身体を丸めて熟睡していた。

本当によく眠るな、と目を細めると、偶然そのタイミングで、「アリス……」と小さく呟いた。
そばまで寄り、軽く頭を撫でる。すると猫のようにゴロゴロ頭を揺すり、また眠りに落ちていく。しばらくは起きる気配が感じられなかったので、このまま寝かせることにした。

ガラクの方を見ると、私が記憶の薄れる前と同じ体勢で本を読んでいたので驚いた。同じく眠っているものだと思っていたが、警戒心の強そうなガラクが、他人の前で眠るような軽率な行為をするとも思えない。

私の視線には気づいてるだろうが、相変わらずこちらに目を向けようとせず、黙々とページをめくっている。本当に意識はあるのか、ページめくり人形ではないか、確認する為に適当に話を振ってみた。

「それ、おもしろい?」

「それなりには」

即答。やはり私の視線に気づいていた。今もなおこちらに目を向けようとせず、本に目を落としたままだ。
茫然と眺めていたら、ガラクが本を閉じた。読み終えたようだった。

「続きはないのか?」

「残念ながら」

ガラクが読んでいた本は、先月発売されたばかりの本だ。だが、いつも最後できれいに落とし、続きが読みたいと思わせる書き方がとても魅力的な作家さんだ。頭でわかっていても続きを欲する気持ちはとてもよくわかる。特に今回は一番主要だった人物が殺害されたところで終わる。

だが残念なことに、続刊が出ることはもう二度とないことだった。

「その作家さん、先月亡くなったんだよね」

持病を患っていたらしい。先月この本を発行した後に亡くなったとニュースで見た。書斎などにも続編のネタが記載されたものなど見つからず、惜しくも結末は作者の脳内のみ存在し、そして文字通り墓場まで持っていくことになった。

それを聞いたガラクは数秒黙るも、特に落ち込むことなく別の本を手にして、再び読書の海へ沈んでいった。

せっかく持参した本を堪能してくれているんだ。これ以上話しかけるのも悪く感じて、全身をほぐすために立ち上がって伸びをする。ビリビリと神経に刺激が加わり、固まった筋肉がほぐれた。大きく息を吸って、全身に酸素を巡り渡らせる。書籍の匂いが心を落ち着かせた。

「おい」

不意に声をかけられる。びくりと肩を震わせた。振り向くと、ガラクは読んでいた本を閉じて私を見ていた。無防備に深呼吸をしていた姿を見られていたと知り、赤面した。

「な、何……?」

引き攣った笑みを浮かべながらそう言った。今度は何をやらかした。頭を早急に回転させるが全く見当がつかなかった。とりあえず謝罪の態勢は整えようと、身体を身構える。
しかし、声をかけた本人も続ける言葉に悩んでいるようだ。即座に言葉を発する様子が見られない。怒られるものだと思っていたので、ガラクの態度を不思議に思う。

「えっと……どうしたの?」

警戒を緩め、言葉を変えて再度問いかけるも、いまだガラクは悩んでいる様子だ。

その様子からも、私は質問を聞かずして、ガラクが何を尋ねようとしているのか察しがついた。あの時の彼の反応を思い返せばわかることだ。
どのように説明するか悩んだ。取り繕うつもりはないが、受け入れられるかが不安だった。特に裏街道では言葉選びには気をつけなければならない。

私まで黙ったことで、館内には気まずい沈黙が流れた。

やがて意を決したのか、ガラクが口を開いた。

「あれ?寝てた……?」

しかしそのタイミングでメイが起きた。身体を起こして、小動物のようにクシクシと目を擦る。しばしボンヤリした後、やっと私たちの存在を認識したようで、力なくふにゃっと笑った。

「おはよ~」

意表の突かれた私とガラクは、この場で会話を続けることが憚られた。それは互いに感じていたので、特に動じずメイに向き直る。

「おはようメイ。よく眠れた?」

「うーん、まだちょっと眠いや……」

メイは再びその場で眠ろうと身体を伏せる。それならアパートに戻ってふとんで寝ようと慌てて声をかけた。その提案に半ば流されるようにメイは「そうする~」と応えた。

ガラクもさすがに疲弊したのか、再び本を開く気配が感じられなかった。もしかしたら休息を取るのかもしれない。
なおさらこの場に留まることに気が引けたので、メイの腕を引いて図書館から出た。

アパートに戻って、まずはメイの部屋へ向かった。ふとんを整えると、メイは即座にそこへダイブした。
自室に戻ろうと立ち上がると、メイが「何か、アリスが頭を撫でてくれたような夢を見たんだ~」と言った。図書館でのことだろうか。それは夢ではないのだが。あの時のメイは起きたものだと思っていたが、記憶にはないらしい。
もう間もなく睡眠の海に沈没しそうなメイの頭を再び撫でて部屋を出た。
自室に辿り着き、ソファに座って大きく溜息を吐いた。

ガラクは私に何を問おうとしたのか。

恐らく死ぬ動機ではないのか。だからこそ慎重に言葉を選んでいたのかもしれない。
過去に触れないことが暗黙のルールだと感じていたが、それでもなお尋ねようとしたのは、ガラクにとって何か思うことがあるのかも知れない。どちらにせよ、いずれ尋ねられるのは間違いないだろう。

そんな未来を予想していると、再び睡魔が襲う。制服を脱いでふとんに横になった。

 

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