第三部⑨




ガラクの頬に真っ赤な雫がぽたりと落ちた。元を辿るとメイの手から流れ出たものだった。刃の部分をあまりにも力強く握り占めていることで手のひらが切れていた。

「メイ……手……!」

「やっぱりさ…できるわけないよ……だって…ボクの初めての友達だもん…」

メイの顔は今にも泣き出しそうだった。しかし涙は出ていない、いや涙が流せないのだろう。抑えきれない感情を消化できず、不完全燃焼状態のように見えてとても残酷だった。
メイの腕が力なく投げ出される。

「だって……死んじゃったらもう…お話できないじゃん…ガラクに本読んでもらうこともできなくなるじゃん…」

「メイ……」

メイは小刻みに震えている。小さな身体がさらに小さくなったように見えた。

長い沈黙。
それを破ったのは、ガラクの唐突な一言だった。

「おまえも表に帰らないか?」

「ガラク!?」

それは一番メイには言っていけない言葉じゃないのか。さすがに私でもわかることだ。
だがガラクは、調子を変えることなく言葉を続けた。

「おまえは表が残酷で無慈悲な世界だと思っている。オレもそう思っていた。だが、表は酷いことだけではない。ものの見方を少し変えるだけでどうとでも捉えられる。どのみちオレも目が死んでいるから、普通の生活はできんからな、二人でやり直せばいい。表でも一緒にいてやるよ」

何とも力強い言葉だ。ドラマの台本のようにすら感じられるセリフだが、ガラクは真剣な顔で言った。こんな言葉、相手が女子なら速攻落ちてしまうだろう。
そしてその言葉は、子どもの男の子にも有効だったようだ。

メイは唐突なガラクの提案に不意をつかれた表情を見せた。だがしばらくすると、表情を崩して微笑んだ。

「確かに、裏街道にいるのは生きた感じがしないよね……」

久しぶりに見る笑顔にどこか安堵した。

「メイ……」

「でもさ、ガラク……」

表情を変えぬまま、メイはまっすぐにガラクを見つめる。

「何だ」

「ボク、それだけは嫌なんだ」

突如、メイが腕を勢いよく振った。それと同時に血しぶきが舞った。

メイが、自分の首をハサミで刺していた。



「メイ!!」私は慌ててメイに駆け寄る。

メイが地面に倒れる。首からは勢いよく血が噴き出していた。さすがのガラクもこの状況には泡を食って身体を起こした。
私はメイの首元にタオルを当てるが、一瞬で真っ赤に染まり、なおも止まる気配を見せない。

「何してるの……何してるのよ……」

私の膝上で気道を確保するようにヒューヒューと息をするメイ。僅かに口を動かしているのがわかり、耳を口元に近づける。

「もういいよ、アリス……」

「よくないよ……!」

メイの小さな手が私の服をきゅっと握っている。私は片方の手でその手を包むようにして握った。

「だって…一人で裏街道に生きてたって…意味ないもん…それに表に帰るのだけは絶対に嫌なんだ……」

「だからって、こんなこと……」

「メイ、喋るな」

ガラクは低く落ち着いたトーンで言った。しかしその声には動揺と困惑が滲んでいた。
傷は首元だ。タオルで抑えているからかまだ辛うじて話せるようだが、それでもメイは口を開くたびに吐血した。

ガラクは止血の際に使用した自分の服を握り、メイの元へ寄る。
メイは私たちを見上げて力なく笑った。

「へへ…見守られるのって幸せだね……今一番幸せだよ」

「メイ……」

気づけば再び私の目は涙で溢れていた。
雫がメイの頬に落ちる。メイは物珍しそうな目で私を見て、頬に手を伸ばす。その手に引き寄せられるように私も身体を屈めた。

「こんなにきれいだったっけ…表にいる時さんざん泣いたのにな…」

「もう喋るな」

ガラクは先ほどよりも強い口調で言う。それだけメイの身体への心配が窺えた。
だがメイは喋るのを止めない。話すたびに喉の傷が開き吐血するが、むしろ今喋らなければならないという使命感すら見られる。

「ねぇアリス……ボク、あの時起きてたんだ…キミが死にたい理由を…話してる時……」

私ははっとする。まさかこのタイミングでその話を持ち出されるとは思わなかった。
メイの声はほぼ擦れている。私は先ほどよりも耳を近づけた。

「アリスはもしかしたらさ…自分の感情を出すのが怖かっただけじゃないかな……本当に無関心な人なら…他人に対して泣くはず…ないもん……」

そうだ。いままでの私はそうだったんだ。
少しでもメイに話す時間を与える為に黙って聞いていた。ガラクも観念したのか、もう何も言わない。

「内なる感情に向き合うのが怖かった…。それによって、傷つくのが怖かった…。アリスは周りを避けてたんじゃない。自分から逃げてたんだよ。…ねぇ、アリス」

私の名前を呼ぶ頃には、ほとんど発声されていなかった。

「君は、今でも死にたいって思っているの?」

その言葉を最後に、メイは動かなくなった。

 

いまだに流れる涙。そして腕の中には動かなくなったメイ。現実と受け入れられずに目を逸らしそうになるが、先ほどまで感じていたメイのぬくもりがだんだん薄れ、目で見なくてもメイが眠ったのは現実だと知ることになった。

私は急いでアパートへ戻った。着替えやタオル、汚れを流す水、そして絵本としおりを持ち、公園へ戻る。
血で汚れたメイの身体を水で濡らしたタオルで拭く。傷の手当をして服を着替えさせ、身なりを整えてベンチに寝かせた。そばにはしおりの挟んだ絵本も置いた。

メイをアパートまで運ぶか悩んだが、以前、公園が家みたいだったと言っていたことからも、この場で元気に遊ぶような住民も今のところ見ていないので、ここに眠らせることにした。

私はこの現状をしっかりと目で捉えてた。

メイは、死んでしまった。

「アリス」

ガラクに名前を呼ばれて頭を上げる。大きく息を吐いて、まっすぐ彼を見た。

「大丈夫。ちゃんと見えてるよ」

「……さすがだな」

いつも電池が切れたように眠るメイだが、今回はもう目が覚めることがないのだなと思うと、再び目から涙が溢れた。
メイの言葉が脳裏から離れない。

――――自分の感情を出すのが怖かっただけじゃないかな

そうだ。自分の感情を出すことで、面倒ごとに巻き込まれるのが嫌だった。
だから、徹底的に周りから避ける為に…

――――周りから避けてたんじゃない、自分から逃げてたんだよ

…そう言われたら、そうかもしれない。
私は今までこんなに胸が締めつけられる思いはしたことがなかった。涙なんて流したことがなかった。そして、そんな自分が存在するとすら思っていなかった。
答えの出せない感情に向きあうのが面倒だった。いや、怖かったんだ。

――――君は、今でも死にたいって思っているの?

何よりもそれは最初から決めていたことじゃないか。でも、どうして何も言えなかったのだろうか。

メイの頭を撫でる。いつもと変わらない柔らかくて細い髪だが、今は子犬のような温かさは感じられない。

改めてメイを見て気がついた。今ここで眠る彼は、とても幸せそうな顔をしている。自らこの道を選んだとはいえ、最後に幸せだと言った言葉は紛れもなく本心だったのだろう。
しあわせのかたちは、人それぞれだ。最後にそうと感じられて少し安堵した。

胸の前で手を合わせる。それに気づいたガラクも私に倣って手を合わせた。

私たちは公園を出た。
ガラクは少し足を引き摺りながらも歩いてる。もはやケガの痛みなど忘れているようだ。

「おまえはこれからどうするんだ」唐突にガラクは尋ねる。

「……わからない」

実のところ、私の中で迷いが生まれていた。死ぬことが怖いわけじゃない。でも、メイやガラクに言われた言葉が脳内で渦巻いていた。

このままあと数日でも裏街道にいたら目は確実に死ぬ。メガネがなくても表と変わらないほどに周りが見えていることからもそれは実感できた。でも、表に戻ったところでやることといえばひとつしかない。しかし、このもやもやした感情が消化しきれてないまま遂行していいものなのか――。

「だったら、少し手を貸してくれ」

沈思黙考を続けていると、ガラクは調子を変えずに言葉を続けた。もしかしたら私のこの反応すら見越していたのかもしれない。

「手を?」

その言葉には反応を示さずに、ガラクは図書館へと歩き始める。

「足……大丈夫なの?」

「大丈夫ではないが、感覚が麻痺しているのかもな」

ガラクは苦笑する。
例え受け身だとしても長い間一緒にいたんだろう。そんな存在が突然この世からいなくなったショックで痛みが飛ぶことも変ではない。

図書館に辿り着く。ガラクは本が乱雑に積まれた定位置に向かった。私も続こうとしたが、彼はすぐに戻ってきた。手には分厚い本を持っている。

「こっちだ」

顎で図書館の奥を指して歩き始める。彼が何をしようとしてるのか見当がつかないまま後に続いた。

一番奥の本棚に辿り着く。その本棚にはびっちりと蔵書が並んでいたが、上部に一か所、歯抜けた状態の箇所があった。身長の高いガラクが手を伸ばして届くほどの高さだ。
ガラクは手に持っていた本を空いたスペースに置いた。

すると、どこからかカチッという音が聞こえた。その音を確認したガラクは、本棚を手前に引っ張った。ズズズ…と重みの伝わる音が響き、本棚が回転した。その奥に扉のようなものが確認できた。

目を見張った。まさかこんな場所に部屋が存在するとは思わなかった。それも図書館。物語でよく見られるベタな設定だ。だからこそ心臓も高鳴った。
ガラクは奥の扉を開けた。

扉の先は、六畳ほどの広さの部屋だった。本当に隠し部屋のようだ。
ガラクは無言のまま、中央に置かれている机に向かう。私も部屋に足を踏み入れるが、室内を見て先ほどまで湧いていた高揚感が一気に冷めた。

机上は本と工具で散乱していた。室内を見回すと、服やガラクタのようなものが山積みになっている。日用品やふとんがあることからも、ガラクはここで休息していたのだと見当はつく。だが、あまりにも散らかりすぎだ。
私の顔面は引き攣る。また、知らなくてもいい現実を見てしまった。

「ガラク…もう少し、片付けられるようになった方がいいよ……」

ガラクが普段いる定位置も周囲は本で溢れていた。面倒見が良いと感じていたが、自分のことには無頓着なタイプなのだろう。

「こういったことは苦手なんだ」

ガラクは、机の上を漁りながら、開き直ったように言う。
母親が過保護だったと言っていた。身の回りのことは全て母親が行い、ガラクの全ては仕事に捧ぎ込んでいたんだろう。彼が裏街道に来た年齢を考えても仕方ないことだとは思う。
ガラクの過去は重々理解しているが、それにしても酷いありさまだ。

そこでとあるものが目に入った。部屋の隅に雑誌や新聞の束が置いてある。それと同時に、コンビニに週刊誌が陳列されていなかったことを思い出した。
私は口を噤み、じっと雑誌の束を見ていた。

「これだ」

私はガラクへと視線を戻す。彼は所持していた品を私に渡した。

「それが、恐らく目の死んだ人間が、表で生きる為に必要不可欠なものになる」

受け取った品を見ると、メガネのようなものだった。だが以前渡されたメガネとは違い、このレンズはオーロラ素材のようで、傾けると虹色に光った。

「これ、どうしたの?」

「オレが作った」

ガラクはサラッと告白する。私は目を丸くした。

「裏の人間が表で生きるには、やはり目の代わりになるようなものが必要だ。だからそういったものを試作してたんだ」

「よ、よく作れたね……」

素直に思ったことだが、何とも知能の低い反応だ。それだけに理解が追いついていなかった。こんなハイスペック技術をガラクは持っていたのか。

「ゼロから作るのはさすがに無理だ。だが、参考になるものがあった」

そこで私を指差す。

「おまえに渡したメガネがあっただろ。あれは例の本と一緒に、この部屋に置いてあった。それらが何故置かれていたのかはわからんが、……まぁ、言うなれば、この世界を創った奴が、表世界の攻略の為に、ここに訪れた人間を補佐する便利アイテムとして、きまぐれに置いたものかもしれん」

肩を竦めながら、冗談なのか判別のつかないトーンで言った。まるでRPGで異世界に飛ばされた主人公が、チートアイテムをゲットしたのかような説明の仕方だ。

「裏用のメガネだから、仕組みを反対にすればいいだけだからな。ただ色が判別できないからその辺りは弄った。表用のメガネを置いてないところが憎いもんだ」

ガラクは軽い調子で言う。だが、周囲に散乱した試作品の量を見るだけでも、どれだけ苦労したのかが窺える。

私は目を落とす。ガラクに屋上のことを相談した際、彼は裏街道の住民の性質を当たり前のように口にした。だが、それらを知っていたのも全て、自分が表に立ち向かう為に得た知識だろう。逃避だけを望む者なら、わざわざ逃避先の世界について労力を伴ってまで知ろうとは思わないはずだからだ。都合の良いことしか見ないここの住民の性質からもわかることだ。

また、一度ガラクとショッピングモールで出会った。彼の性格や本来の目的を知った今、娯楽向けの本を調達する為だけに、遠方まで足を延ばすとは思えない。先ほど「表の攻略の為に図書館に訪れた」と言ったことからも、本を読み始めたのは、現実と向き合う知識を得る為だとわかるからだ。
本を調達する体で備品の調達を行っていた。隠し部屋のスイッチがガラクの身長でしか届かない高さであることからも、メイへの配慮が窺えた。

再度、手元のメガネを見る。
ここに辿り着くまでに、どれだけの時間を費やしたのだろうか。本人は至って労力を感じさせない態度なので錯覚を起こしそうになるが、彼の言動ひとつひとつに努力が隠されていたと気づいた今、素直に感心した。

裏の世界を創造した者は、現実から逃避する為の場所を創ったと同時に、現実と立ち向かうきっかけも作った。何を思ったのかはわからないが、そのおかげで、ガラクは前を見ることができたんだ。

「それでだ。実際、おまえにそのメガネを表で使用してもらいたいんだ」

ガラクの声が耳に届いて、顔を上げる。

「私が?」

「あぁ。完成はしたが、試用したことがないからな。だが、オレの目はもう死んでる」ガラクは淡々と口にする。

「そ、それって……私を実験体にするってこと?」

「もしオレが試用して、万が一があったら困るじゃないか」

ハッキリと言った。あまりにも平然として言うものだから、私は開いた口が塞がらない。

「それに、おまえの為でもあるんだ。このタイミングで一度表に帰らないと、目は完全に死ぬ。このメガネを使用すれば回復も早いはずだ」

確かにガラクの言う通りに、一度帰るならこのタイミングだとは考えていた。それに彼が、どれだけの時間をかけて表に戻る準備を行っていたのかも、ひしひしと感じられる。
しかし、何だか釈然としない。

「生きることに慎重なんだね」皮肉を交えて答える。

「当たり前だろ。一度死んだら、もう二度と生き返らないんだからな」

しかし、ガラクは私の皮肉を軽く流す。そんな彼があまりにも爽やかだった。

 

***

 

それから私たちは、例のトンネルに向かっていた。足を安静にした方がいいと言っても、今はドーパミンが出ているから平気だ、とガラクは聞く耳を持たなかった。よほど表に通じるトンネルの存在が気になっていたんだろう。
私は制服に着替えていた。いつもはメイの背中を追行していただけだったので、あやふやな記憶を頼りに歩く。

トンネル前の大階段で、中々上がってこないガラクを心配して、後ろを振り向く。
案の定というべきか、ようやく感覚が戻ってきたようで、ガラクは太もものつけ根を抑え、手すりに寄りかかるようにしながら慎重に上っていた。

「気にせず上がれ」

足を止めた私に気づいたガラクは、余計なお世話だといった調子で無愛想に言う。しかし、どう見てもやせ我慢にしか見えない。それにまだ先は長い。

小さく溜息を吐く。ガラクは意外と子どもっぽい一面がある。
私はガラクの元まで下り、肩を貸すように身体を支えた。

「……何の真似だ」

「演技、へたくそになったんじゃない?」

なんてことないんじゃないの?と皮肉をつけ足す。
ガラクは無言で私を睨むが、観念したように体重を預けて上り始める。

時間はかかったが上り切ることができた。近くにベンチがあったので、そこにガラクを座らせる。目の前には見覚えのあるトンネルがあった。

「ここが、それなのか」

「うん。間違いないよ」

目が慣れたからだろうか、トンネル内は以前のような暗さは感じられず、中の様子が窺えた。
近づいて確認すると、トンネル内全体がどこかの街の様子を映しているようだった。一定時間を過ぎると場面が切り替わる。監視カメラ映像でも映しているようだった。ここに映っているのは表の世界だろうか。

「何……ここ……」

どこが上か下かも判別できない。目が回りそうだ。以前表に帰った際に、メイがあれだけうろうろしていたのも理解できた。

あ、とそこで気づく。遠方に私のハートのヘアピンのようなものが見えた。あの場所が恐らく、私の部屋の鏡に通じるのだろう。

早く帰ったほうがいいよ、と言うミカの声が聞こえた気がした。
振り返って街を見渡す。何度か見た光景と変わらない物音がしない静寂に包まれた街だ。
しかし、以前見た光景と大きく違うのは、色彩豊かな明るい街に見えていることだ。

「裏街道はどう見えてる?」ベンチから問いかけるガラク。

「とても、明るいよ」

「そうか、だったら早く帰った方がいい」

私はポケットからスマホを取り出して、ガラクに差し出した。
扱い方がわからないのか、ガラクは首を傾げたので、私はスマホの電源をつける。画面には「二○一九年八月二十八日 九時二十分」と表示された。

「ギリギリだね……。とりあえず、一日は表にいようかなって思う。だから、その時計で二十九日の九時頃になったら裏街道に戻ってくるよ。ここには時計がないからさ、それ持ってて」

物珍しそうに画面を見るガラク。そんな様子がおかしくて口元が緩んだ。

「ちゃんと帰ってくるから」

安心させるように強く言うと、ガラクは顔を上げて私に向き直った。

「あぁ。待ってる」

その言葉に背中を押され、私は再びトンネルに向き直る。
虹色に光るメガネを片手に、ヘアピンの置いてある位置まで歩き始めた。

 

第三部 完