終【完結】




「そこまで。みんな、ペンを置いて」

チャイムと共に、教壇に立つ試験監督長が叫ぶ。その言葉を皮切りに、辺りで一斉に脱力する声が漏れた。
教室内の隅に佇んでいた試験監督バイトたちが立ち上がり、颯爽と解答用紙を回収する。
諸々のチェックが済んだ後、改めて試験監督長が終了の旨を叫んだことにより、張り詰めていた空気が一気に和らいだ。

張ったヤマが当たったとコブシを挙げる人、全然ダメだったと頭を抱えて落胆する人、どうせ滑り止めだからと余裕綽々な人。
私は自己採点で悠々合格ラインを超えていると確信していたが、特に表情に出すこともなく教室を後にした。

外に出ると、眩しい日差しが襲ってきたので、反射的に額に手を当てがった。
雲ひとつない快晴だ。日に照らされた雪が溶解し、辺りはきらきら輝いている。
昨晩は大雪で今日の交通の便に懸念が生じたが、特に運行状況が悪化することもなく、時間通りに試験会場に辿り着くことができていた。

目前にそびえ立つ校門に目をやる。さすが私立大学というべきか。公立高校とは比べものにならないほどに大きくて立派だ。
門の近くには何かを記念した銅像があり、脇には丁寧に手入れされた花がたくさん咲いている。雪溶けによって一層花の美しさが際立っているようだった。
見慣れない光景に少し歯痒くなり、マフラーに顔をうずめて校門を抜けた。

ひとまず、大学受験が終わるまでは生きよう、と決めたのは、家族が田舎から帰ってきた日のことだ。
その日は再び映画を見ていた。セリフやカメラワークもほぼ覚えたほどだったので、もう何回再生したかもわからない。留守電で母がおみやげがあると言っていたので、せっかくならば堪能しよう、と少しだけ心待ちにしていた。

しかし、現実はそう甘くない。家族が持ち帰ってきたのは、親戚から譲りうけた教本や単語帳といったものばかりだった。ただでさえ毎日勉強漬けの受験生に、追いうちをかけるような仕打ちだった。
だが私は、勉強漬けどころか、予定していたオープンキャンパスひとつすら行けていなかったので、家族や親せきの心遣いに、少し罪悪感を感じていた。

そこでふと、せめて受験くらいは頑張ってみるのもいいかもしれないと思った。
高校の偏差値はそれほど高くないにしろ、入学当時から大学受験に向けて教育課程が整えられていたので、この三年間で備わった知識を利用しないまま卒業するのも惜しく感じた。

そして1月下旬。今日がその受験日だ。

校門から少し離れた位置にあるバス停に到着すると、カバンからスマホを取り出して時間を確認する。ガラクが時間を知る為に使用したいと言い、スマホを裏街道に置いてきたので、新しいものを購入していた。
電源を入れると、「二○二○年一月二十九日 十三時二十六分」と表示される。バスの到着時刻までは、まだ十五分ほどあった。
誰も並んでいないバス停に一人、そばにある年季の入ったベンチに腰かけて空を見上げた。

これから、どうしようか。

目を瞑り、白い息を吐きながら余韻に浸る。
受験の後に燃えつきて命を絶つ人がいる、という話はどこかで聞いたことがあるが、今なら理解できる。高校三年間で培ってきたこと全てを出し切ることが目的だったので、正直結果には興味がなかった。

今なら、後悔なく気持ちよく眠れそうだ。

「燃えつきてるな」

突然、頭上から声が降ってきた。
聞き覚えのある声にはっとして目を覚ますと、目前には私を見下ろす青年の顔があった。

「え?」

不意打ちのことに反応がワンテンポ遅れる。身体を起こして青年に向き直った。

襟足が長めの漆黒の髪が、日に照らされて青く光る。ぶ厚いダウンを着込んでおり、口元までマフラーで覆っていた。かけられたメガネのレンズは、角度を変える毎に虹色に輝き、ウィンタースポーツ選手を彷彿とさせる風貌だ。受験会場には制服の高校生が大半を占めていたので、彼の私服姿がとても目立った。
顔面は半分以上隠れ、着込んでいることで身体の線は隠されているものの、それでも彼の整った顔やスタイルの良さが滲み出ていた。

「今から死ぬのか?」

冗談か判別のつかないトーンだが、青年の口元には笑みが浮かんでいた。

「……相当な死にたがりだと思っているのね」

「じゃなければ、何なんだ」

すっとぼけている様子もなく、ただ単純に疑問に思ったことを口にした軽快さだ。実際的を得ていたので、私は聞こえないふりをした。

青年は私の隣に腰を下ろす。無意識に太もも付近に目がいくが、難なく動かしていることからも、ケガは完治したようで少し安心した。

「髪……染めたんだね」

「あぁ。さすがに白髪は目立つ」

髪は黒い方がいいからな、と前髪を弄りながら青年は答える。

「試験、大丈夫だったの?確か十七歳までしか高校に通ってなかったんだよね」

「まぁ、少なくとも、おまえより点は取れてるはずだ」

「それは、否定しない」

青年が所持している本に目がいく。挟まれているしおりから伸びる青いリボンが風に揺れた。

八月三十日に表の世界に帰ってきてから、鏡は裏街道に通じなくなった。
何故道は断たれたのか。何がキッカケだったのか。結局最後まで仕組みはわからなかった。

この一ヶ月の出来事は、現実だったのか夢だったのか、しばらく判断ができなかった。
購入した記憶のないブローチが鏡の前にあることも、本棚と救急箱の中が空になっていることも現実だが、それらが何でどこに消えたかの確証がなかった。あの後、母にさんざん追及された時はどう弁解すべきかとても頭を悩ませた。
だから結局、夏の世にも奇妙な体験として、心の内に秘めていた。

しかし今、裏街道の住民だったガラクが表の世界に帰ってきていることは、紛れもなく現実のようだ。

どこからか視線を感じた。気配のする方へ顔を向けると、数メートル離れた先に、私たちを見ながらひそひそ話している二人組の女の子がいた。制服を着ていることからも私たちと同じ受験生だろう。
彼女たちの視線は、私の隣に座るガラクへと向けられている。

私が気づいたことで意を決したのか、二人組の女の子が近寄ってきた。

「あの……すみません……。私、あなたの後ろの席でして……偶然見えたんですが……」

女の子はおずおずとガラクを見ながら、そう前置きした。
ガラクは、彼女たちに無言で顔を向ける。メガネとマフラーで顔が隠されていることで表情は読めないが、ずいぶん慣れた対応だ。

「『城陽我楽』ってもしかして、昔テレビに出ていた方ですか…?」

吹き出しそうになりマフラーに顔をうずめた。隣のガラクを一瞥するが、微動だにしていない。

「……別人だ」

一瞬反応が遅れたが、ガラクはハッキリとした口調で否定した。その言葉を聞いた女の子は顔面が真っ赤になった。

「あっ、そ、そうですか……!すみません、いきなり……」

女の子は慌ててそう言うと、そそくさとこの場を離れた。離れてすぐ「ほら言ったじゃん。だって引退したの十年以上も前だよ」「でも同姓同名って中々なくない?それに外見も何となく……」といった会話が聞こえてきた。照れ隠しからなのか、声が大きくてこの場所まで丸聞こえだ。
私たちの間には、微妙な空気が流れた。

「…………嘘吐き……」耐えきれずに、ぽつりと呟く。

「別に、嘘を吐いたわけじゃない」

ガラクは白い息を吐きながら深々と座り直す。いや、本人じゃないか。
しかし彼が、あの頃の自分と今の自分が別人だと表現した意味は何となく理解できたので、それ以上突っ込むことはしなかった。

「でも、それだったらそのオーラ、もう少し隠せないの?」

「これ以上、どこを隠せと言うんだ」

ガラクは両手を広げる。確かに視覚的に見えているのは頭と鼻だけだが、ぶ厚い布で遮光されてもなお、輝きは秘めることがない。
ずっと光の当たらない暗い舞台袖にいたから気づかなかったが、元々表舞台の、さらに明るい位置に立っていた人なんだな、と改めて実感した。

女の子たちの会話が聞こえていたのだろうか、気がつくとこちらに、ちらちら視線を向ける人たちが増えた。あまりこの場に留まって騒ぎになるのも困る。

別の交通の便を考えるべきかと思案していると、ガラクが尋ねてきた。

「この辺りに、図書館はないのか」

「え?」

「どうせ時間はあるだろう。ならば少し付き合ってくれ」

 

***

 

私たちは、街で一番大きな中央図書館に来ていた。裏街道でガラクのいた図書館の三倍の広さはありそうだ。平日にも関わらず、結構人が多い。

隣に立つガラクを一瞥する。色つきレンズで隠されていて正確には読めないが、たくさんの蔵書に、心なし浮き立っているようだ。
さっそく館内の詮索に入ろうとしているガラクに念を押す。

「ちゃんと、読んだ本は元に戻さないとダメだよ」

子どもを躾けるような声のかけ方になる。そのことが彼にも伝わってしまったようで、無言で振り向き私を睨んだ。視線に気づかない振りをして天井を見上げる。
私は今日まで毎日参考書とにらめっこしていたことから文字を読む気になれなかったので、近くの椅子に座って脳を休ませた。

十分ほどで、ガラクは両手に十冊近く抱えて戻ってきた。

「早いね」

「人が多いから、ここで読む気になれない」

「だから持ち帰るんだ」

しかし、そのまま外に出たので、入口の警報が鳴り響いた。

「ちょっと、ガラク……!」

図書館で本を借りたことがないのか、裏街道にいた時の癖なのか、何故警報が鳴ったのか理解できていないガラクの腕を引っ張り、そそくさと受付カウンターへと向かった。もちろんレンタルカードも所持していなかったので、その場で発行手続きを行った。

カウンターのお姉さんは、ガラクの名前を確認すると、一瞬目を丸くするも、咄嗟の反応に恥ずかしくなったのか、己の使命を思い出したのか、目を逸らしながら作業に戻った。
難なくカードが発行されたので、貸出手続きを行って図書館を出た。

「ガラクって、本当に有名だったんだね」

帰りのバスを待ちながら感心して口にする。二人組の女の子や、カウンターのお姉さんの反応を見て、改めて実感したことだ。
表に戻ってきてから注意を向けたことで気づいたが、いまだにメディアでガラクの出演作品を取り上げられたり、テレビやネットで名前を目にすることがあった。

「むしろ、おまえのような人間に出会うことの方が珍しかったな。本当に関心がないんだな」

素直に驚いているのかもしれない。有名な芸能人は、自分のことを知らない人に出会う方が新鮮に感じる、とも聞いたことがある。
しかし、私にとったら皮肉にしか聞こえなかったので、彼に引き攣った顔を向ける。

「でも私は、図書館で警報を鳴らすことなく、本を借りることはできるけれど」

嫌味をガラクが聞き逃すはずがない。メガネの上からでもわかる険しい目を私に向けた。
反撃に備えて臨戦態勢に入るが、彼の返答は不意を突いたものだった。

「ただでさえオレは、こいつがないと生きられない、ハンディキャップを背負ってる」
そう言って、トンッとメガネのテンプルを叩く。

「え?」

「それに、十一年だ……。それ以前も、まともな生活はしていなかった。知識があったところで、時代に順応するには時間がかかる」

何を言おうとしているのか見当がつかなかった。私は警戒を解き、黙って聞いていた。
本人も思考しながら言葉を発しているようで、注意深く耳を傾けないと聞き逃しそうになるほどに、たどたどしくて抑揚のない声だった。
彼にしては珍しく、だからこそ台本でないということが伝わった。

「あいつの寂しがりが移ったわけではないが……そんな世界に一人でいるのはやはり恐い。だから――」

ガラクは、眩しそうに空を見上げながら、大きく息を吸った。

「せめて、オレが卒業するまでは、おまえがいてくれると助かるのだが」

予想だにしていなかった申出だ。驚きを隠せぬままガラクに顔を向けるが、言った本人は涼しい顔をしていたので、少し拍子抜けした。

「それは、私に死ぬなって言ってるのかしら」

自嘲気味に言うと、彼は勘違いするなと言いたげな顔を向ける。

「どうせ死ぬなら、生きたがりの役に立ってからにしてくれ」

「素直じゃない」

そう言うと、ガラクは口角を上げて微笑んだ。いつもと違う反応に少し戸惑った。

「死を覚悟しているだけに、オレの知る中で、おまえが一番無敵なんだ」

裏街道で身に染みて感じたことだ。死を覚悟すると、時に行動力を生む。

卒業か――。

もう、考えなくても答えは出ていた。

「確かに、せっかく受験したし、それにトランプのリベンジもまだだし、それからでもいいかも」

「まぁ、まだ受かったと決まったわけではないがな」

私たちは笑っていた。
日は高く昇ってる。雪の溶解は一層進み、雫は光に反射して虹色に輝いていた。こんな身近な場所でも色を感じることができるのだな、と新たな発見をした。

「……だったらさ、私からもひとつ」

「何だ」

メイのことを思い出していた。自ら選んだ道とはいえ、望んだ結末ではなかったのかもしれない。
ただ、最期のメイは、私たちに見守られてとても幸せそうに見えた。

「私も……正直一人は怖いんだ。だからさ……」

私は、ガラクと違ってただの一般人だ。だから例えそんな意味は含んでいなくても、口に出すには少し歯痒い。無意識に顔を空に向けていた。

太陽が眩しくて目を細める。それでもなお感じる、温かい日差しだ。

「死ぬときは、そばにいてほしいな」

 

人間裏街道――――――完。