第一章『青天に映える白』②




昼休みを知らせるチャイムが鳴る。
昼食を取る為に食堂へ向かう者や、席をよせる者が目に入る。いつもの癖でナナミを待っていたことに気づいて溜息を吐いた。

昨夜は考えごとをしていたせいで寝つけず、今朝はお弁当を作る時間がなかった。
視線を落としてそそくさと食堂に向かう。

食堂内は、揚げ物の匂いで立ち込めていた。すでに混雑し始めていたが、幸い空席を発見した。使い古されたトレーを片手に、この食堂で一番コスパの良いチキン南蛮を注文して席に腰かけた。
時間が経つにつれて食堂内は騒がしくなる。そこらで笑い声や食器音が響いていた。

孤独を感じた。私自身、積極的に交友関係を築く性格でもなかった為、それこそナナミとリョウヘイくらいしか仲が良いと呼べる友人がいなかった。
もう三年生だ。ナナミの存在の偉大さを改めて実感した。
無心でチキン南蛮をほおばっていると、隣に人影が表れる。それと共に、制汗スプレーの香りが舞った。
顔を上げると、クラスメイトのハヤミくんだった。

「ここいい?他に席が空いてなくって」

「あ、うん。全然大丈夫だよ」

私は気持ち端に寄るようにスペースを空けた。彼は大きな身体を屈めて席につく。

机に置かれたトレーを見て目を丸くした。茶碗の倍はよそわれたごはんに、特大サイズのチキンカツ。私の皿に乗るチキン南蛮の四倍はある。

「たくさん食べるね」素直に驚いて声に漏れた。

「動くと腹が減るからなー」

ハヤミくんは爽やかに答えると、カツに手をつけ始める。首元からアンダーシャツが覗いてる。彼は野球部だったはずだ。

気がつくと、周囲は席を探す野球部の人で溢れていた。先ほどまで練習していたのか、入口付近には、スポーツバッグが大量に置かれている。

「あ、シュンぬけがけしてる!」席を探す球児の一人が声を上げた。

「腹減ってたんだって。それにミーティング間に合わないだろ」ハヤミくんはあっさりと返す。

その言葉を聞いた球児は、「え、うっそあと十五分もねーじゃん」「立って食うしかなくね?」「オレ、ラーメン頼んじまったんだけど」とわらわら騒ぎ出す。

「ちょっと、うるさいから」
ハヤミくんは野次馬を追い払うように手を振った。

ちょうどそのタイミングで団体が席を開けたようで「確保――!」の声と共に、椅子取りゲームをするように球児たちが走り出した。

私は呆気に取られていた。台風が過ぎ去ったような感覚だ。

「ごめんな、あいつらうるさくて。今日はいつも以上にテンション上がってるんだよ」ハヤミくんは弁明する。

「何かあったの?」

「あ、実は今日、試合に勝ってさ。あと二回勝てば甲子園」

ハヤミくんは白い歯を見せてピースする。満点を取った答案用紙を母親に見せる子どもに見えて、口元が緩んだ。

「すごいね!おめでとう」

「ありがとう。まだ気は抜けないけどね」

ハヤミくんは、会話しながらも手を止めず、器のおかずはみるみるうちに減っていく。

茫然と眺めていると、ハヤミくんは不意に手を止めて天井を見上げた。

「準決勝、明後日なんだ。日曜だし、風嶺もよかったら観に来てよ」

「え?」

「あ、全然無理強いはしてないよ。でも風嶺、最近ずっと浮かない顔してるだろ」

ハヤミくんは毒気なくさらりと口にした。
私は気を抜くとナナミの席に顔を向けていた。後ろの座席の彼は、私の視線に気づいていたのだろう。

「気持ちはわかるけど、だからこそ気分転換にもなるかなって。球場から見る空ってすごくきれいなんだよ。ついでに応援してくれると嬉しい」
ハヤミくんは照れ臭そうに言う。彼の言葉はどこもトゲがなく、スッと耳に届いた。

「ありがとう。応援しに行くね」

気づけばそう答えていた。
私の言葉を聞いたハヤミくんは、少し目を丸くした。

「まさか、そう言ってくれるとは思わなかった」

「え?」

「だって風嶺、彼氏いるんじゃないの?」
ハヤミくんの視線は、私の左手薬指に注がれていた。

「あ、これはちょっと色々あって…………」

「色々?」

私は言葉に詰まった。ゲームのことは言えないし、彼氏のふりしてもらったとも言い辛い。本当のことは言えないが、私は嘘を吐くのが下手だ。

「と、とにかく彼氏はいないので、その辺りの心配は大丈夫です……」

結果、何の説得力もない回答をしたが、気を遣ってくれたのか、それ以上は質問されなかった。

「でも嬉しいな。気合入れて頑張るよ」

いつの間にか食べ終えていたようで、ハヤミくんはトレーを持って立ち上がる。あの量を五分ほどで平らげてしまったことに素直に驚いた。

「頑張ってね」

「ありがとう。じゃ、会えたら日曜日に」

ハヤミくんは、ひらひらと手を振って席を立つ。手を振り返してそのまま視線を落とした。

何度も学んだはずなのに、私は周囲の人に支えられてばかりで情けなくなる。
ゲームについて知られるとペナルティを受ける。少しでも態度や言葉に出さずに普段通りに生活しないとダメだ。
ナナミを救う為に、元の生活に戻る為に、今は前を見るしかない。

頬を叩いて気合を入れる。その勢いでチキン南蛮を口いっぱいにほおばった。

 

***

 

学校が終わると、今日はスーパーへ寄らずに帰宅する。
金曜日。リョウヘイの家で夕食にお邪魔する日だ。

ベルを鳴らすと、リョウヘイが迎えてくれた。大胆なプリントTシャツにスポーツブランドのジャージ、コンタクトを外したメガネ姿。見慣れた格好だ。

「今日も、お世話になります……」

「ん」リョウヘイはドアを開ける。
支えてくれてるドアの隙間から中に入った。

リビングを覗くと、リョウヘイ母と目が合った。

「ユイちゃんこんにちは~。もう少しかかるから、リョウヘイの部屋で待っててね。今夜は中華よ~!」

リョウヘイ母は、通る声で叫んでウインクする。
ブリーチされた明るい髪にショッキングピンクカラーのエプロンも相まって、彼女には年齢を忘れさせる若々しさがあった。

「はい。ありがとうございます」

チャーハンの焼ける香ばしい匂いが空腹を刺激する。軽く会釈をして二階に上がった。
リョウヘイの部屋は、家具がモノトーンで統一されており、ゲーム機や漫画の類は置かれていない。その代わりに、棚にはアクセサリー類や香水が飾られ、クローゼットには大量の衣服が収納されている。
また新しいものが増えたな、と思えるほどには、馴染みのある部屋になっていた。

「そういや、あのメガネのやつ。やっぱオレんとこ来たわ。見かけによらず、行動力あるよな」

リョウヘイがベッドに座る。私もそばのクッションに腰を下ろした。

「あ、やっぱり来たんだ……」

「そりゃあ信じたくねーわな。でも、この指輪をしてたら、妙に納得した感じだった」

そう言って軽く左手を振る。私は気まずくなった。

「何か……本当にごめんね、リョウヘイ」

まさか想われていると思わなかっただけに、彼に彼氏役を頼んだことを申し訳なく感じた。

「謝んな。そもそも、オレが言い始めたことだ」

リョウヘイは怪訝な顔で声を荒げる。忘れたいのはリョウヘイの方なのかもしれない。私は口を噤んだ。

「で、気になったから調べたんだけどよ、この指輪、結構いい値段するじゃねぇか」

リョウヘイは私をじっと見る。その目は疑いの色が混じっている。

「な、何……?」

「おまえ、これ本当に懸賞で当てたのか?」

思わず顔が強張った。その一瞬の反応で、彼は嘘だと見抜いたみたいだ。

「……違うのかよ。でも、おまえがこんな高いもん買うわけねぇよな。どうやって手に入れたんだ」
リョウヘイは溜息を吐く。私は頭を悩ませた。

ここまでリョウヘイを巻き込んでおいて、さらに心配をかけたくない。とはいえ、鋭い彼を前に、上手く誤魔化せるはずもない。

「私宛に、送られてきたの……」
逡巡した結果、正直に告げた。

「送られて?」

「うん。ポストに入ってたの。でも差出人は書いてなかった。だから初めは捨てるつもりだったんだけど……」

「でも調べたらいい値段するし、優待も気になった。それに加えて告白の呼び出しがかかり、オレに彼氏のフリしてもらえることになった。これだけ条件揃ってたら、そら使いたくはなるわな」

思考を理解したようで、私が口にするよりも先にリョウヘイは言う。私は無言で彼に顔を向けた。

「……リョウヘイって、エスパー?」

「おまえと何年いると思ってんだ」

もはや呆れたように口にされる。本当に彼には敵わない。

「指輪ってどんな状態で届いたんだ?」

「えっと……小包みたいな感じだった。両手を広げたほどの、小さな箱が梱包されて紐で括られてたの」
両手を使って大きさを示す。

「あ、そっか。おまえん家のポスト、ある程度の小包は入るんだったな」とリョウヘイは頭を掻く。「でも普通、箱だとポストに入らねーだろ」

確かに、うちの家のポストはアメリカンポストタイプなので小さい箱なら入るが、通常はポスト投函できない大きさだ。

「梱包とかちゃんと確認したんか?おまえん家を知ってる奴の心当たりは?」

「名前が書かれてたから、ちゃんと確認してなかった……。家で遊ぶこともほぼないから、それこそリョウヘイかナナミくらいしか……」

「不用心だな。一番てっとり早いのは、指輪を送ってきた奴を突き止めることだな。届いた箱とか後でオレに渡せ」

「リョウヘイに?」

「あぁ。色々調べてみるからよ」

とにかくおまえは自分のことだけ見てろ、とリョウヘイは言う。私は目を落とす。

「本当に……ごめん」

「そこはありがとう、と言ってもらいたいもんだ」

「うん、ありがとう」

そう答えると、リョウヘイは満足気に頷いた。

私に課せられた『恋愛ゲーム』。
恋愛未経験の私は、根本から理解していなかった。

「人を好きになる気持ちってさ……どういうものなの?」

姉と両親の件からも、正直恋愛に良い印象を抱いていない。今まで避けていたので、どのような感情がそれに該当するかがわからなかった。

リョウヘイは、顔を強張らせて私を見る。

「それ、オレに聞くんか?」

確かに、無神経なことを聞いているとはわかってる。

「ごめん。でもリョウヘイしかこんなこと聞けないの。ナナミには聞けないし……」

下を向いた私に見かねたのか、リョウヘイは小さく息を吐き、「例えばだ」と話し始める。

「おまえは、スーパーで特売の牛肉を目にしたとする。予算ギリギリ購入できるほどの値段だ。今晩これを買えば、しばらくは幸せになれる。しかし、牛肉を我慢して鶏肉にすれば、倍の量のからあげが食える。おまえは悩む。そんな時に脇からおばさんが現れ、颯爽と牛肉を手に取りレジに向かう。その瞬間、何故すぐにかごに入れなかったと後悔し始める。家に帰っても風呂に入っても牛肉のことが頭から離れねぇ。一週間経っても一ヶ月経っても未練たらたらのままだ。恋愛って、そういうもんだ」
リョウヘイは、至極真面目な顔で言った。

「リョウヘイ」と私は彼に顔を向ける。「私、真剣に聞いてるんだけど」

「オレも真剣に答えてる」

「リョウヘイにとったら私は特売の牛肉なの?」ともはや投げやりに聞くと、「いや、おまえはショートケーキのいちごだな」と答える。会話にならない。

欲しいものを手に入れたい、という感情が恋愛なのだろうか。

「じゃあキスしたいって気持ちは、美味しいものを食べたいっていう感情なの?」

軽い調子で尋ねた。また変な理屈が飛んでくるのは、目に見えている。

カウント条件は「唇へのキス」だった。
私はもちろんしたことがない。ドラマや漫画の中でしか見たことがないので、正直想像がつかなかった。

反応がなく、違和感を感じて顔を上げると、リョウヘイは「子どもの頃、親のスーパーの買い出しについていった時に、菓子売り場の次に好きだったのが加工肉コーナーでよ」と語り始める。

「何の話?」

「加工肉の並んだ場所には、大抵ウインナーやハムの試食が置いてあるだろ。どんな味かわかりゃ、購買意欲も高まる」とリョウヘイは言う。確かにその通りではある。

「で、それとこれと何の関係が?」

「味は知っとくべきだ、ってことだ」

予想していなかった返答に、目を丸くした。

「したことねぇんだろ。練習は必要のはずだ」

そう言いながらも、目を合わせようとしない。しかしリョウヘイは、基本的に冗談は言わない。

リョウヘイに付き合わせることには気が引けたが、クリアの為には三人とする必要がある。確かに練習は必要かもしれない。

「リョ、リョウヘイがいいなら……」

と答えた瞬間、視界が暗くなり、反射的に目を瞑る。
目を開くと、リョウヘイの顔が至近距離にあった。彼のつけている香水が普段以上に強く香る。

「い……いまの…………」

思わず唇に手を触れる。一瞬だったが、柔らかい感触があった。

「おまえが言ったんだからな……」
低くて無愛想に呟く。照れ隠しだとわかる。

その瞬間、火がついたように顔が熱くなった。リョウヘイは目を丸くする。

「や……これは…………」

「何だよ、その顔…………」

リョウヘイはメガネを外すと、私の頭に手を回して、もう一度顔を近づけた。先ほどの唇が触れただけのものとは違い、長くて熱いものだった。
彼の舌が私の口の中に滑り込む。応え方がわからなくて、されるがままの状態だった。

「んんっ…………」

無意識に声が漏れる。すると、先ほどよりも強く引き寄せられ、かぶりつくように唇が噛まれた。
水音が室内に響く。背筋が伸び、爪先がブルブルと痙攣した。
息ができなくて力が抜ける。彼の肩をバンバンと叩くと、顔が離れた。

私は、口を軽く開いたまま呆然とする。
動悸が激しい。初めての感覚にむずがゆさを感じた。

リョウヘイのじっと私を見る視線に気づく。

「キスって……こんなんなの…………?」

素朴に尋ねたが、リョウヘイの顔は引き攣った。

「ここまでする必要はねぇだろ。初めにしたもので充分だ」

「なら、なんでここまで……」

と尋ねると、頬に手を添えられてびくっと反応する。
リョウヘイは、意地悪そうに口角を上げていた。

「忘れられねーだろ。オレを選ばなかったことを一生後悔させてやるから」

その瞬間、再び心臓が鳴った。顔から火が出そうだった。

私の顔を見たリョウヘイは、「ショートケーキのいちごは、最後に食べるタイプなんだ」と投げやりに呟いた。

ちょうどそのタイミングでリョウヘイ母の元気な声が部屋に届いたので下に降りた。

***

夕食を終えて自宅に戻る。シャワーに入ってる間も、頭がぼんやりしていた。

リョウヘイが別人に見えた。触れられた手もごつごつしていて私の手とは全然違った。
唇に触れる。思い出すだけで顔が熱くなり、動悸を感じる。これを三回も経験しなければいけないのかと思うと、心臓が持つ気がしなかった。

「本当に、クリアできるかな……」

私はシャワーの設定温度を思い切り下げ、顔のほてりを冷ました。