4日目:激安賃貸アパート

 


四日目。僕は退院し、自宅へと向かっていた。
この周囲は下宿生が多く、辺り一帯、激安賃貸が立ち並んでいる。
並木道を彩る桜は旬を過ぎたのか、半分以上の花弁が散り、ちらほら新芽が覗いている。
傍の公園では子どもがはしゃぎ、老人がパンを千切って鳩に与えていた。

馴染みの並木道ではあるものの、普段はここまで周囲を見回す余裕もなかったな、とぼんやり思う。

住居であるアパートに辿り着く。
鉄骨の階段を上がるたびにズウンと音が反響した。鍵を開けてドアノブを捻ると、ギリッと年季の入った音が鳴る。一歩前に足を出すたびにミシリと僅かに沈む感覚が足に訪れる。

成人男性の一人暮らしで、且つほぼ家に帰ることがなかった為、家賃重視で選んでいたものの、やはり値段相応の環境ではあった。

室内は相変わらず散らかっていた。
床には部屋着や着替えが脱ぎ捨てられたままで、机やベッドの上には書類が散乱している。キッチンにはインスタントラーメンの容器が重なり、窓のカーテンは半分空いていた。
三日留守にしていたので、一見、泥棒にでも入られたかのような荒れようだが、僕の場合はこれがデフォルトだった。

目に見える現実に、脳が徐々に夢から覚める。

僕は床に荷物を下ろすと、ベッド上の書類を払い、そのまま倒れ込む。
深呼吸するように大きく溜息を吐いた。

「何で……生きてるんだろう……」

もう幾度となく自問自答したことだ。

あの瞬間、ふと思い立ったので特に覚悟を決めて望んだわけじゃない。死ぬと決めていたのなら、後にここに人が訪れることは必須なので、せめて少しでも片付けているはずだ。

ギリギリ繋がっていた糸が、偶然あの瞬間にプツンと切れただけだった。

大量の視線を浴びても全く動じなかった。いやあの瞬間は、楽になれるんだとむしろリラックスしていた。

それだけこの世に、未練はなかったんだ。

————嘘ね

僕を見透かすような、澄んだ声が脳内に反響する。遅れてリンッと鈴の音も響いた。

嘘じゃない。
あの瞬間、恐いとは思っていなかった。
ここ数日、庵次に対しての僕の反応からも、あの時抱いた感情は正直だったと断言できる。

あの少女は、一体何者だったんだろうか。
真っ赤な艶やかな髪に、ゴシックな衣装を身に纏う姿からも、幻想の世界から飛び出してきたかのようだった。
あの瞬間の声も音も空気感も鮮明に覚えているが、瞬きした瞬間に姿を消した。

そこでふと思う。
髪の色や素早い身体能力、何より何者か掴めないところが、どこか庵次と被った。
しかし、即座に顔が引き攣る。

「いやいや、さすがにないから……」

そもそも外見や雰囲気から全く違う。
頭の悪い結論しか出せないほどに、脳はまだ回復していないらしい。

僕はゴロリと寝返りをうつと、散乱している書類を適当に手に取る。

仕事で毎日、提出に追われていた企画の書類だ。
散乱しているボツ書類の数からも、僕がどれだけ無能だったのか窺えるものだ。
だが、そんな僕でもいなくなった社内が、どう動いているかが気になった。

感情のない人間がいちいち無能を気にするとも思わない。
だが踏み台がなければ、高い位置にある本は取れないだけに、不便は感じているのではないのか。

突如、激しい電話音が響く。それと同時に、耳障りな声が蘇った。
耳を塞いでも止まずに鳴り続けている。

即座にポケットからスマホを取り出すも、割れた画面を見て幻聴だったと気づく。

「直さないとな……」

いや、直したところでどうするんだ。
新しく購入しなければ、音も鳴ることはないのだから。

気を抜いても、無意識に仕事のことを考えている。もはや洗脳に近いのかもしれない。
せっかくまだ数日は休めるんだ。
庵次が職場に連絡を入れてくれたお陰で————

そこで、ふと気付く。

「あれ?彼、何で僕の職場を知っていたんだろう……」

スマホは、あの日の衝撃で壊れたと言っていた。
だが彼からは、僕の職場に連絡を入れたとも告げられている。
鞄に入っていた書類を確認したのだろうか。いやそもそも、スマホが壊れているのに、わざわざそこまで気を遣うものなのだろうか。

頭を捻るも、解答がわかるはずもない。
むしろ疑問点がどんどん膨れ上がった。

僕を助けた『庵次』と名乗った青年。
彼を知れば知るほど、謎が増えていく感覚だ。

整理する為にも、脳内に現在わかっている点を書き出した。

・『庵次』という名前であること
・現役高校生であること
・身体能力が高いこと
・親がいないこと
・自然が好きなこと
・『死』に対しての価値観を持っていること

まず若い顔立ちや、僕も知っている制服を着用していたことからも、現役の高校生であるには違いない。
こう言ったらなんだが、あまり頭を使わなさそうな野性的な振る舞いや、少年のように八重歯を覗かせて無邪気に笑う姿からも、年相応だとは感じられる。

だが彼が口にする言葉には、ひとつひとつに重みがあり、妙に見逃せないところがあった。
それこそ彼なりの『死』に対する価値観があるからだろうとは感じられる。

「そもそも眠らせてあげるだなんて言われているからな……」

自殺を止めただけに、彼なりに気を遣った方便だったのかもしれない。

正直、今でも考えが変わるとは思っていない。
現に今、目に見えている現実からも幻滅しているんだ。

「死ぬ為の準備、か……」

何から手をつけるべきか。
ちょうど明日ゴミの日であるだけ、まずは物を減らそう、と床に散乱する書類や服を拾い始めた。

「ひどいな……」

大掃除を始めて一時間。ひとまず室内の物を減らそうと目に入ったものはゴミ袋に突っ込んでいた。
だが、入れても入れても物が減った気がしない。
わかってはいたものの、改めて人間らしい生活は送っていなかったんだと愕然とするものだ。

辺りに散乱する書類や衣服も全て袋に入れ、パンパンになったら口を縛って次の袋に取り掛かる。
ペットボトルやアルミ缶などは決められた処分方法で分別する。シンク内にパンパンに詰まったビールの空き缶も、小さく潰して袋に入れていく。久しぶりにまともに水道が使えそうになった。

廊下にはすでに満杯になったゴミ袋が三つもでき上がっていた。

どうせもうすぐいなくなるんだ、と思えば何もかもが不要に見える。選別する手間も省けるものだ。

床だけでなく棚の中にも差し掛かっていた。
無心で作業を進めていたが、そこであるものが目に入り、思わず手が止まる。
数秒静止し、恐る恐るそれを手に取った。

「……懐かしいな」

棚の中には、以前付き合っていた彼女との写真が入っていた。
テーマパークに訪れた時のもので、写真の中の僕と当時の彼女は頭にキャラクターのカチューシャを着用している。
もう三年も前のことになるが、唯一の彼女であっただけに当時の記憶は鮮明に覚えている。
僕の仕事が原因で別れることになっただけ、嫌いになったわけではない。

名残惜しく感じて数分悩むも、すでに終わった過去であるだけに写真もゴミ袋へと入れた。

二時間ほど経った後に、ようやく家本来の姿が見え始める。

「何か……家っぽいな」

床に散乱していた書類や衣服は消え、久しく見ていなかった床が見えている。絨毯の模様もこんなんだったな、と思えるほどには懐かしく思える。
コンビニ弁当の容器や空き缶で積まれていたキッチン周りもすっきりとし、料理ができそうなほどには広く感じられた。

躊躇うことなく物を捨てる行為は、案外爽快感が得られるものだった。
まるで身体の内側にこびりついた錆が削ぎ落されていく感覚に陥る。物が少なくなるほど脳内も整頓されていくようだった。

せっかくなら自炊でもしてみるか、とは思ったものの、慣れないことをしただけ体力が尽きていた。

今日はいいや、と普段のようにコンビニへと向かった。