二日目の午後。僕は病院の屋上に上がっていた。昼下がりの太陽が肌を照らし、ほどよい暖気が訪れる。
柵から街を見下ろすと、縦横無尽に歩く人の姿が目に入った。
昨日一日で何とか冷静になり、現状を受け入れられるようになっていた。
僕の身体は、地面と接触した際の腕の擦り傷に、足の関節痛のみで、特に目立つ怪我はない。
だが僕は、地面に倒れた瞬間から、病院のベッドの上に至るまでの記憶が一切飛んでいる。打ちどころが悪かったのか、病院に運ばれた際も全く応答しなかったという。
他人事のように述べているが、記憶がないので仕方ない。
特に障害は感じないものの医師は何か引っかかることがあるようで、今日含めて二日間は検査入院することとなっていた。
看護師さんによれば、病院への連絡も、僕がここに運ばれる際も、ずっと『庵次』と名乗った赤髪の青年が傍についていたと言う。
僕は柵に身体を預け、大きく息を吐く。
正直、どうすべきか悩んでいた。
庵次によれば、僕はあと六日間は休暇でいられると言うが、六日後にはまた今までの生活に戻るんだ。
僕が自殺未遂をしたからと、現状が変わるわけじゃない。むしろ他人の感情の痛みを知らない彼らにとったら、ネタとして扱われるだろう。
生きていることが苦痛なんだ。
僕は茫然と柵を見上げる。
屋上の柵は、僕の身長を遥か上までの高さだ。柵を上り、超えるなんてスタミナはない。
だが、何か台のようなものがあれば、可能かもしれなかった。
僕は、適度な品を探すために後ろを振り返る。
だがそこで思わず「ひっ」と声が漏れた。
「ササキさん、ここにいたんすね!」
屋上ドア前には、赤髪の青年、庵次が立っていた。
昨日と変わらない笑みだが、ひとつ違うのは、その身に制服が着用されていた。
黒味を帯びた茶褐色のブレザーに、レンガ色のスラックス。ネクタイは必須じゃないのか結ばれていない。
確か部活動が全国レベルの学校だな、とボンヤリ思う。
「今日、始業式で午前中だけだったんすよね。なんでその帰りに」
庵次は無邪気に笑いながらこちらまで向かう。
そばにベンチがあると気付くも、昨日邪魔された彼がいる前で行動に移せるわけもない。
「な、何でここに……」できるだけ動揺を隠して問う。
「また来るって昨日言ったっすよ。それに俺が怪我させたのは事実なんで、お見舞いに来るのは当然と言いますか」
「脳に異常がないかの検査だけだから、この怪我は入院に関係がないよ……」
包帯で巻かれた腕に触れながら言う。
だが庵次は、やりずらそうに首を掻く。
「いや実は、それも俺の責任なんすよ」
「それ?」
「佐々木さんの気を失わせたのは、俺が故意にやったことなんす」
耳を疑った。
庵次に顔を向けると、彼は舌を出していた。
「何か意識あったら色々面倒だなって思ったんで、円滑に収める為にもちょっとばかり。まだササキさんがどんな人かわかんなかったんで、暴れられても困るじゃないっすか」
————すんません。ちょっと乱暴します
意識の無くなる直前に届いた声が蘇る。
癖のある敬語に特徴的な声色からも、あの言葉を放ったのが庵次だったと今更一致した。
「予想外に目が覚めるの遅かったんで、ちょっと打ちどころが悪かったのかなって不安だったんす。脳に影響があるのかもって検査入院もすることになりましたし」
庵次は申し訳なさそうに頭を掻く。
「そ、そんな簡単に人の意識を奪えるものなの……?」
信じたくないからこそ、尋ねていた。
だが庵次は「そうっすね」とあっさり答える。
「あぁでも、大袈裟に殴ったりしたわけじゃありませんよ。別に外傷はないでしょ」
「そ、そうだけど……」
現実離れした内容なだけに受け入れ難かった。
だが現に、僕の意識がなかったこと、さらに彼の言葉を裏付ける事実が確認できている以上、現実で起こった話のはずだ。
そもそも彼が、こんな嘘を吐くようにも見えなかった。
庵次は僕を一瞥すると、口を曲げて空を見る。
「だからこそ人間って結構、呆気なく死にますよ。銃や刃物なんて大層なもの使わなくても、急所を突けば簡単に。意識さえ飛ばせば、あとはビルから落とすか薬を呑ませるか、煮るなり焼くなりすればいいだけっす 。逆にいたぶりたけりゃ、あえて急所を外すなんてこともありますし」
昨日、一週間後も死にたいと思っていたら自分が眠らせると言った庵次を思い出す。
あの時の彼の言葉は、経験から得たであろう重みが感じられた。
その錯覚を確実にするであろう根拠が今、突きつけられていた。
彼が何者なのかわからないが、元々死ぬつもりであっただけ、むしろ好都合のはずだ。
それなのに、何故か鳥肌が立っていた。
だが庵次は、僕を気にすることなく、柵に持たれる。
「まぁそういう訳でちょっと罪悪感は感じています。って見舞いとか言いながら手ぶらで来ちゃったんすけどね。でも、話し相手くらいにはなれます」
「……うん、まだ君には色々聞きたいなって思ってたところだから」
そう答えると、庵次は八重歯を見せて無邪気に笑った。
彼とは昨日まで関わりがなかったはずなのに、まるで十年付き合ってきた友人のような錯覚に陥った。
彼の場合、壁を感じないと例えるよりも、相手の壁を壊しにかかっている、の方がしっくりはくる。
僕は小さく息を吐くと、改めて言葉を口にする。
「何で、僕を助けたの?」
再び尋ねていた。庵次も不意打ちを食らったかのような顔をする。
だが、昨日とは理由が少し違うものだ。
「あの時、確実に電車が来ていたはずだ。本当に偶然助かったものの、数秒遅ければ、君の方が死んでいたかもしれない……!」
あの時に感じた電車のブレーキ音や周囲の人々の声が鮮明に蘇る。僕も一瞬、轢かれたと勘違いするほどに迫って来ていたはずだ。
それなのに庵次は、躊躇うことなく線路内に飛び込む危険を冒したことになる。
普通、赤の他人にそこまで身を捨てる行動を取るなんてできないものだ。
庵次は考えるように腕を組む。
「正直、全く考えてなかったっすね」
「は?」
「勝手に身体が反応してました」
僕は唖然とする。
彼は元々深く考えて行動するような器用なタイプには見えなかったが、それでもこんなに野性的な人間、現代に中々いない。
妙に珍獣扱いのようになるが、それだけ思考が理解できなかった。
「元々、俺には難しいこと考えられる頭もないんですが。まぁ結果、無事でしたし、過ぎたことは別にいいんじゃないっすか。それよりも俺は、根本の方が気になります」
そう言うと、庵次は顔を下げて床を見る。
「まだ俺、成人してませんし全然社会のことは知りませんが、己の私欲を満たす為だけに、理不尽な暴力が横行することも、融通が効かないことも一応知ってます。人間って結局、どこまでも自分のことしか考えてない汚い生き物なんすよね。だから逃げたい気持ちも否定はしません。ですが理解もできません」
そう言うと、庵次は顔を上げて僕を見る。
「ササキさん、何で死のうと思ったんすか?」
直球で問われて言葉に詰まった。
純粋に回答が知りたいと訴える澄んだ瞳だ。
そんなにまっすぐ投げられると、下手に繕うこともできない。
「佐々木さん、こんなところにいたんですね。検査しますよ」
屋上ドアが開かれ、看護師さんが顔を覗かせる。
腕時計を見ると、針は午後三時を指しており、確かに検査の時間に迫っていた。
「時間っすね。じゃ、下降りますか」
そう言って庵次は柵から身体を起こす。
妙に救われた感覚に陥り、小さく息を吐く。
屋上ドアを閉める頃には、すっかり踏み台の存在が頭から消えていた。