僕が生き延びてしまって、三日目。
十五時の検診が終了し、閑散とした廊下を歩く。
脳には特に大きな影響はなく、意識もはっきりしていることから、無事明日退院することとなった。
廊下窓から覗く春の陽光が眩しくて目を細める。まだ四月上旬であるもののすっかり温かい日和が続いていた。
ノイズのない清潔な環境も、今日で終了かと思うと妙に名残惜しく感じる。
何となく、病室とは違う方向へ足が動いていた。
廊下の壁には予防接種の案内やお見舞いカードが掲示されている。
話し声や物音はせず、耳をすませば病室内に設置されている心拍計の音すらも聞こえるほどに静まり返っていた。
この世のノイズを一切排除し、治療に専念する為だけに作られた世界のようだ。
ひっそりとした空間を過ぎると、広い待合室に辿り着く。
順番待ちをしている主婦が子どもを宥める姿や、足を広げて新聞を読む老人が目に入る。
ここは虹ノ宮市内にある中央病院のようで、お昼過ぎの時間でも人がたくさん待機していた。
待合室を通り過ぎた先には、ロビーが広がっていた。
自販機が数台設置され、ソファもいくつも並んでいる。傍には雑誌や新聞類が備わり、中央には大型テレビが置かれていた。
面会が行える場所なのか、ちらほら患者ではない人たちが見られる。
と、そこでテレビ前のソファに見覚えのある赤髪が目に入る。
「あっ、ササキさん!」
テレビを見ていた庵次は、即座に腰を上げてこちらを向く。
「お疲れ様っす!部屋行ったら検査中って言われたんで。どうでした?」
「特に問題はなかったよ。明日予定通り退院だし」
「それならよかった」
庵次は八重歯を見せて笑う。
心底安堵したような顔を見せる彼を見ると、やはり旧友なのかと錯覚しそうになるものだ。
いくら自分が怪我させたとはいえ、という言葉が出かかって口籠る。
もう彼とは「赤の他人」というような関係でもないのは頭ではわかっていた。
「うん。だからもう僕のことなんて気にしなくて大丈夫だよ……。君も学校あるんだからさ」
やんわりと声をかける。
すると庵次は「別に何もないんで平気っす」と軽く言う。
「むしろ学校終わってからってみんな、何してるんすかね?俺、中学までまともに学校通えてなかったんで、あんまその辺りがよくわかんなくて」
口を開くたびに気になる言葉が零れるものだ。
だが彼の場合、気軽に尋ねられるようなことでもないだろうは空気で感じていた。
「普通、部活とかじゃないのかな。特に君の通っている学校は部活動が強いところだろ」
庵次の着用している制服を見ながら答える。
生まれてからこの街、虹ノ宮を離れていない為、大抵の学校は知っていた。彼は制服を見る限り、「紫野学園高校」のはずだ。
紫野学園は部活動に力が入っており、全国に名前が知られている。野球部は何度も甲子園に訪れており、応援で参加する吹奏楽部もコンクールで多数受賞、他の部活も全体的に好成績を残してる。
「君みたいに運動神経のある人、むしろ運動部からひっぱりだこだと思うけど」
そもそも彼は、迫ってくる電車から僕を瞬時に助けている。身長は高くないものの、それをカバーするほどの身体能力があるのは、これこそ実体験から判明している。
だが庵次はあまり感心がないのか、「部活かぁ」と間延びした声を上げる。
「動くのは好きなんすけどね、でも運動部って基本的に練習着に着替えるじゃないっすか。それが面倒だなって」
「はぁ」
予想外の返答に気の抜けた反応になる。「そんな理由で部活を避ける人は初めて聞いたよ」
「そもそも部活に力が入っているからこそ、俺が入るべきでもないというか。まぁ現実的な話をすればお金もかかりそうですし」
「あ、それならアルバイトとか」
「アルバイト?」
庵次はポカンと口を開ける。
「コンビニとかスーパーだったら、高校生からでもアルバイトできるものあるよ。体力系の仕事だと若いほど重宝されるんじゃないかな。あとはまぁ普通に友達と遊んだりとか……」と、そこまで口にして顔が強張る。
まともに「青春」を送っていないくせに、何様のつもりでアドバイスしてるんだ。
年上であるだけ変なプライドがあったのかもしれない。
だが庵次は、目から鱗だと言うように目を見開いて頷く。
「頭になかったっす……バイト良いっすね。お金も稼げるし身体も動かせるなら。さっそく探してみるっすよ」
「あぁ……参考になったならよかった」
妙に嬉しくなり、頬が緩む。
そのタイミングで「春の天体観測にはうってつけ!」との宣伝文句が聞こえ、庵次はテレビに顔を向ける。僕もつられるように画面に目を向けた。
テレビ画面には「春のプチ旅」とのタイトルのローカル番組が流れていた。今日は虹ノ宮市内のどちらかといえば郊外になる「藍河区」が取り上げられていた。
リポーターが広い河川敷をゆったりと歩いている。
「虹ノ宮って都会だと思ってたんすけど、こんな自然もあるんすね」
庵次は画面を見ながら問う。
「そうだね……ここ紅原区は都会よりだけど、藍河の方に行けば自然が多いかも。虹ノ宮自体が広いからね」
「俺、結構自然が好きなんすよね。星とかも見られるのかな」
「星?」
テレビの画面が切り替わり、どこかの公民館が映し出される。
「この場所では、一般の人も気軽に天体観測が楽しめます。ここ数日は花粉も少なく、澄んだ空が見られそうです」
「ここ、良いじゃないっすか!」
庵次は嬉々として画面を指差す。
「ササキさん、今週、ここ行きませんか! ここ山の方なんで車じゃないとだめでしょ。俺、まだ免許持ってませんし」
「いきなりそんなこと言われても……」
免許は一応持っているが、ここ数年まともに運転なんてしていないので、完全にペーパードライバーだ。そんな状態で山の方に行くだなんて不安すぎる。
だが、正直に打ち明けるのは情けないので正論を持ち出す。
「君、高校生なんだから、夜はダメだって」
「あ、俺、親いないんで大丈夫っす」
あまりにもあっさりと告白されたことで言葉に詰まる。
「それに世話になってるおばあちゃんも今、入院中ですし、基本全部自分でやってるんで、その辺りは気にしなくても」
「僕が気にするんだよ」
僕は頭を振りながら言う。
彼の過去に触れるべきでないとはわかっているが、さすがに法に触れるとなると引くわけにはいかない。
「あ、だったら泊まりだったら大丈夫じゃないっすか?ここ、宿泊もOKって言ってますよ」
そう言って庵次は画面に顔を向ける。
テレビで流れていた公民館は、自由に天体観測ができるだけでなく、コテージが二棟備わり、宿泊施設も完備されているようだ。
僕は、庵次に顔を向ける。
「男二人で宿泊で天体観測なんて、中々じゃない?」
「俺は別に気にしないっすよ!せっかくならササキさんにも星のおもしろさを教えてあげたいっす」
そう言って庵次は無邪気に笑う。
そんなに屈託のない少年のような顔で笑われたら、断るに断りづらくなるじゃないか。
「そもそも俺が勝手にササキさんを生かせてしまったんで、俺が有意義な時間を提供するべきでしょう」
確かに本来は、すでにこの世からいなくなっていたはずなんだ。
だからこそ、下手に断われる理由もない。
妙に子守をする気分に陥るが観念する。
もうこうなりゃヤケクソだ。
「別にいいけど……でも、運転に手こずったらごめん」
「全然! 楽しみにしてるっすね」
そう言うと、庵次は元気よく出口へと向かった。
僕はそんな無邪気な彼の背中を茫然と追っていた。
「元気だなぁ……」
高校生だったのなんて、もう十年も前になるが、その時の僕でも彼ほど活発ではなかった。
ちらちらこちらを見る視線に気づく。
ずっとロビーで立ち尽くしていたことに気付き、身を屈めながら自室へと戻った。