「ごめん……。その日は法事があってさ」
また口から、でまかせが飛び出す。
自分でも呆れるほどに自然で流暢で、感情の欠片も感じられない冷ややかな言葉だった。
「そっか、残念。じゃ」
名前も覚えていないクラスメイトは、肩を竦めて颯爽と去る。「嘘月真(ウソツキ マコト)は、付き合いの悪い奴」だということは、すでに認識されているらしい。僕はまたやってしまった、と溜息を吐く。
昔から人との関わりを避けていた。人間関係のもつれが、心身共に負担になるとは、周囲を見てわかっていたからだ。
だからいつも、適当な言葉で現実から逃避していた。
もはやこれは、癖のようなものだった。意図していなくても、反射神経のように、無意識の内に口から飛び出している。
そのせいで周囲からは「付き合いの悪い奴」と認識され、僕自身も簡単に行動を変えることができなくなっていた。
幸いこのご時世、新型の感染症が流行したせいで、マスク必須の世の中に変わった。
口元が隠れていることから、適当な嘘にも気付かれていないだろう。
だが、せっかくの新しい環境であるにも関わらず、この場でもまた僕は、同じ自分を繰り返す羽目になってしまった。
静まり返った教室内。僕しかいない広い空間を、西に低く沈んだ夕日が赤く照らす。
壁にかけてある時計に目をやると、午後五時半を指そうとしている。六限目はこの教室は使われないようで、廊下からも人気がしない。
大学は高校までとは違い、クラスという括りがほぼない。だから周囲から避けられることはないものの、むしろ数少ないクラスが設けられている英語の授業で、人との関わりを作る必要があったのだ。
自分を変えるチャンスでもあったんだ。そうでなければ、この四年間、ずっと一人で過ごすことになってしまう。
僕は再び溜息を吐くと、そのまま教室を後にした。
「法事って、そんなに頻繁にあるものなの?」
突如、背後から声が届く。
振り向くと、一人の女性が立っていた。
肩で切り揃えられた黒髪に、奥二重の吊り上がった目、清潔感漂う黒マスクを着用している。
印象的な外見と独特な空気感が占い師のようだな、と彼女のことは覚えていた。
清実 霊華(キヨミ レイカ)。同じ英語クラスだったはずだ。
「前もサークルコンパの勧誘でそう断わってたでしょ」
清実は、感情の欠落した声で言う。
「……関係ないだろ。というか、まだここにいたんですね」
同期だとは知りつつも、距離を保つ為にあえて敬語で返す。嘘を指摘されたことに対する反抗でもあった。
「そもそも、何で前も僕がそう言ったって知ってるんだよ」
「え、やっぱり本当にそう言ったんだ」
清実は、僅かに目を丸くする。僕は怪訝な顔で彼女を見る。
「ふーん。おもしろいなぁ」
そう言いながら、清実は自身の黒マスクをつまんで興味深気に観察する。
僕は、言葉の意味がわからずに彼女を警戒する。
「こんな話があるの」
清実は視線を僕に戻すと、指を立てて切り出す。
「感染症の流行しているこの世の中で、もはやマスクは、衣服の一部になった。衣服は、海に入る時には、水をはじく素材の水着を着用し、寒い時期には冷気を感じない為に、綿の入った分厚いダウンを羽織る。身体を守る為に、衣服は日々開発されているのよ」
そこで清実は、自身の黒マスクを指差す。「マスクも同じ」
「菌が通過しない生地を開発したって言いたいの?」
「いいえ、そうじゃないわ。いや、厳密にはそれもあるんだろうけど、もっと、別のこと」
そう言って、清実は妖艶に目を細める。もったいつける彼女に、妙に苛立ちが走る。
「『言ったことが現実になるマスク』よ」
「はい?」
「そのマスクを通して発した言葉は、全て現実になるの。だからあなたが『法事がある』と言ったその言葉が、マスクを通じて発すると、本当にその通りになるの」
得意気に言う清実に、僕は「馬鹿げてる」と大袈裟に溜息を吐く。
元々、ひと目見た時からスピリチュアル的な異質な空気を感じていたんだ。
何で僕に声をかけてきたのかはわからないものの、こういう人間こそ関わると面倒だぞ、と脳が警告していた。
その場を去ろうとするものの、清実は黒マスクを下げて視線で僕を止める。
下げられたマスクからは、赤いリップが怪し気に歪んでいた。
「言った言葉が何でも現実になるのよ。『億万長者になりたい』と言えば、その瞬間にお金が増えるし、逆に嫌いな奴を『死ね』と言えば、本当に相手は死ぬ。それだけ『コトダマ』ってすごいものなの。ただし、物を買ったらお金を支払うように、もちろん対価はあるわ」
清実は背中を見せるとコツコツ靴を慣らしながら歩き始める。妙に重みの感じられる彼女の話し方に、僕は無意識に引き寄せられていた。
「基本的に対価というのは、釣り合ったものじゃなければ意味がない。お金なんて、マスクを通じて願えばすぐに手に入るのだから割りに合わない。だからこの『コトダマスク』の対価は、『声』なのよ」
清実は、自身の喉元を指差して言う。
「使えば使うほど、声帯が奪われる。それは言葉が重いほどに重くなる。『明日は課題が出ない』と『人が死ぬ』じゃ、全然言葉の重みが違うでしょ。最終的には声が出なくなってマスクが使えなくなる。『声が元に戻りますように』とすら言えなくなるんだ」
そこまで話すと、清実は思い出したようにマスクを付け直す。
「それだけ言葉には重みがあるのよ」
適当なことばかり言う僕を叱られているように感じた。
彼女の言う通りに、僕は基本的に自分都合ではなく、人の都合を持ち出すことが多かった。
特に「法事」という真面目な予定を持ち出すと、相手も無理に誘うことがなかったからだ。
とはいえ、いきなりこんなことを言われる筋合いはないはずだ。
やはり、人と関わるのは面倒だな、と改めて感じた。もう、無理に自分を変えようとするのはやめよう。
スマホが鳴った。画面を確認すると実家からだった。
珍しいな、と同時に、この場を離れる都合の良い理由が見つかったことに心なしほっとする。
僕は、引き攣った顔で「そんなマスクは恐いね」と適当にあしらうと、スマホを気にしながらその場を離れた。
背後から、「ちょっと、喋りすぎちゃったかな」と、心なし声の擦れた清実の声が届いた。