出た先は、先ほど窓から確認した通りに、私の部屋だった。むあっとした湿気を帯びた空気が充満していて、身体にはりつく。裏の世界との明度の差に慣れず、目を細めた。
後ろを向くと鏡があり、鏡面にはメイの顔が見えた。彼は、にこっと笑って手を振る。私は軽く手を振り返して、部屋に向き直る。
鏡から行き来できる世界があるだなんて、フィクションの世界でしか聞いたことがなく、いまだに信じ難かった。それでも今、起きてる現実を無理やりにでも受け入れるしかない。
私は部屋を片づけ始めた。
最初に、隙間を防いだガムテープをビリビリと剥がす。少しでも隙間があってはならないからと何重にも重ねて貼っていたので、剥がすのにだいぶ苦戦した。
次に、練炭やライター、ガムテープ等をスーパーの袋に入れていく。遺書として残していた大学ノートが目に入り、逡巡した結果、それも中に入れた。袋の口を縛り、押し入れに突っ込む。
そこまでの行程を経て、暑さからも喉が渇いたので、睡眠薬を飲む為に準備していた水を手に取って飲み干す。冷温で喉が潤うことを期待したが、すでにぬるくなっていた。
もう一度部屋を見回して、やり残しがないか確認をした後、鏡に向き直った。
片づける様子を見ていたのか、メイは「お疲れ」と口を動かした。私は目を閉じて小さく息を吸い、反芻する。
やめたわけじゃない。延期になっただけだ。
裏街道に戻ると、メイは改めて私に向き直った。
「しばらくの間よろしくね、アリス」
「うん、よろしく」
そう応えると「じゃあ行こう!」と元気よくメイが歩き出したので、後ろに続いた。
目が黒いこと以外は、普通の少年と変わらない。
そこで、先ほどのメイの発言を思い出す。
裏街道は、表の世界から逃避する為の世界。メイも元は表にいた、私たちと変わらない人間だった、ということだろう。
そこであることが気になった。
メイは、どんな理由で裏街道に来ることになったのだろうか。
今の私のように、裏街道の住民に連行されたとしても、メイ自身に何かきっかけがあったはずだ。
天真爛漫で好奇心旺盛、無邪気な笑顔を絶やさない。しかし、黒い瞳を覗くと心がザワつく。この小さな身体に、私の想像ができないほどの大きな闇を抱えているのかもしれない。
何でも聞いて、と言っていたが、その点に軽率に踏み入ることはできなかった。
「着いたよ」と声が届いたので、前を向いた。
出た先も相変わらず暗かった。しかし、目が少し暗闇に慣れたのか、辺りを見渡して何があるかを確認することはできた。
外観だけでいえば、表と特別変わりなく見える。都会と呼べるほどの密集率ではないが、建物が建ち並んでおり、所々にビルも建っている。目を凝らすと、私も知っている大型ショッピングモールの看板も確認できたので少し驚いた。緑も存在し、田んぼや畑も見られる。暗くてはっきりと認識できないが、遠くには山もあるようだ。
気になったのは、明かりと音が全くないことだ。電線のようなものは確認できるが、使用されていないのか、街を照らす為の明かりが見当たらない。先ほど確認したショッピングモールも休業中といった暗さだった。
それに、車や電車が走るような物音もしない。一見すると、少し栄えた田舎街のように捉えられる外観でありながら、今のところ人の姿も確認できない。虫や鳥の鳴く声すら聞こえない。
表の街から音と明かりが取り除かれ、一斉に消灯したような光景が、目前に広がっていた。
そこまで確認して、現在私は、辺り一面を俯瞰できる高さにいることにも気がついた。
「見た目は、表と変わらないでしょ」
表情に表れていたのか、メイがそう声をかけてきた。
「でも、大体はハリボテみたいなものだよ。ここは仕事といった概念がないから、働いている人もいない」
「でもそれなら、この建物とかは、どうやって維持しているの?」
そう尋ねると、メイが少し考えるような面持ちになる。
「良くも悪くも変化が起きない、って言ったらいいかな。つまり、建物はずっとあのまま。老朽化が進むこともなければ、改装されることもない。いや、ボクらが手を施せばきれいにすることはできるけど、そんな手間をかける人はここにはいない。それに、変化が起きないのはボクたちもだよ。アリス、ここに来てから、お腹減ったって感じ、しないでしょ」
確かに、裏の世界に来てからどれだけ経ったのかは不明だが、空腹を感じることはなかった。
「言うならば、裏街道は時間が止まっているんだ。そして、それはボクたちにも適用される。動くことはできるけど、手をかけない限りは、変化はしないんだよ」
その言葉を聞いて、ふと思う。
メイはここに来て長いと言っていた。もしかしたら身体が成長していないのは、変化が起きないことに関係しているのかもしれない。つまり、今の外見の時に、裏街道に来たのではないのか。
だが、こんな幼い時に裏街道に来ることになったのか、と逆に胸が締めつけられた。
「変化が起きない、それに法律や規律もない。裏街道は気楽でいいよ。本当に各個人が、好きに生きることができるんだから。時間も止まってるから、無限にね」
そう言って、メイは大きく息を吸いながら伸びをした。その姿をただ黙って眺めていた。
メイは今までも私のように、表から人間を連れて来ているのだろうか。裏街道の説明がとてもわかりやすい。しかし、それに対して容姿から受ける印象との差にも困惑していた。言ったら何だが、言葉遣いが子どもっぽく感じられずに、どこか大人びている。誰かから言葉を教わっているのだろうか。
「こっちに来て。アリスに紹介したい人がいるんだ」
思案に暮れていると、下の方から声が届く。
メイは、いつの間にか私のそばを離れて、右手にある大階段を下りていた。私は小走りで階段を下りて、メイの元に駆け寄る。
「紹介しときたい人?」
「うん。ガラクって言うんだけど、彼は信用できるし、相手もしてくれるからさ」
メイは私の手を引き、少し歩いた先にある公民館らしき建物の中に入る。
看板を一瞥すると、『図書館』という文字が目に入った。
扉を開けた瞬間、ふわっと本の匂いが舞った。無意識に胸を開けて大きく息を吸う。紙の本の匂いは、心が落ち着くものだ。
館内も、相変わらず電気はついていなくて薄暗い。入館してすぐ右手にカウンターがあるが、誰もいない。それ以外は何の変哲もなく、たくさんの蔵書がきれいに棚に並んでいる。
あまりにも物音がしないので、この館内に先ほどメイが言った「ガラク」と呼ばれる人物がいる気配がしなかった。
目を凝らして辺りを見回すと、本が乱雑に積み上げられている箇所を見つけた。公共の施設なのに片づいていないのかと思ったが、そういえばここは仕事という概念がなかった。
メイが乱雑に積まれた本の方へと歩みを進めるので、私も後に続く。
近づくにつれて、積まれた本は囲いになっており、さらにその中央に一人、椅子に座って本を読んでいる青年の姿が見えた。
全く気配がしなかったので、本気でおばけかと思い、小さく声を上げた。その声が聞こえたのか、メイは私を振り返って首を傾げたので、「何でもないよ」と言って誤魔化した。
それにしても、こんな薄暗い中でよく本が読めるものだ。
「ガラク、新しい仲間だよ」
メイがそう声をかけると、ガラクと呼ばれた青年は、読んでいた本から顔を上げてこちらに向いた。
この人も目が黒いが、メイと同じく、それ以外は表の人間と変わらなく見える。
歳は私と同じくらいだろうか。学ランのようなデザインの服を着ていて、肌の露出が見られない丈だった。吊り上がり気味な目で、鼻筋が通っていて、整ったきれいな顔だな、と思う。トーンの明るい髪で、片側だけ編み込まれている。しかし、青年の出で立ちからチャラさは微塵も感じられなかった。
彼は、ジッと私の顔を見た。目が黒くて少し怖気ついたが、彼の整った顔で見られることにも少し恥じらいを覚え、呑気に違う意味でもドキドキした。そんな余裕が生まれるほどに、少しずつこの世界を受け入れ始めているのかもしれない。
すると、青年は椅子の裏をガサガサ探り、何かを私に渡してきた。