第二部③




夢を見た。

舞台は私が幼い頃によく訪れていた公園だ。目の前には見覚えのある顔の少女がブランコに乗っている。しかし、少女の名前を思い出すことができない。
どうやら私は、この少女と二人で公園に遊びに来ているところのようだ。
よくある日常を切りとった一場面に見えた。これは実際にあったできごとなのだろうか。

「アリスってさ、嫌いな人とかいないの?」
ブランコを漕ぎながら少女が問いかけた。

「嫌いな人?」
私も同じくブランコを揺らしながら答える。

この公園はずいぶん昔から存在するのだろう。ブランコを支えている柱からギシッと年季の入った音が鳴った。
幼い私たちは、壊れる危険など顧みずに漕ぐスピードを上げていく。

「だって、アリスってほんとに悪口とか言わないじゃん」

「悪口は言ったらだめだって、先生に習わなかった?」

感情のこもってない声で、典型的な模範回答を私は口にする。はたから聞いても本心でないのはバレバレだ。

「そうは言ってもさ、やっぱり苦手だな、嫌だな、と思ったことは、誰かに話して発散したくなるものじゃん。人に話すと少し気も楽になるものだし。でも、アリスがそういったことを話してるところを聞いたことがないなって思ってさ。私たち、結構一緒にいるのにさ」

私は彼女の名前も思い出せないのだが、結構一緒にいる相手らしい。確かに顔には馴染みがあるように思えた。
何故、少女の名前が思い出せないのだろうか。

「それに、好きなものの話だってしないよね。いつも私の話ばかり聞いてもらってて、何だか申し訳なく感じてさ。遠慮してるとかじゃないよね?」

彼女が不安そうな顔でそう言ったので、大袈裟に手を振って違うよ、と返答した。この時から荒波を立てたくない性格は変わっていないようだ。

「〇〇に遠慮してるとか、そんなんじゃないって」

無意識に言葉を発していたが、今、自分でも何と言ったのかわからない。
ブランコは次第に勢いを増し、それに比例して柱の軋む音も大きくなる。耳元で風を切る音が響く。耳をすまさなければ相手の声が聞こえない。
私は構わずに言葉を続ける。

「ただ、何に対しても無関心なだけなんだよ」



身体がびくっと痙攣して目を覚ます。就寝時に無意識に身体が跳ね上がる現象は一体何なのだろうか。前にどこかでその現象には名称がある、といったことを耳にしたが、具体的には思い出せない。

身体を起こす。休止していた身体の各機能が徐々に活動を始めて、脳の回転も営業を再開したようだ。

今の夢は何だったのか。夢にしてはただの日常の一場面でしかなく、現実味がありすぎて、おもしろ味がなかった。
彼女の顔は見覚えがあったので、現実世界にも存在している人物に違いないが、名前が思い出せない。

しばらく思考するが、夢に登場した私たちはどう見ても小学生くらいの年齢だった。時間が経てば、過去の人物の名前を忘れることもあるだろう。

外気に当たろうとベランダに出る。やはり太陽は昇っておらず、暗いままだ。

裏街道には、季節というものも存在しないのだろうか。今はTシャツ一枚といったラフな格好をしているが、暑いとも寒いとも感じない。たまにどこからか吹く風が頬をかすめる、とても心地のいい、ちょうどいい気候だった。
ベランダの柵に腕をかけながら、夢の中で言っていた少女の言葉を思い出す。

彼女が言っていたように、私はあまり自分から自分自身について話すことがなかった。
相手の話を聞くのは好きだった。いや、好きといったら悪趣味に捉えられるかもしれないがそうじゃない。私に話すことで相手がスッキリするのならばいいと思えたし、私も話を聞くことで退屈はしなかった。

私も他人に対して嫌だな、と負の感情を抱いた経験がないわけではない。しかし、会話の話題に持ち上げるほど私の中に生まれた負の感情に関心がなかった。そして他人に話したところで、何かが変わるとも思わなかった。他人に話すといったエネルギーを消費してまで、自分自身の感情に興味が持てなかった。

それに、好きなものがないわけではない。生活に支障をきたすほどの趣味は思い当たらないが、それでも小説は好んで読んでいた。自分の好きな作家さんの作風はどれもネタバレ厳禁が多く、それもあって中々話せないこともあった。同士と思って話したものの、うっかりネタバレをしてしまうのはよくない。それはガラクと出会った時に、痛切に感じたことだ。再び罪悪感が沸き上がり、図書館の小窓を一瞥する。
何より自分の好きなものに対して、他人に共感されたい、という感情が湧かなかった。

夢の中の私も言っていた。

ただ、何に対しても無関心なだけなんだ。

乾いた風が大きく鳴り、髪を揺らす。冷静に自分を見つめ直したことで改めて自覚させられた。

私は本当に、空虚な存在なのだな、と。

裏街道に来た当初の目的を思い出し、そこでひとつ、気になることが浮上した。

 

今現在、表世界ではどれだけの日数が経ったのだろうか。

裏街道にいるのは三十日までと最初から決めていたことだし、メイにもそう伝えてある。だが、この世界には時間を知る術がない。体感では四日程度だと感じてはいるが、それが合っているのかもわからない。
時間を見失わない為にも、一度このタイミングで表に戻って確認すべきか。私はリビングに戻って制服に着替えた後、洗面台に向かった。
そこで気がつく。

ブラシやドライヤーといったものは備わっているが、鏡がない。
壁をよく見ると、元々その場にかけてあった鏡が外されているような跡があった。

「鏡、割れたりしたのかな…………」

不思議に思いつつも特にメイクをするわけでもなかったので支障はなかった。そばにあるブラシで髪をとかす。
褒められることでもないが、鏡のない状況にも動じないでいられるから、美容に関心がないことばかりを責めるのもよくないぞ、と母に言いたくなった。
風呂に入る際に外したミカから貰ったハートのヘアピンも髪につけ、メガネをかけて身支度を整えた。

事情を説明する為にメイの部屋に訪れた。「どうしたの~」と目を擦りながら尋ねてきた。ちょうど今起きた様子だ。私は表に戻って時間を確認したい旨をメイに伝えた。

「あぁそういえばそんな話だったね。いいよ、一緒に行こう」と、メイはあっさり答えた。
ちょっと顔洗ってくる、と彼はそそくさと部屋の奥に戻った。起床してすぐのところ申し訳なく感じながら扉の外で待った。
何となくアパート玄関前にある館内地図に目をやる。

「ハローハッピーワールド」というアパート名がとても気になるのだが、それ以外は特に特徴のない普通のアパートだ。室内も一人で過ごすには広いくらいだし、近くには図書館とコンビニもある。少し歩けばショッピングモールもあり、利便性は高い方に感じた。

あっ、とそこで気がつく。

このアパートには屋上がついているようだった。屋上という場所に上がったことがないので少し新鮮だ。学校にも屋上はあるが、基本的に立入禁止で入ることができなかった。だがここにはそういった決まりはないはずだ。せっかくなので機会があれば上がってみよう。

しばらくすると、準備の終えたメイが出てきた。しゅっぱーつ、と元気よく歩き出すメイの隣に並んでアパートを出た。

裏街道に来た時、街全体を俯瞰できる高い位置にいたはずだ。辿り着いた場所も想像通り、山中にある休憩箇所、といった高い場所に位置していた。

大階段を上って振り返ると、裏街道に来た時に見た景色と変わらない光景が目前に広がっていた。かけていたメガネを外して、街全体を見渡す。

いつものように薄暗い。そしてやはり物静かだ。外観は表の世界と変わらないのに、あまりの静けさに心や脳が洗礼されるような気分になった。

「静か……」

無意識に声が漏れていた。同意を求めたわけではなかったが、メイにも呟きは聞こえていたようで、共感するように「そうでしょ」と言った。

「みんな、静寂を求めて裏街道に来るからさ」

静寂の街、と言っても過言ではない。裏街道には、各個人が本当に必要だと思ったものだけを摂取できるような仕組みが取られている。汚いノイズが一切響いていない。

裏街道の居心地の良さを感じてしまったならば、もう表舞台に戻ることはできないのではないだろうが、ここの存在意義を考えればそんな考えは野暮といったものだろう。

振り返るとトンネルがあった。中は先が見えないほどに真っ暗だ。
メイに連れて来られた時を思い出す。あの時も真っ暗だったので、この中から来たのだろうとは見当がついた。

思案に暮れていると、メイがまさに私が考えていたことについて口を開いた。

 

「ここが、裏と表を繋ぐ場所だよ」

メイはそう言って空間を見上げる。
遠方から見えた時から感じていたが、全容を目前にしてさらに実感した。とても大きいトンネルだ。大型トラックも通れるほどの高さはあるだろう。

しかし中は、地面が見えないほどに暗く、足を踏み入れるには中々勇気が必要だった。一切光がなく暗黒だ。言葉のまま表現するなら、一寸先は闇とは正しくこの状態ではないのか。暗さには慣れつつあったが、この空間はあまりにも暗すぎる。

そんな私の内心を察することもなく、メイは平然とトンネルの中に足を踏み入れた。暗さから見失いそうになったので、私は咄嗟にメイの手を引っ張った。

振り返ったメイは、初めは不思議そうに首を傾げるが、私の様子に気づいたのかにっこり笑って私の手を握り返してきた。

「そっか。アリスには真っ暗に感じるよね」

そう言いながら、笑顔で歩き出す。その言葉を聞いてメガネの存在を思い出したが、すでに辺りは真っ暗で、ポケットから取り出すにも落としそうな気がしたので、メイに導かれるまま歩みを進めた。

しばらく暗いトンネル内を彷徨う。地面が見えないので、いきなり石に躓いたり、穴に落ちたりしないか床を気にかけるように歩いていた。
そのことに気づいたメイが、私に歩幅を合わせるようにペースを落とした。

「アリスって意外と怖がりなんだね。ミステリーやホラーが好きって言ってたから、こんな場所とかも平気なんだと思ってた」
メイは揄ってる様子もなく、ただ素朴に浮上したであろう疑問を口にする。

「読むのは好きだけど、自分が体験するのは全然ダメなの」

本心だった。身の安全を確保された上で視聴するホラー特集などは平気なのだが、おばけ屋敷など自身が体験するようなものは一切受けつけなかった。
裏街道に来る前日、ホラー特集を視聴していた時の様子を思い出す。戸締りはもちろん行い、風呂も済ませた上でふとんをかぶっていた。そこまでしても見たいと思ってしまうのが不思議なものだ。

それに、これは隠してるつもりはなかったがグロテスクなものも苦手だ。一度、裏表紙に記載されている作品内容のみを拝見して購入した作品が、死体の描写があまりにも詳細でトラウマになったことがある。それ以降、小説を買うのもレビュー必須になってしまった。
これはあくまで私見だが、文字での描写は対象を認識しようと脳を働かせ、自身の見解により具現化されるので、絵以上に生々しく表現されるような気がしていた。

作品やテレビ特集は嗜むものの、自身が体験するのは苦手という残念な人間だった。

 

「そういえば、アリス目印置いていたよね」

その言葉で思い出す。ミカから貰ったハートのヘアピンをそばに置いていたはずだ。たがこんなに暗い場所だから私には見えなかった。その為、金魚のフンのようにメイがふらふら探す歩みに必死に続いた。

しばらくしてから、「あ、ここだね」とメイが立ち止まったので私も足を止めた。目を凝らして足元を見ると、確かに今私が髪につけているものと同じヘアピンがそこにあった。
メイはヘアピンの上部を手探り、何やら引っ張るような動作をする。対象が何かハッキリ見えないが、窓のようなものを開ける動きに見えた。
メイの動作と共に明かりが漏れ、眩しさから思わず目を細めた。今まで視界が悪かったこともあり、余計に眩しく感じる。開けた本人も手を額に翳して光を遮るようにしていた。

目が慣れてきた後、開けられた窓の中を覗き込むと、そこには見慣れた部屋があった。紛れもなく私の部屋だ。

私は何も見えないにも関わらず、窓の周りを見回す。ここは本当に不思議な場所だ。まさか私の部屋の鏡がこんな場所に通じているとは思わなかった。
トンネルの外観を思い出す。今立っているこの空間は、とても大きくて広いのだろう。私の部屋だけでなく、いろいろな場所に繋がっているのではないのか。

鏡限定なのだろうか。それとも別の場所にも繋がっているのだろうか。今いる裏街道の住民は、どこからこの空間に現れたのだろうか。さまざまな疑問が浮上した。
まだ時間はあるだろう。少しずつ解明していけばいい。

「ボク、ここで待ってるからね」

そう言うと、メイはその場にちょこんとしゃがんだ。その姿が主人の帰りを行儀よく待つペットのように見えて愛らしく感じる。

「早く帰ってきてね」

「うん」

そう答えると、窓に足をかけて身を乗り出した。

 

***