一晩明けた朝。
深夜の件から、正直ほとんど眠られなかった。
コテージ内で、コンビニで購入したパンを黙々と齧る。
「風嶺ちゃんって、彼氏いるんだよね?」バイトの一人が、私の指輪を見ながら尋ねる。
「あ、はい……」
「タニさんには、気をつけた方がいいよ」
唐突に彼の名前が飛び出し、目を白黒させた。
「ど、どうしてですか?」
できるだけ動揺を表わさないように尋ねる。
「タニさん、結構いい人に見えるでしょ。でもあの人、変な趣味持ってて、彼氏がいる人ばかりを狙いに行くところがあるんだ」
「女を落とすゲーム感覚でしかいないんだよね。そして彼氏との関係が崩れるのを楽しんで見てる。最低でしょ?」
女性バイトたちが口々に言う。
「風嶺ちゃん可愛いし、指輪してるし、年下だから、大人の特権利用して狙われやすいだろうなって思って」
もっと早くに聞きたかったものだ。私は引き攣った顔で力なく笑う。
***
「また来てね」
施設のおばちゃんは、笑顔で手を振る。私たちも寝不足の顔で手を振った。
「カザミネさん!せっかくなんで、行きしとは別の車に乗りませんか」
ガクトバラくんは威勢よく提案する。
普段と変わらない調子だが、行きはタニさんの車だっただけに、気を遣ってくれているとは感じ取れた。
「うん、そうしようかな」
ガクトバラくんの提案に乗る形で、そそくさと車に向かう。
背中に視線を感じるが、振り返らないように耐える。
今日起きてからは、一度もタニさんの顔を見られていない。
心の底から怖いと思ったのは、初めてだった。
もしガクトバラくんがいなければ、と思うだけで再び身が硬直した。
「――――カザミネさん、ちゃんと寝られましたか?」
はっとして頭を上げると、不安気に私を見るガクトバラくんの顔が目に入る。
「う、うん」
嘘だとバレバレではあるが、一応そう答えた。
「何か、色々と不手際があって、すんません」ガクトバラくんは苦笑しながら頭を掻く。
「いやいや!お肉美味しかったし、ゆっくり星も観たことなかったから楽しかったよ。本当にありがとうね」
本心だ。タニさんの件はあったものの、彼が企画してくれたおかげで、大切なことに気づけたのだから。
「同じ高校のヨシミですから」
ガクトバラくんは目を細めて笑う。
一番年下の彼の姿が、この場にいる誰よりも大人に感じられた。
***
星空観測会から二日後。
「観測会は楽しめた?」
出勤すると、サカグチさんが笑顔で尋ねた。
「はい。ガクトバラくんのおかげで」
「彼、仲間を大切にする人だからね。特に風嶺ちゃんは、同じ高校だから彼のお気に入りなんだと思うよ」
サカグチさんは柔らかく笑って言うと、「あ、そうそう」と言葉を続ける。
「タニさんが急遽、バイトを辞めることになったそうね」
「そうなんですか?」私は目を見開く。
「元々、就活で十二月までだったとは聞いていたんだけどね、残念ね」
サカグチさんは頬に手を当て、野菜の梱包作業に戻った。以前のように話せる気がしなかっただけに、正直安堵した。
しかし、良いことがあれば悪いことがあるものだ。
「オレも辞めることになったんすよ」
休日でありながら店に現れたガクトバラくんは、まっすぐと私に告白する。
「え、何で!?」私は驚愕する。
「オレのせいなんで。ケジメってやつっす」
「ガクトバラくんの責任じゃないよ……」
私は困惑する。むしろ彼には、教えられたり、助けられたりばかりだった。
「オレが気になるんすよ、ほんと気にしないでください。ただ、急に辞めることになって、店に迷惑かけることだけは申し訳ないんすけど」
ガクトバラくんは肩を縮めて言う。彼の揺らぎない芯の強さを知っただけに、何を言っても考えが変わらないだろうとは感じ取れた。静かになるなぁと物寂しくなる。
彼からは、過去を断ち切ったケジメが見られるだけに、あまり触れるべきではないと思っている。
垣間見える彼の不器用な一面からも、気付かないふりをしていたものの、さすがに最後まで流せなかった。
「……ガクトバラくんは、お風呂は一人で入りたいタイプ?」
そう尋ねると、彼は一瞬面食らった顔をするも、「だって、恥ずかしいじゃないっすか」と八重歯を見せて笑った。
「名前とコレはどうしようもないんすけど、本当、今は関係ないんで。でも、もし怖がらせてたらすんません」
「全然。タニさんの方が怖かったから……」
「人は見かけによらないってやつっすね」ガクトバラくんは意気揚々と言う。
「でも、今は関係ないならさ。自己紹介の時、気をつけた方がいいんじゃない?」
念の為に忠告すると、ガクトバラくんはキョトンとした顔になり、「あ、もしかしてオレ、余計なこと口走っちゃってました?」と頭を掻いた。
「ここは辞めますが、学校はもちろん行くんで、もし会ったら、ぜひ話してくださいね」
目指せ特待生!と無邪気にピースする。
「本当に、何から何までありがとうね」
「出会えた奇跡に感謝ってやつっすよ。彼氏さん、大事にしてあげてくださいね」
ガクトバラくんは笑顔で言うと、深くお辞儀して疾風の如く店を去った。
ニュースアプリで流し見した記事に、見知った名前を見かけて、ふと反応したことがあったが、こんなに身近な存在だとは思わなかった。
とはいえ、全くノーマークであったタニさんの方が、恐怖を感じたのは事実だ。
「うわべだけじゃ、わからないもんだなぁ……」
バイトの帰り道、一番眩しい星を眺めながら自宅まで歩いた。
***
数日後。決心がつき、リョウヘイに電話をかける。一コールもしないうちに彼は反応した。
「リョウヘイ。私、わかったよ。『永遠』が何か、ゲームマスターの目的が」
そう告げると、数秒間があった。
「オレも報告を受けたところで連絡しようとしてたところだ。今外だから、そのままおまえん家向かっても大丈夫か?」
「う、うん……」
いつになく低くて冷静な声に、背筋が伸びた。
「正直、オレですら受け入れ難い現実だ。おまえは目を背けたくなるかもしれねぇ」
胃が縮む思いになる。
しかし、リョウヘイは「だが」と続ける。
「オレは常におまえのそばにいる。何度倒れたって必ず支えてやる。そのことを頭から忘れんじゃねぇよ」
力強い言葉が私を奮い立たせた。
「うん。ありがとう」
そう返答すると、「あと、五分ほど待ってろ」と言って、電話が切られた。
***
「いってきまーす」
いつものように、反応のない家内に向かって叫ぶと、戸を閉める。
しんと静まり返った道を緊張した面持ちで歩く。つま先にひやりとした感覚が襲い、もうすぐ秋の終了だと知らせているようだった。
突如、ごとっという物音が響く。
私は、息を殺してそばに近づいた。
ぎいっと軋む音と共に、私は手を伸ばす。
「お姉ちゃん」
私は、姉の部屋の扉が開いた瞬間、姉の手を握った。
「……あんた。学校、行ったんじゃないの?」
姉は、少し驚いた顔になり、私を見る。
「行ったように振舞ってただけ。学校どころじゃないもん」
いままでは「学校をサボる」という選択肢はなかった。それは授業に後れを取ると感じていたからだ。
しかし、姉と話すという行為は、学校と天秤にかけるまでもなかった。
「ねぇ。私、全部わかったの。だから話してくれるよね」
今までは、現状維持にばかり目を向けていた。
だけど今の私には、力強い味方がいる。
踏み留まっても、背中を押してくれる仲間がいる。
隣には、心から信頼できる大好きな人がいる。
「お姉ちゃん……ううん、『永遠印』の創設者且つ、『恋愛ゲーム』マスター」
第三章『藍の河原と星図鑑』 完