序②




いつの間にか雨が上がっていた。狐の嫁入りかな、そう空を見上げながら、ジメジメとした湿気の立ち込める中、足を進める。
日差しが強くて目を細める。葉についた水滴が光に反射して、より一層眩しく感じた。

暑い、ジメジメする、眩しい、しんどい、遠い。
次々とマイナスワードが脳内に浮かぶ。さっさと終わらせてしまおうか。
ホームセンターは徒歩で行ける距離にあり、入店した瞬間に冷たい風を感じた。無意識に深呼吸していた。今から死ぬくせに生きた心地になり、目的のものを手に入れる為に店内を物色する。練炭、ライター、ガムテープ。難なく入手できてレジまで運ぶ。

レジのおばちゃんが、「BBQでもするのかい?」と声をかけてきたので、そういえば今、制服を着ていたな、と思い出した。

私の高校に通う生徒は、ここからすぐ近所の川で、BBQや花火をする機会が多い。その為、ホームセンターに制服で来る人も多いとはわかる。
しかし、木炭ならともかく、練炭でBBQをするとはあまり聞いたことがない。本当に何も考えずに言ったんだろう。

「はぁ、まぁ」と生返事をすると

「雨が上がってよかったね。もう降らないみたいだし、楽しんでおいで」と、笑顔で返してきたので、そそくさとその場を去った。さすがに今から死にます、とは言えなかった。

このホームセンターに来るのも最後か、と感慨深くなった。考えると、今見ている光景ひとつひとつが最後になるわけで、少し物寂しい気持ちになった。だからといって、気持ちが変わるわけでもない。

例えるならば、卒業式のようなものだ。
卒業式では、「学校が離れても遊ぼうね」と友人と言い合うが、結局その約束はほぼ果たされず、次の場所でできた友人と付き合うばかりだ。その瞬間は寂しくても、時が立てば忘れてしまう。良くも悪くも執着しない。喉元過ぎれば熱さを忘れる、みたいな感じだった。今は寂しく感じても、いなくなってしまえば関係ない。
ドラッグストアに寄り、睡眠薬を入手して帰路につく。

今日は八月一日で、夏休み真っ最中。しかし、高校三年生ということもあり、休みという休みはほぼなかった。
毎日、夏期講習やオープンキャンパスといった行事が詰まっている。その為、この時期は毎年一ヶ月間、田舎へ帰っていたが、今回は私だけ家に残り、父、母、弟は昨日から帰省ですでにいない。帰ってくるのは八月三十一日と言っていた。

それを聞いた時、寂しいとは思わず、むしろ一ヶ月間一人暮らしのように自由になれると浮き立った。それにも関わらず、初日で死のうとしているのだから気が変わるにも度が過ぎてる。
材料が揃ったので、気を引き締めて作業に取りかかる。

まずは、窓やドアの隙間をガムテープで塞いだ。

黙々と作業を行ってると、ふと遺書は書くべきだろうか、と思った。特に死後まで誰かに伝えたいような事柄が思いつかないが、迷った結果、家族宛だけ書くことにした。
白紙の紙が見当たらず、柄の入ったメモ帳も何か違う。再び外に出るのは気が引けたので、スクールバッグから大学ノートを取り出してペンを握る。

お父さん、お母さん、タクマへ
特に私自身、何かあったわけではないので心配しないでください。私はこの十八年間、生きられてとても満足でした。今までありがとう。

死んでいるのに、「心配しないで」は、さすがに無理を言っているとは思った。しかし、生前にもっと気にかけていれば、相談に乗っていれば、など悩まれたり、後悔されるのも悪い。私自身、何か嫌なことがあったのではない、ということだけは伝えたかった。
少し考えて言葉を選び直した後、これでいいかと妥協してペンを置く。

クーラーはどうしようか。今は真夏だ。このタイミングで消すと、五分後にはサウナ状態になる。
先ほどまで雨が降っていたので、普段よりも湿度が高い。さらに追い打ちをかけるように練炭にも火をつける。まだ睡眠薬を飲んでいない時に、蒸し風呂状態になるのはさすがに苦しそうだ。

しかし今考えると、エアコンの隙間も防がなければ、密室にならないのではないのか。先ほども言ったが、私は検索エンジンを利用するのは気が進まない。だから、上手い手段を知る術がなく、過去に読んだミステリー小説の記憶を頼りにするしかなかった。
もしも、エアコンのせいで失敗したら。

結局、エアコンの隙間もガムテープで防ぎ、扇風機を利用することにした。睡眠薬を飲み、意識のなくなる直前に電源スイッチに手を伸ばせるように、位置を調整した。
あとは練炭を燃やして、睡眠薬を飲むだけだ。

そう思った瞬間、急に手が震えた。
何故だ。私は自ら命を絶つ為に方法を思索し、準備も万端に行ったというのに。これは反射的な反応なのか。いざ死に直面すると、恐怖を本能的に感じてしまうものなのかもしれない。
これは新たな、そして最後の発見だ、と苦笑した。

気を落ち着かせる為に、また別れを告げる意味も込めて、鏡の前に立った。
一度も染めたことのないセミロングの黒髪に、生気は通っているとわかる赤さの肌。クーラーを切ったので、少し体温が上昇しているな、と頬に手を当てた。
平凡で特徴のない素朴な顔だ。良くも悪くも弄り甲斐のない、全国の女子高生の顔面平均値、といった顔をしている。

鏡の前に置いてある、二個セットのハートの形をしたヘアピンに目がいく。何でもない日に突然、友人のミカから「オシャレをすれば、もっとかわいくなるのに」と貰ったものだった。高校生がつけるには少し幼いデザインだったが、本心から言ってくれているとわかったので、ありがたく受け取ったのだった。

最近ミカに会ってないな。そう思い出すと同時に、使っている姿を見せられなかったことに少し罪悪感を抱き、おずおずヘアピンを手に取り、髪につけた。
可愛らしいデザインなことと、身を飾る為のアクセサリー類をほとんどつけた経験がなかったことから、少し歯痒くなった。

「全然、似合わないな……」

そう呟きつつも、名残惜しく感じて、しばらく鏡越しに自分を見ていた。

違和感を覚えたのはその時だ。どうしてそう感じたのかはわからない。鏡には自分の顔しか映っていないのに、何故か他の誰かに見張られている気がする。

急に先ほどとは違う恐怖が押し寄せてきた。ジワジワ聞こえていた虫の音も止まったのか、辺りがシンと静かになる。部屋はガムテープで密閉され、クーラーは切ったはずなのに、ヒヤッとした空気も流れた気がした。

これは本当に、私の顔なのか?

「違うよ」

いきなり何者かの声が聞こえる。ひっと声を上げて周りを見回すが、誰もいない。
当たり前だ。ドアや窓には一切隙間がないようにガムテープを貼っている。だからこそ声の出所が気になった。

「ここだよ、ここ」

先ほどまで見ていた鏡の辺りから声が聞こえてきたので、おそるおそる顔を向けた。
腰を抜かしそうになった。いや、厳密には抜かしていた。

鏡の中から、一人の少年がこちらの様子を窺っていた。ウサギのような耳のついたフードを被っていて、無邪気な笑顔で私を観察している。

「あはは、おばけでも見たような顔してるよ」

おばけじゃなければ何なのだ、と問いたくなった。
異様に感じたのは、彼の白目の部分が黒いことだった。昨夜の特番の、ホラー映像特集でも似たような少年が出てきたな、と思い出す。もちろんおばけ側なのだが。

私は、必死に今の状況を掴もうと頭を回転させる。さすがの私でも、こんな状況に出会すのは初めてで困惑した。今日は初めて知ることが多いな、と冷静になる為に意識を逸らそうとする。
少年は構うことなく言葉を続けた。

「そっちの世界で生きるのが面倒になったなら、こっちにおいでよ」

「そっち……? こっち……?」

振り絞り、やっとのことで声を発することができた。
少年がより一層笑顔になる。その笑顔を見ると、少しだけ恐怖が和らいだ。

「表の世界で、生きることが嫌になった人たちが来る裏の世界。通称『裏街道』だよ」
その声が聞こえた瞬間、私は意識が遠くなった。