第一部④




玄関入って左手に建物内の地図があったので確認する。このアパートは三階建てで、部屋は一階毎に三部屋ずつある形だった。
私は何となく二階の一番左側、二○一の部屋に決める。誰もいないとは言っていたが、念の為ノックをして入室した。

扉の右手側に電気のスイッチがあったので試しにつけてみた。
すると、パッと視界が明るくなり、あまりの眩しさに思わず手で目を覆う。その反動でつけていたメガネが外れて床に落ちた。貰ったばかりなのに、と罪悪感を抱きながら、落としたメガネを拾って、壊れていないか確認する。
ずっと暗い場所にいたからか、久しぶりの光が刺さるように眩しく感じた。裏街道は明かりがないとばかり思っていたので、簡単に電気がついたことに純粋に驚いた。

しばらくすると目が慣れてきたので、室内を見回す。間取りはわからないが、一人が住むには十分の広さだ。キッチンと風呂トイレも完備されていた。

不思議なことに、クーラーや冷蔵庫、ふとん、タオル、アメニティまで準備されていて、まるでホテルに訪れたかのような錯覚に陥った。手ぶらで訪れる人が来ることを想定されていたかのようだ。
備品を近くで確認しても、埃が被っている様子はなく、すぐに使用できそうだった。これはメイが準備したものなのだろうか。

カーテンをめくるとベランダがあったので外に出た。目前には図書館がある。このアパートと図書館は横並びだったな、と地理を思い出す。
どこからか緩く風が吹き、頬をかすめる。心地いい気候に癒されながらベランダの柵に腕を乗せた。
図書館の窓から乱雑に積まれた本の山が見えた。姿までは確認できないが、あの中央にガラクがいるのだなとボンヤリ思う。それと同時に、再び罪悪感がこみ上げてきたので目を逸らした。

リビングに戻り、ガラクから貰ったメガネを机の上に置いた。小さく息を吐きながら、近くにある一人用ソファに腰かける。

今日はいろいろ起こりすぎた。今日、といっても裏街道に来てからどれだけ経っているのかがわからないから、同じ一日なのかは不明だ。

私は命を絶とうとしてたはずなのに、いつの間にかよくわからない世界に来ていた。
元々死を望んでいたから、最悪身に何かあっても、むしろ都合がいいと楽天的に考えていた。しかし、今は裏街道に興味が沸きつつあった。

久しぶりの感覚だった。何かに興味を抱き、詳しく知りたいと探求心がくすぐられたのは。その為に、自ら行動しようと思えたことも。フィクションのような世界に迷い込んでいる自分が、物語の主人公のようにも感じられた。何となく今の自分は生きているな、と実感することができた。

だけど、所詮今だけなのだ。この興味が三十日まで続くとも限らないし、三十日以降も今の気持ちが続いているとは到底思えない。いわば八月三十日までに、どれだけ裏街道を攻略できるかのゲーム感覚に近いのかもしれない。私的に良く言えば、「死までのカウントダウン」といったところだ。

押し入れに収納されていたふとんを床にしき、電気を消して横になった。
裏街道は変化が起きないと言っていた。身体の成長はしないのかもしれないが、動き回ると眠たくはなるらしい。まだまだ知らないことばかりだな。

横になったことで、急激に眠気が襲ってきたので、私は目を閉じた。

どれだけ寝ていたのかはわからない。だいぶ頭がすっきりしたので、身体を起こす。

そばでメイが眠っていた。心配して見に来てくれたのかもしれない。頭を撫でたくなる母性本能をくすぐられたが、起こしてしまっては悪い。音を立てぬようふとんから抜け出して、その足でベランダに出た。
眠る前と変わらない暗さだが、目を凝らせば遠方まで見渡すことができた。

建物は建ち並んでいるが、人が生活している気配が漂わない。鳥や虫の鳴く声すら響かない。耳をすませばかすかに風が葉をかすめる音が聞こえるほどの、暗闇と静寂に包まれた街。もしかして、裏街道は太陽が昇らないのかもしれない、そう冷静に分析できるほどには、頭が落ち着き、驚かなくなった。

裏街道に来てずいぶん時間が経ったのだろうが、メイが言っていた通りに、お腹が減った感じがしない。
何となく食事を行わないことに違和感を覚えたので、何でもいいから胃に入れたいな、と思った。

食べものを入手できる場所がないかと辺りを見回すと、図書館の前にコンビニのような建物があった。相変わらず店内も暗そうだが、商品が陳列されているのは、この位置からでも確認できる。
メイはまだ熟睡している。物音を立てぬよう気を払いながら、玄関の扉を開けた。

外に出ると、街はベランダから確認した時よりも、一層暗く感じた。特に路地裏は、先が見えないほどに真っ暗だ。暗くて見え辛いなと感じ、そういえばメガネをかけていないと気づく。
だが街は暗く、人の気配もしない。コンビニは目前で、他に歩き回る予定もないので、少しくらいはいいか、とそのまま向かうことにした。

店内も暗いが、冷蔵庫の稼働音が聞こえるので、ここも一応、電気は通っているようだ。
基本的に裏街道は、明かりと人気がない以外は、表と似た造りなのかもしれない。このコンビニもその二点を除けば、表にあるコンビニと変わらないように見えた。

店内を見回す。雑誌コーナーもあれば、日用品も置いてある。冷蔵庫にはパスタやおにぎり、お惣菜まで備えられていた。裏街道では食事が不要なのに、食品が並べられていることからも、表の世界を模倣して造られているんだな、と感じることができる。
少し気になる点が浮上したので、まずはお惣菜の並ぶ冷蔵庫に向かった。

おにぎりを手に取り、裏側を見る。消費期限、と書かれてはいるが、明確な日は印字されていなかった。

次に雑誌コーナーに行き、適当に週刊誌を探したが、そういった類のものは一冊も見当たらなかった。代わりに、図書館にあるような文芸書ばかりが置かれていた。

「あれ?というかこれ、図書館の本だ……」

よく見ると、並べられた文芸書の背表紙の下側には、図書館の蔵書だと示すシールが貼られていた。何故、こんなところに図書館の本が並べられているのだろう。この件はガラクは知っているのだろうか。

「覚えていたら、ガラクに伝えておこう」

雑誌コーナーの隣を見ると、新聞置き場らしきものがあるが、そこに新聞は置いていなかった。

最後にペットボトルの並ぶ冷蔵庫の方へ顔を向けた。時間がないことでほぼわかっていたが、壁には時計らしきものはかかっていなかった。

「なるほど……」

消費期限の記載されていないおにぎりや、雑誌や新聞といった類が置いてない、時計もないことからも、裏街道には時の流れを知る術は存在しないらしい。
それが裏街道の通常、と受け入れることが早く順応できる方法だろう。郷に入っては郷に従えというものだ。それがわかっただけでも十分だった。

本来の目的を達成する為に、適当におにぎりとペットボトルの麦茶を手に取った。そのままレジへ向かったが、そこではたと立ち止まる。

レジに店員もいなければ、お金も所持していない。裏街道には、警察もいなければ法律もないらしいが、それでもこのまま持ち去る行為は気が引けた。とはいえ、どうすることもできない。
結局、カウンターから袋を一枚頂き、罪悪感から逃れる為に、誰もいないレジに向かって頭を下げると、そのまま外に出た。

コンビニを出ると、図書館の傍らに人がうずくまっていることに気づく。
私には、裏街道の住民の気配を感じることができないのか、また、想像以上に自分がビビりなのか、いちいち小さく驚いてしまう自分が情けない。

うずくまっている人は小柄のようで、子どものように見える。腕で隠れて顔は見えない。

その姿を見て、以前友人と入ったホラーハウスで、隅に倒れていたゾンビが、そばを過ぎた瞬間に襲ってきたことを思い出した。
何故、こんな時に思い出したのかはわからないが、そのせいで私は立ち竦むことになってしまった。それに、表の人間だと隠す為のメガネは部屋に置きっぱなしだ。

逡巡していると、うずくまっている子どもが勢いよく顔を上げた。驚きのあまり反射的に声が出る。
その声が聞こえたのか、私の気配で気づいたのかは不明だが、子どもは私に顔を向けた。
幼い少女だ。彼女の目も黒かった。

「ご、ごめんね、邪魔するつもりはなかったんだけど……」
と言って、その場を離れようとするが

「ねぇ」
少女は立ち上がり、つかつかと近づいてくる。

腰まで伸びた暗い髪に白っぽいワンピースを着ていることからも、典型的な幽霊像を彷彿とさせた。アクセサリーでもつけているのだろうか。胸元がきらりと光り、恐怖感を増幅させた。初対面でありながら失礼な第一印象を抱いてしまったのだが、状況が状況だから仕方ない。
とても小柄だ。メイより小さいかもしれない。この少女もこの歳にして裏街道に来たことになるのか。
私は、必死に平静を装いながら尋ねる。

「ど、どうしたの?」

「目、白いね」

少女は二へッと笑う。彼女の笑顔には悪意といった汚い感情が一切混じっていないように見えた。
警戒しすぎていたのかもしれない。少しだけ緊張の糸を解いた。

「でも何で食べもの持ってるの? お腹は減らないはずだけど」

あどけない声でそう尋ねた。パーソナルスペースを完全に無視して少女は近づいてくる。少したじろいだが、それでも動揺を表さないよう対応に努める。

「そうなんだけど、まだ来たところで慣れてなくって、だから胃に何か入れたいなって思っ……」

あまりにも唐突だった。最後まで言い終わる前に腹部に痛みが走る。
少女にお腹を殴られたんだと気づいた時には遅かった。

足元がふらついてる私に間髪入れずにもう一撃振るってくる。その衝撃で足を滑らせて倒れると、少女が馬乗りになるように被さってきた。

「ちょっ……!?」

声を出そうとした瞬間に、首を手で押さえつけられた。あがっという声が出る。気道を確保する為にも身を捩るが、見た目からは想像できない力があるようで全く身動きが取れなかった。

少女は笑顔のままだが、目の焦点が合っておらず、私ではないどこかの空間を見ているようだ。

怖い。

本能でそう感じた。

途端、全身が震え始める。必死に冷静になろうにも止まらない。そしてきっと少女にも私が恐怖していることは伝わっている。私の半分ほどの背丈であるにも関わらず抵抗できない。押さえつけられている首が熱い。少女も興奮しているのだろうか。
少女は笑顔のまま、口を開く。

「胃に何か入れたいんでしょ。だったら、いーちゃんがお手伝いしてあげる」

そう言うと、少女はポケットから何か取り出した。

「ひいっ」

取り出されたものを見て、反射的に声が出た。喉を抑えられているから乾いて擦れた情けない声だった。

少女が手に持っているものは、ネズミのように見えた。しかしピクリとも動かなければ、頭部が目や口と言った箇所の区別ができないほどに潰されていた。さらには腹部はズタズタに切り開かれていて、その中に収納されていたであろう器官が飛び出している。
といったところで考えるのをやめた。頭で認識するだけで吐きそうになってきた。

首を掴まれていることと、今の悍ましい物体を見たせいで、人生で上位に入るレベルに気分が悪い。
さらに足掻くが形勢は変わらない。少女の胸元のバッジがまた不気味に光った気がした。

少女が私の首から顔に手を滑らせ、無理やり口を開けさせる。そして先ほど取り出した物体を楽しそうにゆっくり近づけてきた。強烈な異臭と歪な形貌から拒絶反応を起こし、反射的に目を瞑る。
最後にまた足掻くが、拘束は解かれずに虚しい抵抗となった。