第二部④




久しぶりの光がとても眩しく感じる。目が明るさに慣れるまでは動けずにいた。
この部屋は蒸し風呂のように暑い。自然と額から汗が流れてきたので、制服の裾で拭った。

こちらの世界では真夏だった。数日部屋を空けていたのだから、室内がサウナ状態になるのも当然のことだ。
窓の外では、けたたましくセミが鳴いている。夏期講習帰りだろうか、子どもがはしゃぐ声も聞こえてきた。

暑さに耐えられなかったので、目が慣れて部屋内が見えるようになってからは、真っ先にエアコンのリモコンを探した。
エアコンの稼働する音と共に、心地よい風が流れてきた。しばらくその風に当たって身体を冷やす。いまだ汗が止まらないので、風量を「強」に変更した。
目的を確認する。ひとまず今がいつなのか知りたかった。

最初に壁にかけてある時計に目をやる。針は十時三十二分を指しており、現在も刻々と時を刻んている。太陽が昇っていることからも、午前であることには違いない。つまり、現在は午前十時三十二分、というわけだ。

次に日付。私の部屋にはテレビがない。パソコンもリビングにある家族兼用のものしか所持していない。手帳といったアナログのものでは、タイムリーに情報を得ることは困難だ。

と、ここまで考えたところで机上に置いてあるスマートフォンに目がいく。日差しが当たる位置に置いてたからだろうか、手に取ると本体がとても熱かった。気休めでしかないが、クーラーの真下で擦り、熱を開放しながら電源ボタンを押すも、反応がない。
熱で壊れてしまったのか不安になったが、数日開けていたのだから充電が切れているのだろう、そばにある充電コードに繋いで、願いながら待つ。

すると、機種のロゴが点灯し始めたので、画面に目を注ぐ。

ロック画面には、「二○一九年八月九日十時三十八分」と表示されていた。

愕然とした。体感では四日程度だったものの、実際には八日も経過していた。向こうでは睡眠以外行う必要がなかったので、リズムが狂っていたんだ。

あまり時間がないな、と内心焦りすら感じていた。時間を見失わない為にも、時を知る術は裏街道に持参すべきだ。毎度こちらに帰ってきていては、時間も手間もかかる。
裏街道には電気が通っていた。スマホを持参してもネットが使用できるかは不明だが、時間を確認する程度は可能かもしれない。
念の為、充電器も手に取り、近くにあったスクールバッグに詰め込んだ。

ついでに何か持参すべきものはないか部屋を見回す。勉強机と本棚しか置いてない、女子高生の華が微塵も感じられない殺風景な部屋だ。
裏街道は、基本的に表の街と変わらず、生活に必要なものは大抵揃っていたので、特別何かが必要だとも思えなかった。

そこで文学作品中心に、ハードカバー、親書、文庫問わずにきれいに並ぶ本棚が目に入る。背表紙には、「死」「殺」「怪」といった、不穏な文字が並ぶタイトルの作品ばかりだ。本棚を見た人が眉を潜めたのも今何となく理解した。確かに物騒な本ばかりだ。
一般に比べたら、数は少なくはないだろう、約三千冊ほどの本が棚に収納されていた。しかし、ガラクの周りに積まれていた本の数に比べたら取るに足らない。

ふと思い出す。ガラクは以前、裏街道は変化が起きないから続刊が出ることはない、と言っていた。
何年の作品から裏街道に存在するのかはわからないが、ガラクの読んでいないと言っていた教室シリーズの『科学の時間』は、私が生まれた年、二○○一年に発行された作品だ。好きな作品が私が誕生した年に発行されていたことで、珍しく刊行年を覚えていた。
ザックリとここ約二十年、こちらの世界で発行されている本は、裏街道に存在しないのではないか。

ガラクを思ってその考えに辿り着いたわけではないが、私は彼に迷惑はたくさんかけておきながら何も返せてない。
うっかりネタバレをしたお詫びも、生活に必要不可欠なメガネを渡してくれたお礼も、少女に襲われた際に結果として助けてもらったお礼も、形として何も返せていなかった。

借りを返す意味にも、何冊か持参することにした。

奥付の初版発行日を確認しながら適当に作品を見繕う。ここ二十年に発行された作品となると、結構な数が対象になった。
例の『科学の時間』が目に入る。結末を知ってるミステリーを読みたいと思わないと言っていたが、逡巡した結果、持参することにした。

数冊の予定だったが、いざ選別するには数が多かった。むしろ絞る方が時間がかかるように思えたので、対象の作品はカバンに入るだけ持参することに決めた。私が適当に選別するより、本人に読みたい作品を選んでもらう方がいいだろう。

少し大きめの旅行カバンを引っ張り出してきて、その中に入るだけ本を詰め込んだ。単行本よりも文庫の方がいいな、と文庫中心に選別し、二百冊ほど詰め込んだところでチャックを閉めた。

「重た……」

カバンに詰めることに必死で、裏街道まで運ぶことを考えていなかった。しかしせっかく詰めたのだから頑張って運ぼう、と鏡の前まで引き擦る。
どうせあと数日経ったら、本の所持者が消えることになる。この部屋に置いたままにしておくよりかは、まだ物語の世界を知らない人に受け渡す方がいい。
特にガラクは、物語をさらに色づける才能のある人物だ。だからこそ多少重たく感じても持参すべきだろうと思った。

そこまで考えて、ガラクは元役者だったことを改めて思い出した。
裏街道には、テレビの存在は確認できるものの、実際に放送されることはない。なので彼がテレビの仕事をしていたのは、もちろん表の世界にいる時のことだろう。私と同じか少し上くらいに感じられる外見からも、幼少期から芸能界にいたのではないだろうか。
それに、メイは毎日テレビで見ていたと言っていた。彼がいつ裏街道に訪れたのかわからないが、毎日テレビで見るほどに人気だったのならば、現在でも少し調べれば情報は手に入るのではないのか。

今は、検索すれば情報が簡単に手に入る。手に入り過ぎるほどだから、余計な情報を仕入れる可能性もあり、かえって不便に感じることもある。以前私が死ぬ方法を検索できなかったように。
でも今は、以前のような懸念が生じることもないので、躊躇うことはなかった。

カバンに入れたスマートフォンを手に取る。勝手に詮索することに対しては、後ろめたく感じるものの、本人に直接聞くことができないのならば、視聴者としての立ち位置から、もっというならばファンとしての立ち位置から、検索して得られる程度の情報を共有するくらいはいいのではないか、と勝手にこじつけた。何より、ただ単純に興味が勝っていた。
検索サイトを開き、ワードを入力しようとしてはたと静止する。

何という言葉を入力しようか。

私はガラクのことを何も知らない。わかっているのは、ガラクという呼び名と、きれいな容姿であること、本が好きなこと、そして元芸能人だったこと。それだけだ。

試しに『ガラク』と検索してみたが、記事が表示されることはなかった。平仮名で入力するも結果は変わらない。漢字なんてそもそも思いつかない。私はガラクという名前が本名であるのかすら知らない事実に驚愕した。

「結構会ってる気がしたけど、それでも相手のことを何も知らないんだなぁ」

観念したように力なく腕を下ろし、空を見上げた。

私の名前も思い出せないほどだもんね。

以前見た夢に出てきた少女に、そう言われた気がした。仕方ないでしょ。時間が経てば記憶は薄れるものなんだから。
やるせない気持ちのまま、スマホの電源を落とした。

得たものは、勝手に詮索したことに対する罪悪感だけだった。

目的も達成したので裏街道に戻ろうと鏡に向き直る。そこであっと気づいた。

久しぶりに自分の顔を見た。裏街道で住居としているアパートの部屋には鏡が外されていた。
相変わらず特徴もなく、おもしろ味のない顔をしている。以前確認した時との違いは、胸元にメイから貰った花形のブローチをつけてるくらいだ。

裏街道では色彩の区別がつかなかったが、ブローチの花びらひとつひとつは、紫色の宝石のようで、いまもキラキラと輝いていた。大ぶりの石なので天然石ではないだろうが、人工物でも天然物に負けないほどにきれいだ。うっとり眺めていた。

そこでおやっと不思議に思う。ブローチの端が少し汚れていた。机の中からウェットティッシュを取り出して汚れを拭いた。
しかし、すぐにその行動を後悔した。

ウェットティッシュによって、水分の含んだ汚れは赤黒く見え、ほのかに鉄の香りがした。
背筋が凍りついた。

「……これって…………」

血、だった。

何者の血なのかは不明だ。メイがこのブローチをどこで手に入れたのかもわからないが、今目に映る汚れの色や匂いからも、血であることは確実だった。

途端、つい先ほどまできれいだと感じていたブローチの輝きが不気味に見えてきた。胸元につけていることに恐怖を抱き、制服から外して鏡の前に置いた。再び所持する勇気が出ないので、その場に置いてくことにした。

メイから貰ったものなので、少し後ろめたく感じたが、そもそも今の行動を鏡の向こうからメイが見ていたら意味がないのではないか。
引き攣った顔のまま恐々鏡に目を向けるが、鏡に映る自分の姿しか確認ができず、あの空間の様子が窺えない。メイが話しかけてくる様子もない。沈黙が余計に悪寒を走らせた。

勝手に心配して自爆してはいけない。とにかく表での目的は達成した。大きく深呼吸し、改めて鏡に向き直る。

まずは、大量の本が入ったカバンを鏡へ押しやる。その後、私も身を乗り出すも、エアコンの電源を切っていなかったことを思い出し、慌てて部屋に戻った。一人暮らしの学生が実家に帰省する際に、一番注意しなければならない項目だ。夏休みで浮かれた後、消化の済んでない宿題に加えて痛い目に遭うことになる。

最後にもう一度部屋を見回し、再び鏡に身を乗り出した。

 

***



 

先ほどまで明るい場所にいた為、余計に視界が悪く感じる。

「メイ?」

メイの姿が確認できずに辺りを見回すと、足元から微かに服の擦れる音がした。音の出所へ顔を向けて注意深く観察すると、暗闇の中で何かが動いた。

「あ、おかえり~確認できたようだね」

間延びした声からも、今まで寝ていたようだ。ブローチの血に驚いた様子は見られていないと知り、少し胸を撫で下ろした。
メイは本当によく眠る。もし変化の起きる裏街道であるならば、寝る子は育つの通りにとても成長したのではないか。

メイは私の手を取って歩き始める。私がカバンを重そうに抱えていることに気づくと目を丸くした。

「カバン、パンパンだね。中、何が入ってるの?」

「本だよ。せっかくならガラクに渡そうかなって。メイ用にも、いくつか絵本持ってきたよ」

本を選別している時に、私が幼少期に読んでいた絵本も数冊出てきたので、メイ用に持参していた。幼少期の思い出として一応保管していたが、今となってはもう不要となる。
その言葉を聞いたメイは、目を輝かせて満面の笑みになった。

「本当に!? ありがとう!」

そう言うと、メイは握っている手をぶんぶんと振った。喜んでくれているようで、口元が緩む。微笑ましく感じながら暗闇の中を歩いた。

前方を見ても出口が見当たらない。まだ先は長そうだ。

「この空間は、表のいろんなところに繋がっているの?」

この空間に来た時に浮上した疑問をメイに尋ねた。

「そうだね。ボクもよくわかんないけど、でもこの空間が表に繋がっていることは、アリスも身をもって証明したよね」

「じゃあ、基本的に裏街道に来る人は、この空間を通って来るんだ?」

そう尋ねると、メイは少し思案するように首を傾げる。

「どうだろう。他にも場所はあるかもしれないけど、ボクはここしかわかんないや」

ただの暗闇にしか見えないが、メイが適当に弄ると私の部屋の鏡に通じていた。本当に不思議な空間だ。

私は裏街道に初めて訪れた当時を思い出して、別の質問を投げかけてみた。

「メイはさ、私みたいによく表の人たちを裏街道に連れて来てるの?」

メイが私を裏街道に連れて来たのは、おもしろそうだから、といった理由のみだった。私以外にもおもしろそうな人間を見つけ次第、裏街道に誘っているのではないのか。

「そうだよ。だって、ボクに構ってほしくてさ」あっけらかんとそう言った。

「でも、ちゃんと選んでるよ。裏街道に向いているような人間。アリスを見た時は驚いたよ。冷静そうに見えたのに、でも確実に実行しようという意志が伝わってきたからさ」

そう言って、物珍しそうな顔で私を見る。まさか目撃されているものだと思わなかったので恥ずかしくなった。
裏街道の人間は他人に干渉しない。だからメイは、表の人間に目をつけて裏街道に誘っているのだろう。

しかしそこで、また別の疑問が浮上した。

メイは、自分に構ってほしくて、表から人間を連れてきていると言った。

それなら、そうしたならば、

連れて来られた人間は、今どこにいるのだろうか。