自室のベランダから茫然と外を眺めていた。ポケットにしまっていたスマホを取り出す。画面には「二○一九年八月二十七日 二十二時十四分」と表示されていた。
「あと、三日か……」
いまだに時間間隔が掴めない。気づけば日が経っている。
前方を見ると、遠くの山の青さまでハッキリと捉えることができていた。時間が経つにつれて、私の目も死にかけているんだな。
鏡がないので、目がどんな状態か確認できない。メイが外したとなれば、近所のコンビニには鏡は置いてないだろう。ショッピングモールは、メイもあまり訪れていなさそうなのでさすがにあるだろうが、そこまでして現実を見ようとも思わない。
もう、考えるのも面倒になっていた。
どうせ死ぬから、最後だからと自ら足を踏み入れたものの、結局他人と関わりすぎるとこうなる。自分でも明確にわからない感情で頭を悩ませるのも疲れてきた。
「いまから帰って死んでしまおうか……」
ベランダで黄昏ながら自然と口から洩れていた。
ドアが荒々しくノックされた。玄関に向かうと、そこには困惑した表情を浮かべたガラクが立っていた。
「ガラク?どうしたの?」
「悪い。手を貸してくれないか」
ガラクが慌てて外に駆けだしたので、私も急いで後に続いた。
ショッピングモールへと続く見慣れた道。
だが、今日の街はいつもとは全く様子が異なっていた。
辺り一面、赤だった。
路上で寝ていた裸の変な人も、服を着ているのかと疑うくらいに真っ赤だ。ぴくりとも動く気配を見せない。
花の手入れをしていた主婦は、花壇の柵にくし刺しとなり、そこから滴る鮮血が花に栄養を与えてるようだった。生き生きと赤い花が咲いている。
ジグソーパズルをしていた少年も、今度は自身の身体がピースとなっていた。赤色のパズルは無事完成したようだ。
ヘッドフォンで音楽を聴いていた女の子も頭が無事か心配していたが、無事どころがそもそもなくなっていた。
「ひどい……ウッ」
あまりにも変わり果てたその街に脳が受け入れられず、咄嗟に手で口を覆う。眩暈を起こし、足がもつれて転びそうになったところをガラクが腕で支えてくれた。
「ごめん……ありがとう」
これは現実なのか?いつもの街とはあまりにも違いすぎる。
「オレの……せいだ」ガラクは力なく呟いた。
「ガ、ガラクのせい?」
ガラクはその問いかけには口を開こうとしない。彼の発言からも、街をここまでしたのは誰か見当がつき始めていた。
「メイだ。まさかここまでするとは思わなかった」
私が考えていたことと答え合わせをするようにガラクはそう言った。やっぱり街がこのように変貌したのはメイのせいだったのか。
尋ねたいことはたくさんあったが、とにかく今はメイを探すことが先だ。
「メイとは付き合いは長いが……図書館かアパート以外に行きそうな場所に思い当たる場所がない。アリス、どこか心当たりはないか?」
長年一緒にいたガラクもわからないなら、私の方がわからないのではないのか。そう思うが、普段図書館から出ないガラクを見ていただけに、仕方ないとは思った。
そこで、ふと思い出す。
「……公園」
「公園?」
以前、公園で遊んだ時にした会話を思い出した。表では公園が家みたいなものだったと言っていた。公園にいれば誰かがいたとも。
私たちは、アパートから徒歩十分ほどの距離にある公園へ走って向かった。
公園にはやはりメイがいた。滑り台の下で小さく丸まっている。彼の着ているうさぎの服は真っ赤に染まり、手には大ぶりのハサミが握られていた。
それを見て立ちすくんでしまう。ガラクも息を飲んでいた。だが小刻みに震えていることがわかり、私は深呼吸してから名前を呼ぶ。
「メイ……?」
少しずつ近づく。メイは私の問いかけに反応しない。
「メイ」
今度は少し強めに、はっきりと聞こえるように名前を呼んだ。今、メイがそこに存在しているのだと自覚できるように。
「どうせアリスだって、表に帰っちゃうもんね」メイは投げやりに呟く。
「みんなみんな、表に帰っちゃう。どうして?どうしてあんな場所に帰りたいの?弱いものはイジメられて、いいことなんて何もないあんな世界にどうして帰ろうと思うの?ボクは、表で生まれたせいで嫌なことばかりだった。何不自由ないこの世界の何が不満なの?どうして暴力や権力差別恐喝で溢れているあんな汚い世界に帰ろうと思うの?ボクはわからないよ」
「ど、どうしたの……?」
メイが何故いきなりそのようなことを言い出したのかがわからなくて困惑していた。私が帰るのは元々知っていたことじゃないか。
「オレのせいだ」
後ろから声が響く。その声に振り向いた。ガラクは顔を僅かに引き攣らせて目を落としていた。
「ガラク……?」
先ほども聞いた言葉だ。私は状況が読めずに目を白黒させた。
その瞬間、メイの表情は一変して、滑り台の下から飛び出した。
そして、持っていたハサミで――――――ガラクの太ももを突き刺した。
「――――――ッツ!」
声にならない悲鳴がガラクから漏れた。きれいな白いズボンがじわじわ鮮血に染まる。突然の衝撃にさすがのガラクも目を見開いて顔を歪ませた。
「ガラク!」
咄嗟にガラクの元に駆け寄る。メイは無言のまま、突き刺したハサミを抜く。それと同時にガラクはその場に膝をついた。
「メイ……」
絞るような声でガラクは問う。メイは眉間に皺を寄せて、どこか悲しそうな顔をしていた。
「だって、ガラクも表に帰っちゃうんでしょ……そんなの、そんなの絶対ボク認めないから」
そう叫ぶと、メイはその場から走り出した。後を追おうとするが、目の前で唸るガラクが視界に入り、足を止めた。放っておけない。彼の肩を支えて身体を起こす。
「早く……早く手当しよう……‼」
「わ、悪い……」
ガラクは細見だが、身長が高いのでそれなりに体重がある。
私まで倒れないように足に重心をかけて、近くのベンチに座らせた。
幸いアパートから公園までは距離が近いので、コンビニを探す手間もなかった。普段利用しているコンビニで、ありったけの消毒液と薬、包帯、水、タオル類を掻き集めて公園に戻る。
ガラクはベンチの上で足を伸ばし、患部に脱いだ上着を当てている。いまだ顔を引き攣らせていた。私は持ってきた品を慌てて地面に広げる。
気が動転している。私には手当ての知識がほとんどない。
目に入った消毒液を持ち、ガラクの手を退けて患部に勢いよくかけた。
その瞬間、ガラクは目を見開いて顔を歪ませる。想像以上に染みたのか、あ、と思った時には遅かった。
「この……脳筋かてめぇ……!」
痛みからか、普段以上に口が悪い。申し訳ないとは思いつつも、それだけ反応ができる元気があることに少し安堵した。
「よかった……」
「よくない。やるならもっと丁寧にやれ」
ガラクはぶっきらぼうに言うが、傷の深さからもガラクが無理をしているとわかる。
私が取り乱してどうするんだ。深呼吸して頭を落ち着かせる。まずは止血だ。
「ねぇ……この傷って治るの?」
手を動かしながら、疑問に思ったことを口にした。
屋上で見た死体。息をしていないのは確実だろうが、全く腐敗している様子はなかった。それは変化の起きない裏街道だからだ。
私の考えは残念ながら正解らしく、ガラクは首を横に振って答える。
「知っての通り、変化の起きない裏街道では、自然治癒は期待できない」
私は顔面が蒼白になる。しかしガラクは、だが、と続ける。
「薬の効能で治るはずだ。オレがケガを負ったように、人間が手の加えたことに関しては、変化を起こすことは可能だからだ」
手を加えれば変化は起きる。裏街道に来た際にメイも言っていたことだ。
でもそれなら薬の効能にしか期待できない。もっと良い薬を使った方がいいのではないのか。
「心配するな。これくらいのケガ、なんてことない」
私の不安が顔に滲んでいたのかもしれない。ガラクは私を安心させるように声色を温かくして言った。
止血が終了したので、次は患部だ。
「少しでも早く治るようにさ、患部に直接手当した方がいいと思うの。この状態で脱ぐのは無理だろうけど、ケガの周りの部分だけ少し服切ってもいい?」
私のその問いかけに、ガラクは怪訝な顔をした。
そんな顔をされても、自然治癒が望めないならば、なおさら傷に直接薬を塗るしかないではないか。
悶々として黙り込むが、ガラクは私の思考を理解しているのだろう。小さく息を吐きながら、ズボンの裂けた箇所に手をかけて服を裂き始めた。
直視しているのは悪いと思い、視線を逸らそうとしたが、予想外のものが目に入ってきて、逆に目を見開いてしまった。
普段は首元まで隠れる服を着ていたので、初めて見たガラクの素肌。
その肌は、おびただしい数の傷がついていた。
「え……?」
「……そういう反応をすると思った。だから躊躇ったんだ」
完全に手が止まった私を見て、ガラクは促すように声をかける。
「まずは手当てをしてくれ。話はそれからだ」
黙々と手を動かした。今は何も考えないようにしたいが、どうしても視界に入る。その度に目を逸らしたくなる。
感じるのは、今手当てしている傷よりも、素肌の傷の方が深いだろうということだった。
ガラクは何も言わない。この場の空気がとても重く感じた。
黙って治療に専念したことにより、想像以上に手当は早く終了した。先ほどよりも痛みは引いたのか、ガラクの表情も落ち着きを取り戻している。
ガラクは黙り込んだ私を見て、観念したように腕の裾をまくる。私は再び目を丸くした。
袖から覗いた腕も、脚と同じく無数の傷跡があった。
「まぁ、これが、オレが裏街道に来ることになった原因だ」
「その傷は、事故とかではないよね」
ほぼ確認に近かった。明らかに意図的に傷つけられてるように見えたからだ。
「そうだな。もちろん自分でやったわけでもない。表にいた頃にやられたものだ」
そう言うと先ほどよりも腕をまくり、観察するように自分の腕を見た。
「これは『バカ』……か。こっちは『女好き』。確かにそういった役を演じたこともあったが、オレ自身に向けられた言葉だとしたら腑に落ちんな」
傷跡は見るからに罵倒文句が浮かんでいた。
裏街道では季節は感じられないものの、ずっと肌の露出が見られない服を着ている姿に少し違和感を抱いていた。
一度、ガラクの風呂上り姿を見たことはあったが、あの時はまだ目が慣れてなく、メガネもかけていなかったから、現実が見えていなかった。
裂いたズボンの隙間から覗く脚とまくられた腕だけでもわかる。全身同じような状態ではないのか。
しかし、平然とした様子で傷を確認しているガラクを見て反応に困った。どうしてそんなに軽い調子で言えるのか。
私の心境を察したのか、ガラクはこちらを見ると苦笑した。
「もうずいぶん前のことだ。さすがに今では、過去として受け入れてる」
ガラクは裾を元に戻して、空を見た。
「メイも言っていたように、オレは物心ついた時から芸能界にいた。父親はいなかったが、母が熱心なこともあって仕事も絶えることなくそれなりに貰えていた。だが、それに比例して妬みを買うことが増えた」
ガラクは滔々と語り始めた。
まさかガラク本人の口から、過去の話を聞くことになるとは思わなかった。それほど私の顔に不安が表れていて、気を遣ってくれたのかもしれない。私は黙って耳を傾けていた。
「オレが十七の時だ。仕事で学校に通うことが難しくなり、母から中退するように言われた。だが、小学校の頃からまともに学校に通えていなかったんだ。一日だけでもいいから普通の学生として学校に行きたいとその時初めて我儘を言った。母は初めは立場を考えろと反対したが、しぶしぶ許可してくれた」
そう言って、息を吐きながら目を閉じる。
「今思えば、オレをよく思わない奴にとったらむしろチャンスだと考えたんだろうな。特別扱いすることなく接してくる奴らに心を許してしまったオレもバカだった。詳細には言わんが……結果、身体はこんなありさまだ」
本当に過去として受け入れているのだろう。ガラクの表情には怒りは感じられず、むしろ懐かしさすら滲んでいた。
そんな彼の軽い調子から混乱しそうになるが、語られる内容は到底軽いものではない。
「顔面が傷つけられなかっただけまだよかった。向こうも芸能関係の仕事をしてたやつらしいからな、大ごとにされるのを懸念していたんだろう。元々はオレの我儘から始まったことだ。仕事に影響が出るのだけは避けたかった。だからこの件は隠そうと普段通りに振舞った。幸い当時は撮影がひと段落したところで、それに隠すのは得意分野だったからな、しばらくはバレることもなかった。しかし傷口が塞がってもなお、傷跡が残ってしまった。仕事上、さすがに隠し通すことは難しかった」
ガラクは視線を落として、腕をさするようにする。
「痛々しい傷痕、人に見られる仕事が務まるわけがない。だが大ごとになることで、オレや母に向けられる視線が変わるのが怖かった。だからこのことは世間に流さずに芸能界引退ということで片をつけてもらった。しかしそれから母が豹変した。いつの間にか母は仕事を止め、オレのマネージに専念していたようで、生活をどうしてくれるんだと激昂した。過保護だったのも全てオレを商品として扱っていたからで、仕事のできなくなったオレに関心を示すことはなくなった。傷がつけられた原因にも一切触れることがなかった。そして数日後、錯乱状態のままホームから飛び込んだ」
私は思わず口を手で覆った。ガラクは地面を見ながら目を細めた。
「周りの人間は信用できない。唯一の理解者だと思っていた母も、結局オレを道具としてしか見ていなかった。学校にもまともに通っておらず、名前と顔が知られていることで気軽に行動できない。だが芸能界復帰も望めない。日々の生活に母の自殺の賠償金で仕事で得た金も底をつきそうだった。どうすべきかわからなくなり、気づけばビルの屋上に立っていた」
死ぬなら電車への飛び込みだけはやめろ、とぶっきらぼうに言った。
しかし、すぐに視線を落とす。
「だけど、やっぱり怖かった……。こんな状態でもなお、死ぬのが怖くて、生きたいと思ってしまった。その瞬間、前が見えなくなり、気づけば裏街道に来ていた」
張り詰めた空気。私は息ができなくなっていた。