気分を高揚させる軽快な音楽が流れていた。歩く人たちは、園内マップ片手に目的地を話し合えば、通路脇に座りパレードの場所取りをする。彼らの頭にはネコやウサギ耳のカチューシャがつけられていた。舞い上がっている感情を隠すことなく皆笑顔だった。
時折鉄柱がゴゴゴッと鳴れば、遅れてキャーッと絶叫する声が快晴の空に響く。心地良い春の日和に、洋風のカラフルな建築や甘いポップコーンの香りからも、より一層、現実を忘れさせる。
まさに「夢の国」と言える空間だった。
「わぁ~美味しそうなものがいっぱいだ~!」
軽食店の並ぶストリート街、二宮 美子(ニノミヤ ミコ)は、目を輝かせながら感嘆の声を上げる。
胡桃色の柔らかい髪にピンク色のリボンが映え、ウール素材のニットにAラインスカートを着用、頭には周囲の人たちと同じくウサギのカチューシャが付けられている。彼女の愛らしさがより一層、際立っていた。
「確かに、どれも美味そうだ」
美子の隣に立つ、二宮祐介(ニノミヤ ユウスケ)は、軽く笑いながら彼女の頭を撫でる。
鳶色の軽い髪に大きな猫目、ゆったりしたチェック柄の折り襟アウターを羽織り、首からポップコーンバケットが下げられていた。ラフに園内を楽しむ姿は、普段通りに余裕が感じられる。
「でも、結構高いなぁ」
美子は、メニューの記載された看板を見ながら、口元に人差し指を当てる。
「気にせず食えよ。俺も出してやるから」
「いいの?」
「あぁ。こんなところ中々来れないしな」
「ありがとう! お兄ちゃん!」
そう言って美子は、祐介の腕に抱き着く。そんな彼女の頭を、祐介は優しくなでる。
「でも、ほどほどにしとけよ。アトラクション、まだ乗るんだろ」
「大丈夫だよ~。むしろエネルギーチャージしないとなんだ~」
美子はげっそりした顔でお腹を擦る。
現在は午後十二時半。午前九時の開門から現在まで休みなくアトラクションを堪能していたようだ。
「よーし。今日はいっぱい食っちゃうど~!」
そう宣言すると、美子は、ミートパイの販売している屋台までパタパタと駆ける。
祐介は、やれやれと笑みをこぼしながら彼女の後を追う。
三月下旬であることから、周囲は若い学生集団で溢れていた。
春休みは宿題もなければ、暑くも寒くもない気候の良い時期だ。さらに卒業などで別れが多く、まさに思い出を作る為の休みだとも捉えられる。
祐介たちの通う全寮制の緑法館は、先日まで寮内の入れ替えで慌ただしかったものの、現在はひと段落していた。
普段は幼馴染たちもいることが多かったが、騒がしい一人が仕事であるだけ兄妹水入らずでこの場に訪れていた。
とは言うものの、二人だけでこういった場に来ることは意外にも初めてだった。
祐介は、周囲を見回しながら美子の元まで向かう。制服デートをしているカップルが多いな、と内心思った。三月なだけに仕方ない。
仲良くチュロスを食べ歩く男女が目に入る。夢の国にいるだけに、緩んだ表情を浮かべていた。
彼らを見る祐介の目は、どこか憂いを含んでいた。
「ミートパイ、ひとつください〜!」
美子は、キラキラした顔で元気良く注文する。
店員のお姉さんは、「はーい。おまちくださーい!」と美子に合わせて明るく答える。
「今は学生証を見せていただけましたら、学生の方にアイシングクッキーのプレゼントをしているんですよ。よかったらどうですか?」
「あ、でしたら、ぜひ」
そう言って祐介は財布から学生証を取り出してカウンターに置く。美子も学生証を店員に見せる。
店員は、それを確認した時に僅かに目を見開く。
「兄妹、だったんですね」
「え?」
「てっきり、カップルなのかなって思ってました」
店員の女性は目を細めて笑う。
「美子はお兄ちゃんのことが大好きなんだ〜」
美子は、祐介の腕に抱きつきながら店員の女性に説明する。そんな彼女に祐介は頭を掻く。
「仲が良いんですね」
店員は柔らかく笑うと、ミートパイとアイシングクッキーをトレーに乗せた。
他にもいくつか注文すると、適当なベンチに腰掛けた。
美子の膝の上には、ミートパイにチキンサンド、ワッフル、ドーナツとたくさん購入されていた。
「お兄ちゃん、それだけでいいの?」
美子は、祐介の手に持つカップドリンクを見ながら尋ねる。
「あぁ。たくさん乗った後だから、今は食えなくてな」
ほら運動した後は中々食えないだろ、と祐介は苦笑しながら言う。自身の体力の低下を痛感しているようにも見える。
「あとでまた食うよ。だから気にしないで」
「わかった!」
そう言うと、美子はミートパイにパクリと齧りつく。ん~っと頬に手を当ててしっかりと味わう。彼女にとって食事の時間がまさに至高の時間だった。
幸せそうな彼女の顔を見て、祐介も自然と笑みが零れる。すでにお腹いっぱいだ、という満足感があった。
祐介にとって、美子の食事している顔を見るのが至高の時だった。食べることの好きな彼女が一番輝いている瞬間だ。
美子の屈託のない笑顔が引き出せるのならば、祐介は何だってする心持だった。
たくさん食べることで美子は児童養護施設に入ることになった、とは、以前施設の職員から聞いていた。だからこそ、祐介は美子に我慢をさせていなかった。
お金がかかるならば、稼げば良いだけ。アルバイトは表向きでは禁止されているものの、その規則は合ってないようなものだった。長期休みに入ると、祐介は知人の紹介でこっそり短期アルバイトをしていたのだ。
美子の笑顔が見られるならば、それだけで満足だった。
この感情は、兄妹以上のものだと祐介自身理解している。美子が家に来た時をはっきり覚えており、血の繋がりがない、と初めからわかっていたせいでもあった。
だがこのことは、二宮両親と施設の職員、祐介、そして偶然知られた直樹という寮生しか知らない。美子自身、祐介とは血の繋がりがないとは知らないのだ。
先ほどの店員の反応を思い出す。美子のブラコンと呼べる祐介への依存からも、今までも兄妹ではなくカップルだと間違われることはよくあった。血の繋がりがないので外見が似ていないのは当然だった。
そのたびに祐介は内心、複雑な感情になっていた。
もし周囲にも二人には血の繋がりがないと知られていたのなら。美子自身、祐介が実の兄ではないと知っていたら。
本当のこと話してしまった方が良いとは数え切れないほど考えた。 しかし親が仕事の都合で仕事を離れたことで中々叶わないでいた。
自分の言葉で彼女の顔を暗くさせたくない、と祐介は考えていたのだ。
だから祐介は、美子の良き兄としていられるように、美子が幸せになれるように、兄として振舞うと決めていた。
いつか彼女が、本当のことを知る時が来るまで。
「キミたち、よければバルーンどうですか」
陽気な声に二人は顔を上げると、そこには奇抜な衣装を着用したクルーが立っていた。携えているバルーンは、ハートや星型のポップでカラフルなデザインだった。
「いいんですか? ありがとうございます」
祐介はラフに答えて手を伸ばす。
店員は水色のハート型バルーンを祐介に渡す。迷わずハートを選ぶところからも、またカップルと間違われているんだな、と内心苦笑する。
「はい、彼女さんも」
そう言ってクルーは、美子にピンク色のハート型バルーンを差し出す。
「わ〜かわいいね、お兄ちゃん」
美子はバルーンを見ながら嬉々として言う。祐介は肩をすくめる。
彼女の反応にクルーも申し訳無さそうに頭を掻くと、隣のベンチのカップルの元まで向かう。
周囲に歩く人々もバルーンを手に持っている。中でもハート型のバルーンを所持した男女カップルが目立つことから、美子もそのことに気づいたようだ。
祐介がジュースを啜る中、美子は手元のバルーンに目を落としていた。
***
食事が済んだ後は、午前の絶叫系アトラクションとは変わり、パレードやゆったり進むライドアトラクションを堪能していた。
たくさん動き、たくさん食べた午後の昼下がりだから眠気が来るのは自然だ。うつらうつらとする美子のことを赤ちゃんみたいだな、と祐介は目を細める。常に眠そうな幼馴染みがいるだけ、お昼過ぎの午後はこういうものだと理解していた。
現在は午後三時。閉門まであと二時間ほどだった。
最後までいると、帰りの交通機関混むな、と考えた祐介は、自身の腕に頭を預けている美子に顔を向ける。
「美子、観覧車いこっか」
その問いかけに美子はポヤンとした顔を上げる。
「疲れただろ。時間もちょうど良いし、最後に」
そう言うと、美子は目を擦りながら「うん」と小さく頷いた。
園内の奥にある観覧車まで辿り着く。皆考えることは同じなのか、観覧車に並ぶ人たちの顔はどこか疲弊していた。携えているバルーンはハート型のものが多かった。
順番が来て二人もゴンドラに乗車する。
「お兄ちゃん」
しばらくぼんやり外を眺めていると、美子が小さく呟いた。
彼女に顔を向けると、美子はバルーンをいじいじしながら口を窄めていた。
彼女の態度に祐介は首を傾げる。
「何で、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだろう……」
「え?」
突然の問いかけに祐介は目を丸くする。
美子は僅かに悔しそうに眉を下げる。
「お兄ちゃんのことがこんなに大好きなのに、お兄ちゃんみたいにかっこいい人はいないのに、なんで兄妹なんだろうってたまに思うんだ〜。こんなにも大好きなのに、兄妹だから、カップルにもなれないし、結婚もできないでしょ」
夢の国であるからか、今日はたくさんカップルを見かけた。それに店員やクルーの反応からも祐介たちも勘違いされることがあった。
そのことが美子自身も気になっていたようだ。
本当は、俺たち血の繋がりがないんだよ。
喉まで出かかるが、祐介はその言葉を飲み込む。
言ってしまいたい。でもこんなこと、軽い調子で言えるわけがない。
平静を保っているものの、祐介はすぐに何も言えなかった。
「美子」
しばらくして祐介は口を開く。「一回俺のこと、名前で呼んでみて?」
「え?」
「『お兄ちゃん』じゃなくて、『祐介』って。ちょっとは恋人っぽくなれるだろ」
祐介は目を細めて意地悪く答える。そこには普段の余裕が感じられた。
落ち込んでいる妹を前に、兄である祐介まで暗くなれるわけがなかった。
突然の提案に、美子は暫し目をパチパチとさせる。
自分でも何を言っているんだとは祐介自身思っていた。だが、どこか悔しくなったのだ。
「ゆうすけ」
美子はビー玉のような澄んだ瞳でそう言った。
彼女から初めて呼ばれた自身の名前に、祐介は鳥肌がたった。
「…………お、お兄ちゃん……」
恥ずかしくなったのか、名前を呼んで数秒後、美子は下を向いてそう続けた。その顔は少し紅潮している。
美子は赤らんだ頬を両手で覆う。
「お、お兄ちゃんじゃないみたい……」
「なんだそら」
祐介は、余裕ありげにははっと笑う。
だがその顔には、隠しきれぬ彼女への想いが表れていた。
祐介は美子を引き寄せ、額にキスをする。
彼女の細い髪と、マシュマロのように柔らかい肌、ミルクのような甘くて幼い香り。その全てが祐介には愛しかった。
突然のスキンシップに、美子はポカンと口を開ける。
祐介は、彼女の丸い瞳をまっすぐ見つめる。
「美子、大好きだよ」
そう言って祐介は優しく頭を撫でる。
大好きな兄からの愛に、美子は今日一番の笑顔を見せる。
「美子も、お兄ちゃんが大好き」
屈託ない笑顔だ。兄であるこの立ち位置の特権でもある。
「…………もう地上だね。帰ろっか」
「うんっ」
ゴンドラから降りると、美子は、祐介の腕に絡みつく。
子犬のような温かい体温に、祐介は内心満たされていた。
いつか必ず、その時は来た時は話すから――――
今だけは、彼女の笑顔で満たされたまま、幸せでいさせてほしい。
この笑顔は、誰にも渡せるわけがないのだから。
西に沈んだ日を眺めながら、二人は帰路についた。
『夢の国より春うらら-兄妹の境界線-』 完