北空からのオクリモノ【完結】

 

 雪は溶解し、新芽がちらほらと覗き始める。

 不意にそよぐ恵風には、肌を差す冷気は感じられず、緩やかで心地良い。

 芝生も冬眠から目覚めて活動を再開し、太陽の恩恵を受けようと青々と茂っていた。

 昨夜の天気予報では、「花粉に注意」と言っていたものの、こんな気候の良い日に窓を開けないほうがもったいない。

 この場所から見える景色が、僕の世界なのだから。

「もう春か……」

 僕は、窓枠に腕を預けながらぼんやり思う。

 目前に見える大木も、ピンク色の蕾をつけ始めている。恐らく来週には花開くはずだ。

 何度も見た光景であるものの、年に一度のビッグイベントが訪れることに、内心胸を弾ませた。

 今日は遅いな、と何気なく時計に目を向けたと同時に、コンコンッとノック音が響く。

 僕は慌てて窓を閉めると、居住まいを正した。

「冬馬、ごはんよ」

 その声と共にドアが開き、母が顔を覗かせる。腕には、朝食の乗ったトレーを抱えていた。

 焼けたトーストの香ばしい香りがふわりと舞う。朝の匂いだ。

「ありがとう」僕は柔和に笑う。

 母は、無言でベッドサイドにあるテーブルにトレーを置く。僕は車いすのハンドリムを操作して、テーブルに近づく。

「窓を開けていたでしょ」

 突如、母は冷ややかな声で僕に問う。

 バレていないと思っていただけに、思わず顔が強張る。

「少しだけ、換気をしていただけだよ」

 僕は、できるだけ平静を保ちながら答える。

 母は僕を一瞥すると、小さく溜息を吐きながら、室内隅に設置されている空気清浄機を指差した。

 つられて顔を向けると、普段は緑色である機械のランプが、赤色に変わっていた。

「今日は花粉が多いと、今朝の天気予報で言っていたわ。窓を開ける方が、むしろ身体に悪影響よ。部屋の空気が気になるなら、もっと良いものを用意するから」

 とにかく開けるのはよして、と母は窓に近づくと、ぱちんっと鍵をかけた。

「ごめんね……。わかったよ」

 余計な心配は与えたくない。だから言い訳もしない。

 母は安心したような顔つきに戻ると、そのまま部屋を出ていった。

 僕は小さく息を吐くと、テーブルに置かれた朝食に顔を向ける。

 こんがりと焼かれた四枚切りの分厚いトーストに牛乳、スクランブルエッグ、キャベツときゅうり、トマトの切られた新鮮なサラダ、そしてりんご、苺、オレンジの盛り合わせ。

 栄養バランスの取れた、いつもと変わらぬ朝食だ。

 僕は、室内の水道で手を洗った後、朝食に手を付け始める。

 分厚いトーストに齧りつく。サクッと軽やかな音が鳴り、ふわふわの生地から軽く湯気が上がる。

 いつもと違うパンだな、とすぐにわかった。

 昨夜のニュースで、偶然高級食パン専門店の特集が放送され、ちょうど夕食を運んできた母と話題になったことを思い出す。

 軽い気持ちで「食べてみたい」と言ったものの、すぐに手配するところも母らしい。

 咀嚼すると甘い香りが鼻孔を擽り、交感神経を刺激した。余計なものが塗られていなくても、これだけ満たされるものなのか。

 正直、所詮食パンだろう、と軽視していただけに驚愕した。

 日常の中の僅かな変化が嬉しくて、思わず顔がほころぶ。

 朝食を済ますと、車輪の方向を転換して、再び窓に近づく。

 低い目線からでも外が見える大きな窓だ。汚れの知らないガラスが、日光に反射して虹色に輝く。

 ガラスに触れると、陽光の熱を感じて、外に出ている気分を味わえた。

 目前の大木の枝が風で揺れる。それと共に、ザァッと心地良い音が窓越しに届く。

 窓を開けたい衝動に駆られるものの、先ほど母に指摘されたことを思い出して、感情を抑え込む。

 この生活になって五年、この窓から見えない外の世界なんて、遠の昔に忘れてしまった。

 年中、快適な室温に保たれているこの病室では、寒暖差を感じることはほぼない。

 食事は栄養管理の徹底されたものが提供されるし、空気清浄機の質もレベルが違い、ほぼ菌と無縁の生活だと言える。

 何よりここは父の病院であるから、息苦しくもなければ、お金にも困っていない。頼めば漫画やゲームもすぐ手に入る。

 この部屋での生活は快適すぎるほどだ。

 それだけ外に出る要因は、断たれていた。

 生まれつき心臓疾患を抱え、且つ交通事故で歩けなくなった、たったひとりの息子だ。母が僕を外に出したがらないのも仕方ないと思う。

 少々過保護だろう、と感じることはあるものの、それ以上に僕への気遣いが節々に感じられる。

 先ほどの食パンだってそうだ。話していたのは昨夜であるにも関わらずに、すでに食卓に並んでいる。朝食の配膳が遅れた理由も検討がつく。

 僕は顔を落として息を吐く。

 ないものねだりだとは、わかっている。

 だけど、ただ見ているだけじゃ、やはりつまらない。

 実際外に出て、あの大木に触れたい、青い芝生に寝転がりたい、風を全身で浴びたい、とどうしても願ってしまう自分がいた。

 

***

 

 底の深い海に沈んでいた意識が、何ものかに呼び起される。

 うっすら目を開けると、見慣れた大きな窓が目に飛び込む。外は暗く、すでに日は沈んでいた。

 衝撃を受けて額を抑える。いつの間にか眠っていたようだ。

 特に予定はないものの、一日無駄にしたように感じられた。

 通信で受けている授業も、最近サボり気味でそろそろ怒られそうだな、と静かに反省する。

 今日はここ最近で一番暖かく、過ごしやすい日和だったから仕方もないだろう。

 しばらくベッドの上で伸びていたが、ふとテレビの音が聞こえるな、と身体を起こした。

 目を疑った。

「おっ、やっと起きたね」

 室内に設置されたテレビの前に佇む少年は、こちらに振り返ると、よっ、と手を上げる。

 年齢は、僕より三、四歳下くらいだろうか。

 ふわふわのファーのあしらわれた飛行帽から色素の薄い髪と肌が覗く。首から膝下まで覆うダウンコートに、北欧感溢れる柄のあしらわれたスノーブーツを着用している。

 まるで寒気から身を護るような服装に、時代遅れならぬ季節遅れを感じた。

 と、冷静に観察するほどには、現状を受け入れられていないのだろう。

 この少年は、一体誰だ。

「えっと……誰?」

 あまりにも直球だ。昔からの癖で、感情をわかりやすく表に出すことはないものの、内心混乱しているのだろう。

 それもそのはずだ。少年のごく当然のような態度や対応に、友だちがいないにも関わらず、旧友かと錯覚してしまった。

「誰だと思う?」

 少年は、意地悪そうに口角を上げて聞き返す。

 僕は一旦、状況を整理する為に、少年から視線を逸らす。そのまま何気なく、窓辺に顔を向けた。

 窓は閉まり、鍵もかけられたままだ。僕の記憶が正しければ、今朝、母が鍵をかけた後から、手を触れていない。

 つまり、現在に至るまで内側から施錠されていたはずなので、窓からの侵入は不可能だ。

 

 次に、入口ドアだ。

 この部屋のドアには、鍵がついていない。突如、発作が起こった際に、父や母が早急に駆け付けられる為の計らいだ。

 だが、この部屋に来るには、母や父がいる個室前を通る必要がある。つまり、誰にも気づかれずに、この部屋までたどり着くのは不可能だ。

 鍵のない個室も、特殊な経路も、父の病院であるからこそ実現した、大胆な構造だ。

 この少年が、どこからこの部屋に侵入したのか検討がつかなかったが、そこでひとつ、可能性が浮上する。

 ここは僕の家でもあるが、それ以前に病院だ。

 病院は、ケガや病気を治す場所だが、残念ながら治療が間に合わない時だってある。

 漫画やドラマでも、そういった題材を扱う際、舞台としてよく扱われるものだ。

 僕は、恐る恐る少年に顔を向ける。

「君は、――――幽霊か?」

 そう尋ねた瞬間、少年はブッと吹き出す。

「ははっ、おもしろいね。それが人間の『幻想』ってやつかな」

 少年は、お腹を抱えて愉快そうに笑う。

 大真面目に尋ねたので、馬鹿にされたようで内心不愉快だ。

「満足な反応をありがとう。じゃ、答え合わせね」

 少年はそう言うと、窓の外を指差す。

 つられて顔を向けると、真っ暗な空が目に入った。

 明日は雨なのか、月は傘を被り、星々も分厚い雲に隠れて、輝きを見せる様子はない。

「オレは、あそこから来たんだ」

 少年は、ごく当然のように答える。僕は、表情を変えずに少年に振り向く。

 僕を見るその瞳は、濁りなく透き通った碧色に輝いている。冗談を言うにしては、あまりにもまっすぐな目だ。

 昔から、人の表情の変化には敏感であるだけに、嘘でないとは判断できる。

 だからこそ、彼の言葉にどう反応すべきか頭を悩ませた。

「『北極星』と言えば、あんただってわかるんじゃないか?」

 北極星。それくらいのことはわかる。

 北極星のある位置が軸となり、地球は回転している。だから一年中、北の空に見られる星、として理科の授業で習った。

 ちなみに『北極星』は、天の北極に位置する星を示す名称であり、壮大な時間軸で言うと、該当する星が変わる。随分昔では、「織姫」として馴染みの夏の大三角を構成する一等星のベガが北極星だった、とも聞いたことがある。

「北極星はわかるよ。で、その星と君と、どう関わりがあるの?」

 もったいぶって話す少年に、解答を急かすように問う。

「オレがその、北極星なんだ!」

 少年は、ドヤッと胸を張って宣言する。

 あまりにも突飛な告白に、開いた口が塞がらない。

「オレの名前はポラリス。空の世界からやってきた」

 呆気に取られる僕を他所に、少年はハキハキと自己紹介を続ける。

「ちょっと待って、信じられるわけがない……」

 軽く眩暈がして、額を抑える。

 相手が僕より若く見えるだけ、強がっていたのかもしれない。だが、平静を装うのも、そろそろ無理が生じた。

 今までは、それこそ病気や事故を経験した過去から、年齢以上の精神力はあると自負していた。

 だが所詮、十一歳の子どもなんだ。

 反応のなくなった僕に、ポラリスと名乗った少年は、特に驚くこともなく肩を竦める。

「ま、そうなるのも仕方ないか。じゃ、今からオレが話す言葉は、ひとつの『物語』だと思って、聞いてくれたらいいよ」

「物語……?」

「人間は、幻想を具現化するのが好きだろ?」

 そう言ってポラリスは、室内にある大量の漫画本の収納された本棚を指差す。

「オレは『物語』のキャラクター。今起こっている現実も、全てそういう『物語』として受け入れたら、話は理解しやすいはずさ」

 そう前置きすると、ポラリスは指を立てて説明を始める。

「さっきも言ったように、オレは北極星なんだ。一年中、同じ場所でずーっと、じーっと北の空から惑星を傍観しているだけの星。動くこともできなければ、移動することだってできない」

「でも、今君は、北の空から移動して、この場まで来ている」

「今は細かい点を指摘していたら、ややこしくなるだけだよ」

 ポラリスは軽く笑って肩を竦める。

 少しだけ冷静になってきたものの、確かに余計混乱するだけだ。

 今はただ話を聞こう、と静かに口を閉ざす。

「高い位置にいると、どこだって見えるんだ。特に地球は、いろんな文化や人間がいるから、おもしろくってね。一年中観察していても退屈はしない。でもさぁ、やっぱり見てるだけじゃ、つまらなくなってきたんだよね」

 そこまで話すと、ポラリスは大きく伸びをして天を仰ぐ。

「実際に足を運んで、自分で体験したくなった。五感で感じて、どんな世界か知りたくなったんだ」

 現状は受け入れられていないものの、その言葉には素直に共感できた。

「その気持ち、わかるよ」

 僕だって、この部屋で何不自由ない生活を送っている。

 だが、見ているだけじゃつまらない、外に出たい、という要求が生まれつつあったんだ。

 僕の反応が意外だったのか、ポラリスは僅かに目を見開くも、すぐに屈託のない顔で笑う。

「知ってる。君は六歳の頃からずっとこの部屋にいるでしょ。なんだか親近感湧いちゃってさ。似たもの同士、仲良くなれるかなぁ、なんて勝手に思ったんだ」

 だからここに来たんだよ、とポラリスは告白する。

 僕はふむ、と腕を組む。

「空からは、いろんな世界を見られるって言っていたよね」

「そうだね」

「それなのに、ずっと僕を見ていたの?」

 まるでストーカーだね、と僕は指摘する。

「そこは物語的に『運命だね』って盛り上がるところでしょ。君って、まだ若いのに現実的だよね」

 ポラリスは苦笑しながら弁論する。

「少なくとも、君よりかは年上だよ」

 無意識に反論していた。ずっと彼のペースに流されていただけに、虚勢を張ったのだろう。

 だが、その言葉を聞いたポラリスは、「それ、本気で言ってる?」と小首を傾げる。

「たしか人間が誕生したのは、二十万年前くらいでしょ」

「え?」

「少なくとも、オレらが誕生したのは、人間よりも前だ」

 ポラリスは愉快気に笑う。僕の頬は引き攣る。

 今見えているものだけを信じれば良い。余計な現実を理解しようとするだけ脳が混乱するだけだ。

 こうなりゃポーカーフェイスも、もう必要ない。

 僕は観念して、白旗を振った。

「そうだね。これは『物語』。『竹取物語』のかぐや姫だって、月に帰っていったんだから、星が地球に来ることだってあるよね」もはややけくそだ。

「そうそう。でも、君にとってもよかったでしょ。これこそが、君の求めていた『非日常』じゃないのかな」

 ポラリスは見透かしたような目で笑う。

 その笑顔には嫌味がなく、僕は「そうだね」と、とうとう緊張の糸をほどいた。

 今起こっていることが、現実か夢かなんて判断できない。

 ただ今は、同世代の友人ができたかのような感覚になって、少しだけ心躍っている自分がいた。

 

***

 

 それからポラリスは、神出鬼没に僕の部屋に現れるようになった。

 それが早朝の時もあれば、真昼間の時でもある。

 最初出会った時が夜だけに、タイミングが掴めない。

「星ってさ、夜行性じゃないの?」

 今は真昼間。僕はレポートを書きながら、室内で漫画を読み漁るポラリスに尋ねる。

 僕の通う学校は、全日制の他に、フリースクール制度が設けられている。

 僕のように登校できない人間でも、通信で授業を受けることが可能だった。

 ポラリスは漫画から顔を上げ、怪訝な表情でこちらを見る。

「地球の生物と、一緒にしないでほしいな」

「だって、星は夜に見えるからさ」

「太陽が眩しいせいだよ。実際は、朝昼夜関係なく、空にいる。あ、でも、太陽には感謝しているんだ」

「感謝?」

「今、君も言ったように、空が眩しいと星って見えないでしょ。だから多少動いたとしても、ばれやしない。彼のおかげで、オレは今ここに来ることができている」

 ポラリスは、いたずらっ子のように笑う。

「多少、で済む距離じゃないと思うんだけど」

「冬馬って、本当に現実的だよね」

「ポラリスが適当すぎるんだ」

「ちっぽけなことじゃないか。君の見ている世界は狭すぎるよ」

「君の世界が壮大すぎるんだ」僕は投げやりに頭を振った。

 そんな僕を見たポラリスは、楽しそうに笑うと、そのままごろりと床に転がった。

「面倒くさいことにはなりたくないでしょ。だから基本、夜はちゃんと帰るんだ。じゃないと多分、『北極星が消えた』って、大ニュースになるでしょ?」

「現実的だね」

「君にだけは言われたくないなぁ」

 そう言ってあははっとポラリスは笑った。

「ちなみにおもしろいことを教えてあげる。地球からは、オレらって小さく見えるだろ?」

「そうだね」

「実は太陽より、オレらの方が大きいんだ」

 そう言って、ポラリスは腕いっぱい広げて大袈裟に説明する。いや実際、大袈裟でない規模の話ではあるが、どっちにしろその顔は、大人に覚えたての知識を語るませた小学生にしか見えなかった。

 ポラリスは、適当に漫画やテレビを見た後、気付けばいなくなっている自由なやつだった。

 だが、彼のおかげで、繰り返していただけの毎日が、少しずつ変わり始めていた。

「君ってさ、星座で言うと、こぐま座に該当するでしょ」

 そう尋ねると、ポラリスは一瞬キョトンとするも、あぁ、と納得したような顔つきになる。

「人間の生み出した『神話』という幻想の話か。確かにオレは、そう言われていたんだっけ」

「知ってる? こぐま座は、神話上の狩人、アルカスがモデルなんだけど、アルカスは、自分の母親がクマに変えられていることを知らずに、弓で射ようとしたらしいんだ。それに気付いたゼウスが、慌ててアルカスと母親を空に上げたんだけど、その時に尻尾を掴んで空に投げたから、熊なのに長い尻尾を持っているらしい」

「人間て、本当に想像力豊かだよね」

 ポラリスはケラケラ笑うと、手に持つ漫画をひらひらと掲げる。

「この漫画だってそうだ。原料で言えばただの紙の束なのに、そこに幻想の力が吹き込まれたことで、いつまでも読んでられる魔法の本になる。オレらが住んでいる宇宙だってそうだろ。ただ適当な場所に存在しているだけなのに、人間の想像力によって『神話』として扱われている」

「それは、確かに」

 ポラリスと出会ってから、星空の幻想の世界、『神話』に関心を持つようになった。

 今まではきれいだな、程度の関心しかなかった星も、幻想のおかげで何時間も楽しめるようになったので、彼の言葉には素直に同意した。

「幻想ひとつで、空を見ることが楽しくなったりする。ただの風景でも、見方を変えて、想像力を広げて物事を見れば、何倍も何十倍も、世界が大きく見えるもんなんだ」

 その言葉を聞いて、僕は黙り込む。

「確かにそうかもしれない。でもさ、夢から覚めた時には、幻滅してしまう未来しか、待っていないんだよ」

 ポラリスの言う通り、幻想ひとつで見方が変わる。

 ただ、所詮「幻想」、所詮「夢物語」なのだ。

 夢見るだけ無駄だとは、いやほど理解した。

 外に出たいと願っても、出られるわけがない。青い芝生を走り回りたいと願っても、無理な話だ。

 幻滅したくない。

 だから今まで感情を押さえこんで、我慢をして、平気なふりしてた。

 ポラリスは僕を一瞥すると「君の見ている世界は、本当に狭いね」とつぶやいた。

「確かにこの部屋から見える景色は限られているかもしれない。でもさ、人間は幻想をエネルギーに変える力を持っているでしょ」

 そう言って、自身の頭部を指差す。

「ただの幻想であるのに、それらが形になるだけで、人々に勇気をもたらしたり、生活を豊かにすることができる。例えこの部屋から出られなくたって、『幻想』の力で、世界の解釈を変えることはできるんだ。そこから生きる希望が生み出されて、無限に世界を広くすることができる。日常を豊かにすることができる。それこそ、宇宙に匹敵するほどだよ」

 ポラリスはそこまで話すと、「あっ、やばい。そろそろ時間だ」と呟き、慌てて姿を消した。

 僕は、心の中で、ポラリスの言葉を反芻する。

 不思議なことに、彼から発せられる言葉はクサいと感じずに、すんなりと胸に入ってきた。

 壮大な世界に存在しているだけに、余裕が感じられるのかもしれない。

 僕は、窓から茫然と空を眺めた。

***

「オレさ、そろそろ違う国に行ってみるよ」

 窓から見える大木が、ピンク色に染まり始め、ビッグイベント準備中の早春、

 幻想の中のキャラクター、ポラリスは何気なく切り出した。

「ちょうど一年経ったし、いい機会かなって。だからオレがここに来るのも、今日で最後」

 あまりにもあっさりと宣言するので、内心寂しくなる。

 しかし宇宙に住んでるこいつにとったら、僕と過ごした一年なんて、ほんの一秒にも満たないんだろうな、とも思う。

「そっか」無意識に対抗して、軽く返す。

「寂しくないの?」ポラリスはぷくっと頬を膨らませる。

 相変わらず無邪気な彼を見て、僕は目を細める。

「寂しくないよ。だって君は、毎日見えるからさ」

 そう言うと、ポラリスは照れ臭そうに「ま、それは確かに」とふにゃりと笑った。

「僕、見たい星があるんだ」

「見たい星? 誰?」

「それは内緒」

「なにそれ」ポラリスはむっと眉間に皺を寄せる。

 カノープス。日本からじゃ中々見られず、縁起の良い星として語られているだけに、もし見ることができたら長生きできる、という物語がある。

 いつ心臓が止まるかわからない身体なだけに、説明したところでジョークにならない。

「この部屋からは見られない位置なんだ。だからもし、その星を見る為に、僕がこの部屋から出ていたらさ、その時は見守っていてほしいな」

 そう言うと、ポラリスは「おもしろい人間は好きだよ」と言葉を残し、姿を消した。

 

 この一年見ていたものは幻想だったのではないのか、と疑いそうになるほどに、軽い別れだ。

 いや、もしかしたら、僕の願望が生み出した幻想だったのかもしれない。

 ポラリスの正体がどうあれ、この部屋から見える世界が変わったことには違いなかった。

「冬馬、ごはんよ」

 ノック音と共に馴染みの声が僕を呼ぶ、いつもの朝だ。

 入口に身体を向けたタイミングで、母が室内に入ってくる。

「ねぇ母さん。今日はとても良い写真が撮れたんだ」

 僕は、母の元に寄りながら、軽快に報告する。

「よかったわね。また飾らないとね」

 母は柔和に笑うと、室内の壁に掛かった写真を幸せそうに眺める。

 目前にそびえ立つ大きな桜の木は、天候にも左右され、見せる顔は毎日違う。

 春は桜本来の時期であり、花弁が散ると、新緑が顔を覗かせる。秋には葉が赤く色付き、冬には抜け落ちるものの、白い綿が枝を包む。

 

 この部屋から出なくたって、世界は感じられる。

 でも、もし僕がこの先、余命を宣告された時には、

 幻想を形にする為に、この部屋から飛び出そう、と決めていた。

 未来の予定がある、それだけでも毎日生きる希望になる。

 僕は再びカメラを構えると、大木にピントを合わせて、シャッターを切った。

 

『北空からのオクリモノ』完。