第三章『藍の河原と星図鑑』⑥




「皆さん、風呂入ってきてください。ここはオレが片付けておくんで」

BBQがひと段落した後、ガクトバラくんはハキハキと宣言する。

「いや、さすがに俺らもやるって」

タニさんが苦笑しながら網に手を伸ばすと、ガクトバラくんは咄嗟に網を奪って遠ざける。あまりにも素早い動きに、タニさんも私も目を丸くした。

「片付けとかは下っ端の仕事っすよ!タニさんは、運転でお疲れでしょうから」ガクトバラくんは断固として拒否をする。

「まぁ……そこまで言うなら……風呂の時間もあるしな。ゴミだけ持ってっとくわ」

タニさんは、少し圧倒されたように言うと、他の人たちと風呂場に向かった。

「手伝うよ」

私は、せっせと炭の処理をするガクトバラくんの背中に声をかける。

「いやいや!カザミネさんは本日の主役なんすから、一番ゆっくりしてください」

案の定、ガクトバラくんは好意を受けない。しかし、ここまでやってもらってるのだから、私も引くわけにはいかない。

「だからだよ。私の為にこれだけしてくれたんだから。片付けくらいは」

ガクトバラくんは口を曲げるが「じゃ、同じ高校のヨシミということで、のんびりやりますか」と笑顔で観念した。

「炭は汚れるからオレやるんで、カザミネさんは網洗ってもらってもいいっすか?」

「はい!」

私はガクトバラくんの指示を受けながら作業する。慣れない作業に手間取る間も、彼は手際よく片付けていた。

「ガクトバラくん、本当にしっかりしてるよね」私は水道で網を擦りながら言う。

「オレが言い始めたことなんで、オレが責任持つことは当たり前っすよ。それに、しっかりせざるを得ない環境と言いますか」

そう呟くと、ガクトバラくんは作業の手を止めて、空を見上げた。

「実はオレも親、いないんすよね」

「えっ」私は目を見開く。

「あ、すんません。うちの場合、縁切られたって感じなんで、カザミネさんの気持ちがわかる、とかそんな恐れ多いことは言えないっす」

「そ、そうだったんだね……」

あまりにも唐突で直球な告白に、さすがに反応に困った。

「全部オレの責任なんで、落ち込んでるとかじゃないんで、全然気にしないでください」とガクトバラくんは無茶な前置きをする。

「昔っから決められたハコに入れられて、やりたくないことばっかさせられて、それが嫌で飛び出したんすよ。なら破門だって言われちまいました。あ、実は北海道帰ってたのもその件で。今は、祖母ん家世話になってるんすけど、祖母は入院中ですし。基本、全部自分でやってますね」

ガクトバラくんは、吹っ切れたように淡々と説明する。感情の起伏が見られず、現状を受け入れて、過去にケジメをつけていると感じられた。

「自分の意思で、道から逸れる勇気を持てるって、すごいよ……」素直に感心して言う。

「オレの場合、むしろ、逸れた道の軌道修正って感じなんすけどね」
しかし、ガクトバラくんはやり辛そうな顔で頭を掻いた。

私が網を洗い終わる頃には、ガクトバラくんの手によって、ほとんどの作業が済まされていた。

「オレ、望遠鏡の準備しとくんで、カザミネさんも風呂入って休憩してください!」と声をかけられたことで、その場を後にする。

 

お風呂から上がって芝生に出ると、望遠鏡の準備が完了されていた。
施設の人の計らいなのか、BBQの時にはつけられていた外灯も施設の電気も消され、明かりはコテージの薄暗い電気のみで、周囲がぼんやり確認できるほどに暗い。

みんな風呂から上がってパーカーやジャージといったラフな格好をしているが、ずっと作業をしていたのか、ガクトバラくんだけはまだ着替えていない。

「お風呂の時間、終わっちゃうよ?」私はガクトバラくんに声をかける。

「あ、何か部屋の鍵で風呂場も開けられるらしくて。後でのんびり入ろうかなって思ってるんで、大丈夫っすよ」ガクトバラくんは八重歯を見せて笑う。

「それよりもカザミネさん、木星入りましたよ!」

ガクトバラくんは、私に望遠鏡を覗くように促す。レンズを覗くと、確かに図鑑で見る木星のように星に線が入ったものが確認できた。

「すごい、飴玉みたい……!」

「かわいいっすよね!木星は、望遠鏡で見るには一番おすすめっす」

「土星は入らないの?」タニさんが問う。

「倍率がよくないんで、この望遠鏡じゃ、ちと厳しいっすね」ガクトバラくんは頭を掻く。

私は空に顔を向ける。今夜は月が出ておらず、山の近くでさらに電気が消されている為、星の輝きがより一層際立った。
敷かれたビニールシートの上に寝転がる。生活音が響かず、風が葉を掠める音と話し声のみが響く広い空に心を委ねた。

「きれい……」思わず嘆声が漏れる。

こんなに広い自然の中で、ゆっくりと空を見上げた経験がなかっただけに、満天の星空に見惚れていた。

「今の時期は、あまり目立つ星がないんすよね。でも、神話が一番おもしろい空っすね」

隣を見ると、ガクトバラくんもビニールシートに寝転がっていた。彼はまっすぐ空を指差し「あのW字がカシオペヤ座と言って」と語り始める。

「王妃カシオペヤが娘のアンドロメダ姫の美しさを自慢したことでポセイドンの怒りを買ったんす。アンドロメダ姫は、おばけくじらの生贄として岩に貼りつけにされるんすけど、メデューサ退治の帰りにペガススに乗ったペルセウスが助けて、めでたく結ばれるという話っすね」

登場人物が出てくるたびに「アレとアレがこの星座で」と空を指差して説明する。

「ほんと、詳しいね」私は感心して言う。

「昔、よく外に放り出されたんすよね。一晩とか平気で投げ出されてたんで、やることないから、空見るようになったといいますか」ガクトバラくんはあっさりと答える。

「なんか……体育会系だね」

あまり、家事情に触れるべきではないかと思っていたが、流すには少々引っかかった。

「うちは、色々と特殊でして」ガクトバラくんは苦笑する。

「星観てるとさ、オレぼんやり思うんすよね」
ガクトバラくんが空を見上げながら言う。

「人間って、星の数ほどいるじゃないっすか。それなのに、こうして同じ時間を一緒に過ごせる人に出会える奇跡って、中々ないと思うんすよ」

「確かにね」素直に同意する。

「さっきの話もっすね。アンドロメダ姫は、もうすぐで食べられるという時に、偶然ペルセウスが見つけて助けられ、そして結ばれたことって、すごいと思うんすよ。広い地球の中で、星の数いる人間の中で、偶然出会えた者の中から、お互いのことを好きと呼べる存在になる奇跡って。オレは恋愛とは無縁の世界で生きてたんで、なおさら思うんすよね」

ガクトバラくんは滔々と語る。
不思議と彼の口から発せられる言葉には重みがあり、くさいと感じられずに私の心に響いた。

そこでふと思う。

永遠に一緒にいたい、と呼べる存在に出会えた奇跡を祝福する『永遠印』。
そんな奇跡を踏みにじる行為を「永遠を裏切る」と呼ばれるのも、何となく理解できた。

『恋愛ゲーム』の目的は、ゲーム中に生まれる幸せな経験や感情といった記憶を奪うこと。それこそが永遠を裏切った「罰」。

「もしかして、裏切られた方の心の痛みを裏切者に教える為の、『罰』……?」

そうなるとゲームマスターは、「永遠を誓ったのに、裏切られた経験がある人」ではないのか。
自分もそうありたかった「願望」なのか、自分の感じた経験を知らせる為の「復讐」なのか、あるいはその両方ともなのか。

恋人優待のついた『永遠印』と、『恋愛ゲーム』という存在意義が、何となく自分の中で明確になった気がした。

「『永遠』って言葉は、重いんだなぁ……」

今更になって、指輪を渡した際に、リョウヘイがやりずらそうにしていた意味を深く理解した。
目に見えはしないが、感情というものはとても重い。

「オレもいつか、そう思える存在に出会えるのかなぁ……」
ガクトバラくんの呟きが耳に届く。

「うん。きっと、出会えると思うよ」
私は潤んだ目を悟られないように空を見上げる。

リョウヘイの声が聞きたい。
いつも聞いている声なのに、今どうしても聞きたい。

私はスマホを持ち、皆の輪から離れた。

 

時計を見ると、日付を超えて一時を回っていた。大抵の人なら就寝してる時間だ。
いきなり電話をかけても大丈夫だろうか。五コールしても出なかったら諦めよう、と思い切って電話を鳴らす。

しかし、一コールもしないうちに通話ボタンが押された。

「ユイ?何だよ、こんな時間にいきなり」

「すごい……早いね」
馴染みの声が聞こえて、無意識に安堵する。

「偶然、スマホ見てただけだ。で、どうしたんだ?」
リョウヘイの無愛想な対応にも、今は口元が緩む。

「……ううん。ちょっとだけ、声が聴きたいなぁと思っただけで」

「生焼けの豚肉でも食ったんか?」とぶっきらぼうに言う声が聞こえる。照れ隠しだとはわかる。

「今ね、実は……」

「タニさーん!オレ風呂入ってくるんで、鍵貸してくださーい」

「寝てる奴もいんだから静かにしろ!」

唐突に飛び込んできた声に、肩を飛び上がらせる。

「い、今ね、前言ってたバイトの人らと星観に来ててさ……」と慌ててフォローを入れた。

リョウヘイは無言のままだ。彼の沈黙ほど怖いものはない。

「ごめん。うるさい人がいて……。でも今は解散して、部屋はちゃんと男女別だから……」
きっちりと状況を説明して弁解する。

「そんなの当然だろ。おまえの置かれた状況、忘れんじゃねぇぞ」
リョウヘイは溜息を吐きながら言う。

コテージの柵に身体を預け、空を見上げながらしばらく耳を傾けた。
深夜であるにも関わらず、リョウヘイは何も言わずに相手をしてくれた。
周囲は山で囲まれ、車などの物音が一切しない。
静かな夜の中に響く彼の声が愛しくて自然と口角が上がった。

「リョウヘイ。好きだよ」

素直に声に出てた。電話越しでも、彼が面食らっているのがわかる。

「……手のひら返してよく言うぜ。とりあえず、遅ぇんだからさっさと寝ろ。じゃな」

そう投げやりに言われると、電話が切られた。調子が狂わされてるのは、リョウヘイの方だろうなとは私も思う。こんなにも彼でいっぱいになるなんて思わなかった。

物心ついた時からずっと一緒にいたのに、好きという感情を知ると、見え方がこんなにも変わるもんなんだと実感した。
一緒にいる現状が当然で、近すぎて気づかなかった。リョウヘイと出会えたことは奇跡だったんだ。

「絶対に、忘れたくないなぁ……」

「今のは、彼氏さん?」

唐突に声が聞こえて振り向くと、コテージ裏からタニさんが出てきた。

「タニさん!?」

「ごめんごめん。たばこ吸いに出てたら、偶然聞こえてきてしまって」

タニさんは、頭を掻きながらコテージに上がる。私は恥ずかしくて顔を伏せた。

「皆さん、解散した感じですか?」

私は周囲を見回しながら尋ねる。気づけば芝生で各々空を見上げていた人たちの姿が見られなくなっていた。

「そうだね。もう二時近いし、昨日、仕事終わってそのまま来た奴もいるからな」
タニさんは柵に身体を預けて答える。

「今日は、ありがとうございました」

「いやいや全然。俺もバイトの人らと、こうして話す機会なかったしな。それに、風嶺ちゃんが美味しそうにお肉食べてる顔見られて満足だし」タニさんは目を細めてさらっと言う。

「何か……浅ましくてすみません……」私は赤面して頭を掻く。

「でも、風嶺ちゃんはえらいね。ご両親が事故で亡くなられたのに、ひとりで頑張ってて」

「いや、私なんて周りに助けられてばかりですし……」とここまで口にして、はたと気づく。

「あれ、私、事故で親が亡くなったって話、しましたっけ……?」

原因が原因なだけに、バイト先には親が亡くなったとしか伝えていなかった。

タニさんは、意表を突かれた顔をして「あぁ」と口を開く。

「俺が勝手に知ってたんだった。去年、ゼミでニュースを取り上げる機会があってさ、その時に偶然ご両親の記事を見てしまって。名前が同じだったことと、前の風嶺ちゃんの反応で、もしかしてって思って」タニさんは流暢に答える。

「そ、そうだったんですね……」

当時は、テレビやニュースを一切確認していなかっただけに、どのようにメディアで流れていたのかが心配だった。恐らく批判で溢れていただろうとは想像がつく。
ガクトバラくんが知っていたのも、タニさんから聞いたのかなと見当がついた。

「国公立は諦めたって言っていたの、結構ショックだったんだよね」タニさんは唐突に切り出す。

「ご、ごめんなさい……」

まさか、その話を持ち出されると思っていなかっただけに委縮した。彼には、かなりお世話になったので、謝ることしかできない。
タニさんは、調子を変えずに言葉を続ける。

「同じ大学に通えると思ってたからね。この意味わかる?」

タニさんは私をじっと見て言った。

「わかりません……」

私は視線を逸らす。何故か心がざわざわする。
どうしよう。今はマスクもつけていない。

思考を巡らせていると、タニさんの手が伸びてきた。

「あの……!私、彼氏いるんで……」

「知ってるよ。彼氏さん、独占欲が強い人なんだね。でもその方が俺的にはいいんだよね。攻略難易度が高い方が燃えるもんでしょ」

タニさんは口角を上げて、私の首筋に触れる。触れられた箇所からゾワゾワと悪寒が走った。

「あれだけ協力してあげたんだからさ、少しくらいは見返りがほしいもんだよね」

痛いところを突かれて、口を閉ざす。
タニさんの顔には、普段からは想像できないような、仮面のような貼りついた笑みが浮かんでいた。

怖い。

叫びたくても声が出ない。
身体も硬直して動かなかった。

今まで会話した時や仕事の時には優しくて、しっかりした大人の人だと思っていただけに、今、目の前にいる彼との差に困惑した。
これは、本当にタニさんなのか…?

――――本当の自分は隠すもんだ。それは能ある奴ほど巧妙に隠す。

リョウヘイの言う通りだ。

タニさんが、歪んだ笑みのまま私に迫る。
抵抗したいのに、記憶がかかっているのに、恐怖で身体が竦んで全く身動きが取れなかった。

その瞬間、疾風の如く何かが風を切った。
それと同時に、タニさんが撃たれたように吹っ飛び、勢いよく芝生に投げ出される。
遅れて水滴とせっけんの香りが私の顔を覆った。

暗がりでよく見えないが、芝生で横たわるタニさんは微動だにしない。気を失って伸びているようだ。

何が起こったかわからずに呆気に取られていると、タニさんのそばに、誰かがいると気づく。

「寝てる人がいるから騒いだらダメって言ったのは、タニさんっすよ」

声の主は、タニさんの頭をポンポン撫でると立ち上がり、肩にかかってるタオルで髪を拭いてこちらに振り返る。

あまりにも素早くて姿が見えなかった。

まるで

「赤色の……弾丸……」

「あ、それ、オレの別名っすね」

タニさんの隣に立つガクトバラくんは、八重歯を覗かせ、いつもの無邪気な笑顔で私を指差した。

風呂上りなのか、普段立てられてる赤髪からは水滴が漏れ、タンクトップというラフな格好をしている。

そこから覗く肩には、龍のような刺青が入っていた。

 

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