コンビニで購入していたパンを食べ終えると、公民館を後にする。
一時間ほどで地元の紅原区に辿り着いた。
レンタカーを返し終えると、僕らは向かい合う。
「二日間、ありがとうございました。ササキさんに教えるとか言いながら、俺の方が楽しんでた気がしますが」そう言って頭を掻く。
「いやいや、僕も楽しかったよ……本当に。こんなにゆっくり星観たことなかったからさ」
言葉を口にするたびに視線が下がった。
今日は七日目の休暇、日曜日。僕が休みでいられる最後の日だ。
明日からはまた、以前の仕事に追われる日常に戻る。
鳴り続けるスマホの音に同僚のキンキンした声、人を人と思っていない部長の罵声に上部だけの痒い関係、朝から晩まで働き続けなければいけない現実が帰ってくるんだ。
この一週間、自由でいられたからこそ、夢から覚めたくないという感情が————
「ササキさん」
通る声が届いて我に返る。
顔を上げると、庵次がまっすぐ僕を見ていた。
しかし、すぐに彼は視線を逸らす。
「……いや、なんでもないっす。昨日からお世話んなりました。我儘聞いてくれてありがとうございます」
庵次はそう言うと深くお辞儀をする。
「こちらこそ……有意義な時間をありがとう」
そう言って僕は軽く頭を下げる。
互いに手を振り、それぞれ歩み始めた。
僕は重い足取りで歩く。
庵次によれば、休みでいられるのは今日まで。明日からは、また仕事が始まるんだ。
この一週間、何事にも追われずに自由で生きられたからこそ、夢から覚めたくない感情に駆られていた。
だからこそ、夢を見られているこの瞬間に、人生を終わらせている方が良いのではないのか。そうとも感じた。
自宅前に辿り着く。もう三年も住んでいるすっかり馴染みとなった場所だ。
だが今日は、階段の元に一人の女性の姿があった。
癖のない黒い髪にアイラインの整った切れ長の目元、皺の無いシャツを着用し、腕を組んで立っていた。
見覚えのある人であるだけ、僅かに驚く。
「品川さん……?」
そう尋ねると、階段で腕を組んでいた女性はこちらを向く。
やはり間違いなかった。彼女は職場の同期であるものの、唯一中立的立場に立っていた人だ。悪い言い方をすれば、他人に関心がない人だ。
業務連絡以外では話したことがなかっただけに、首を傾げる。
「佐々木くん、やっと会えた。連絡取れないからどうしたのかと思ったのよ」
「あぁ、スマホが壊れてしまって……」
「壊れた?」品川は怪訝な顔をする。
「あぁ、はい……入院する原因となった事故で……すみません……」
咄嗟に謝っていた。もはやこれは反射的に飛び出たとも言える。
品川はそんな僕を険しい顔でじっと見る。
「もっと堂々とすればいいじゃない」
「堂々と?」
「だってあなた」
品川は手を顎に当て、神妙な顔つきになる。
「暴力団・楽斗原組の息子さんと繋がっているんでしょ」
***
僕は再び外へ出ていた。
正直当てもない。だが、何となく外を歩いていたら彼に出会える気がした。
これこそ「出会えたら奇跡」の言葉に駆けていた。
品川と話し込んだことで、もう日は西に低く沈み、視界も暗くなりつつあった。
身体が言うままに歩いていると、気付けば藍河区の川に辿り着いていた。
高架下では、野球部の青年がバットを振っている。河川敷ではランニングしている人がちらほら見られ、改めて自由な街だなと感じられた。
そこで、川の石垣に座る見覚えのある赤髪の青年が目に入る。
「奇跡は案外、起こるもんなんだな……」
僕は石垣に近づくと「庵次くん!」と声をかけた。
庵次は僕に気付くと、僅かに目を見開くも、すぐに目を細める。
「ササキさんじゃないっすか。偶然っすね」
庵次は全く動じてない。
まるで僕が、この場に来ることがわかっていたかのような落ち着きようだ。
「ササキさんが藍河区に川があるって言ってたんで来てみたんすけど、ここ良いっすね。すげぇ広いですし。またひとつお気に入りの場所が見つけられました」
庵次は嬉々として川を見る。
僕はそんな彼の横顔をジッと見る。
「僕さ、君みたいに偶然出会えた人との時間を大切にできるのってすごく尊敬するよ。だからこそ、聞きたいんだ」
「何のことです?」
庵次は首を傾げる。
僕は小さく息を吐くと、彼に向き直る。
「庵次くんってさ……『暴力団・楽斗原組』の息子さんなんだね」
そう尋ねた瞬間、庵次の顔から表情が消えた。
「…………誰から聞いたんすか?」
庵次は静かに問う。
その声は、普段の無邪気な軽いものではなく、低く威圧感の感じるものだった。
一瞬の変化に思わずたじろぐ。
だが、ここで引いては、肝心なことが尋ねられない。
「職場の人だよ……連絡取れないからって、僕の家の前で待っててさ。そこで色々聞いたんだ」
僕の前に現れた品川は、僕が暴力団の息子と繋がっていると言った。
「僕が、暴力団と繋がっている……?」
何のことかわからずに呆気に取られる。
状況が掴めていない僕を前にしても、品川は表情を変えない。さすが普段からクールなだけある。
「あなたの代わりにウチに電話してきた人。部長が言うには『楽斗原』って名乗ったらしいね。その名前って、今よくニュースでも見る名前じゃない?」
————続いてのニュースです。指定暴力団である楽斗原組傘下である男性が、拳銃のようなもので打たれて怪我を負ったと発表がありました。
確かに最近、物騒なニュースがテレビで流れていたことがあった。
だが、名字だけでそうだと決めつけるのはさすがに横暴じゃないのか。
「でも、同姓同名ってことも……」
「それはないわ。だって部長が怯えていたもの」
「部長が?」と問おうとしてふと気がつく。
「部長、いつも俺のバックにはヤバい奴がついているって飲み会の席で威張ってたでしょ」
品川は若干煩わしそうな眼差しでそう言った。
「僕のことを特にこき使っていた部長、あいつはいつも『俺を怒らせると報復があるぞ』と言っていたんだ」
部長はもはや口癖のように、何かあるたびそう言っていた。
お酒の場では、ハッキリと「俺は暴力団に入っている」「俺はやべぇ奴らと友達だ」と言いふらしている場面を何度も見ていた。
初めは信じていなかったが、彼の取り巻きである人からの、今思えば情報操作のような噂を複数聞いたことから、何も言えなくなった。
「あいつは僕らが少しでも楽することを許さない人だった。だから一週間も休みをもらうだなんて、普通じゃできない。でも、君の場合は違ったんだ」
そこまで話すと、僕は庵次に顔を向ける。
「君は、部長が傘下に入っている楽斗原組組長の実の息子だったから。だから君の言うことは部長はあっさり聞いたんだ」
現に品川さんから、僕だと思って電話を受けた時からの表情の変わりようが凄まじかったと聞いている。
そりゃそうだ。いつもこき使っている部下の番号なのに、電話に出ると自分が傘下に入っている組長の息子だったのだから。
庵次は黙って話を聞いている。
「君が僕のスマホから職場に連絡したから、部長は僕と君に繋がりがあるんだと思ったんだ。そこでもうひとつ気になることが浮上する」
そう言うと、軽く咳払いして言葉を続ける。
「君が僕のスマホから電話をかけていたのなら、スマホが壊れていた原因と矛盾が生じるんだ」
スマホは、僕が線路から飛び出した衝撃で壊れた、と庵次から聞いている。
しかし、庵次が僕の職場に電話したのは確実に僕が気を失った後だ。
つまり、もし本当に衝撃でスマホが壊れていたならば、電話はかけられるわけがない。
「もしかしてなんだけど……君は僕の職場に連絡した後に、君が故意にスマホを壊したんじゃないの?」
恐る恐る尋ねるが、庵次は返答はせず、興味深気に顎を触る。
「正直今でも信じられないよ……でも、そうすると全て繋がるんだ」
川の清流の音が響く。日はすでに沈み、外灯が光り始める。
川の水や風で擦れる道草の自然音に、橋を通る車の音や自転車のブレーキの人工音でほどよく騒がしいことから、気まずさは感じない。
時間にすれば数秒の沈黙を破ったのは、庵次だった。
「百聞は一見に如かずって言葉があるじゃないっすか。百回話を聞くより、一回見た方が信じられるって」
そう語ると、庵次はその場で上着を脱ぎ始める。
突然の行動に首を傾げる。
だが、彼の素顔が現れた瞬間、言葉を失った。
「これで少しは信じられますか?」
スカジャンの下から表れた、タンクトップ姿。
そこから現れた両肩には、大胆な龍の刺青が入っていた。
刺青は、肩から背中にかけて大胆に広がり、服を着ているかのように豪快に入っている。
ひと目で「いかつい」という印象を与えるには十分な傷だった。
言葉を失っている僕を庵次は一瞥すると、目を細めて微笑む。
「ま、こういうことっす。では改めて」
そう言うと、庵次は中腰に落とし、右手のひらをこちらに向ける。
「お控えなすって!手前、生まれは北海道、現在は、こちらの祖母宅に世話になっておりやす。姓は楽斗原、名は庵次。人呼んで『赤い弾丸』と発する紫野学園高校に通う苦学生でござんす。どうぞお見知りおきいただくよう存じやす」
肌がビリビリと震えた。
息をすることも忘れ、身体が硬直する。
初めて目にするマジモンの仁義を切る姿に圧倒されていた。
庵次は緊張を解くと、表情を崩して笑う。
「ササキさんの言う通り、俺は『楽斗原組』の実の息子なんです。もうここまでバレてしまったんで、ちゃんと話します」
そう言うや否や、庵次は即座に土下座の体勢になる。
「ちょっ……!?」
「すんません!ササキさんの意識をトばしたのも、スマホを壊したのも、全部俺の責任でした」
庵次は額を石垣にビッタリとつけてはっきりと告白する。
あまりにも声が大きいことから、高架下で素振りをしていた球児も、ランニングしていた人たちも、チラチラこちらを見る。
「いや……! わかったから、とりあえず土下座は止めてくれないかな……!?」
そう言うと、庵次はおずおずと顔を上げた。砂がパラパラと落ちる。
彼は唇を突き出して下を向いている。どれだけ力が入っていたのか、額が少し赤くなっていた。
「でもさ……何でスマホを壊す理由があったの?」
そう問うと、「連絡をさせないためっすね」とアッサリと返答がある。
「ササキさんの意識が飛んだ後、救急車を呼ぶ為にササキさんのスマホを借りたんす。その時、ホーム画面の通知の名前に見覚えがあったことで、うちの組のモンがササキさんの職場の上司だと気付きました」
「傘下の人の名前とか覚えているものなの?」
「正直、ウチ人数多いんで全員はわからないっす。でも基本的に、自分のいる場所の組は把握してますんで、俺が虹ノ宮来た時にはチェックしてました。何よりあいつは問題児でしたから」
庵次はあっさりと言う。
僕が一番恐れていた部長を「あいつ」呼ばわりしているところからも、格の違いが顕著だった。
「でもシノギ関係なしの一般人に組のモンだと言い振らすのは御法度っすね。増してや『友達』呼ばわりだとか論外っす。普通は破門ですが、目障りでしたら切腹させましょうか」
「せっ……!?」
あまりにもあっさり口にされたことで息を呑む。「いや、さすがにそこまでは……」
本気で引いている僕を見て庵次は「あぁ、冗談っす」と軽く笑う。
さすがにこの状況で冗談だと流せるメンタルは僕にはない。
何だろう、彼を前にすると、あんな人間がきっかけで死ぬことまで考えていたのが馬鹿らしくなってきた。
「そもそもあんなコモノ相手にするだけ無駄なんで。で少し話逸れたんすけど、ササキさんの言う通り、連絡するとアッサリ休ませてくれるって言ったんで、この一週間休みになったってわけっすね」
そう言うと、庵次は指を振る。
「でもササキさん、死ぬこと考えてたじゃないっすか。ササキさんに頻繁に連絡してたみたいですし、もしまた連絡が来ると、また死ぬこと考えるんじゃないのかって思って……あぁすみません。死ぬ理由はあいつだけじゃないかもしれませんが、でも念の為にスマホを壊しました。連絡が取れないように」
スマホ壊して本当すみません、と再び頭を下げる。
僕は今ではむしろ、彼の気遣いに感謝していた。
庵次が暴力団、いわゆるマジモンの息子だってことは、目に見えてわかった。
彼が部活動で着替えを避けていた理由も、
寒さに強いと言いながらいつも服を着込んでいる姿も、
厳格な部長があっさり折れたことも、
スマホが壊れていた理由も、
身体能力が高い理由も、
時折感じる彼の威厳も、
そして、死に対して彼なりの価値観があることも、
全部全部、納得がいく。
ただひとつだけわからないことがあった。
何よりも気になっていた、一番の疑問点だ。
「ねぇ、庵次くん」
僕は彼に顔を向ける。
「だったら、何で僕を助けたの?」
彼に対して尋ねるのは三度目だ。
だが今回も少し意味が変わっていた。
「話を聞く限り、君は僕を助けてスマホを確認した時に、初めて自分の傘下の人間が僕と関わっていたことがわかっているんだよね。つまり助けるまで、君と僕は本当に赤の他人だったってわけじゃないか」
そう問うと、庵次は目を細めて笑った。
「そもそも、組のモンがいるからとササキさんに接してたわけじゃないっす。むしろそれこそ偶然だっただけで、もし関わりある人間がいなくても、俺はササキさんを助けてました」
そう言うと、庵次は天井を見上げる。
「俺、実はもう親父とは縁切ろうと思ってるんです」
「え!?」
予想外の言葉に声が大きくなる。
「嫌だったんすよね、昔からやりたくないことばっかさせられて。親父の息子だからこそ変に絡まれることも多かったっすし。でも無駄に身体能力だけはあったんで、今の今まで生きてたと言いますか」
軽く口にされるが、言葉ひとつひとつが重くのしかかる。
僕ら一般人には到底知り得ない世界だ。死と隣り合わせであるからこそ、生温い世界で生きてる僕らが共感する資格もない。
「なんでこれを機に、むしろ生かせば良いんじゃないかと思ったんす。俺、難しいことはわかりませんが、俺らの世界がマトモでないことくらいはわかるんで、だったら今までやってたことの正反対の行動を取れば良いんじゃないかって。もはや贖罪に近いかもしれません。親しみを込めれば、自分の命をかけた罰ゲームっすかね。だからもう俺の見えてるところでは、絶対人は死なさせないって」
そこまで言うと、庵次は目を閉じて微笑む。
「正直、ササキさんさえ助かれば、自分のことはどうでもよかったっす」
僕は言葉を失った。
庵次は今までの穢れを払拭する為に、罪を償う為に、自分の身体能力を生かして今までとは正反対の行動、「人を生かす」行動を取った。
だから彼は、あんな捨て身の行動を取ったんだ。
「でも……だからって無謀すぎるよ」
震える声で呟くと、庵次は安心させるようにニッコリ笑う。
肩に大胆に入った刺青とは対照的な、明るくて眩しい顔だ。
「知ってます?人間案外、簡単には死なないものなんすよ」
***
庵次がここま詳細に話しているのも、もう自分の過去を断ち切る覚悟をしているからだろう。
「素朴な疑問だけどさ、縁を切る、とか普通にできないんじゃないの?特に君の世界では、さ……」
恐る恐る尋ねる。
ドラマや漫画で見るヤクザの世界は、それこそ仲間を抜けるとなった時には、それなりのケジメというものが必要のはずだ。
庵次は顎に手を当て、神妙な顔つきになる。
「まぁ確かに簡単にはいかないとは思いますが、一応俺、親父には良くしてもらってたんで何とかしてみます。死にさえしなければ何とかなるもんすよ」
「その言葉は重いね〜……」
僕は自重気味に反応する。
「あぁでもササキさん。俺が抜けることはあいつに言わない方がいいっすよ。多分、俺とササキさんが繋がってるって思わせておいた方が、向こうも口出すことできないと思うんで」
「うん、そもそもそんなこと話せる仲でもないしね……。でもそうか、明日からは職場の空気も少し良くなってるかな」
僕がブツブツ言う隣で、庵次は僅かに口角を上げた。
「もう何となくわかるんですが、約束した手前、一応確認しといても良いっすか」
そこで庵次は、僕をまっすぐ見る。
「ササキさん。今でも死にたいと思ってますか?」
『綱渡りの一週間』完