授業が始まる一週間は、生活に慣れるのに必死だった。
中学生の時は、共同生活という意識を与えさせる為なのか、風呂や洗濯といった家事全て相部屋である人物と行う。
しかし、個人部屋となる高校生になると、基本的に全てのことを一人で行わなければならない。
その分自由にはなるものの、時間のやりくりを考えるのは中々大変なものだ。
僕は高校生棟内を詮索していた。
寮は大きく中学生棟と高校生棟と別れており、さらにその中で男女、学年で区別されている。
中学生棟とは違い、高校生棟は作りも広さも格段にレベルが上がる。
広いラウンジにはソファや大型テレビが備わり、誰でも利用可能だった。
ガラス張りの窓の外には青い芝生が広がり、その奥ではグラウンドで走り回る運動部の人たちの姿が窺える。
桜は時期を迎え、可憐なピンク色が満開に広がる。このラウンジから見られる自然の変化も楽しみだな、と心が躍るものだ。
テレビで「すご」っと呟いても反応がないのも個人部屋ならではだ。
食事は三食提供され、当番制で共同スペースの掃除はあるものの、本当に一人暮らしのように感じられて歯痒くなった。
始業式が始まり、クラス替えも終了する。
今日は午前のみだった為、食堂で昼食を取り終えた後は自室に戻っていた。
「へぇ、美子と一緒なんだ」
僕の部屋内でジャージ姿でくつろぐ北野 哀(キタノ アイ)は気の抜けた声で言う。
普段は灰色がかったアッシュ色の地毛をハーフアップでまとめているが、身内である僕の前では、もはや気を抜いている姿しか見せない。
「哀は瑛一郎と一緒なんでしょ」
「そうそう。騒がしくなりそうだ」哀は目を細めて客観的に笑う。
哀は僕のひとつ上のいとこだが、僕はひとりっ子であり、かつ昨年から同じ寮生活を行うことになった為、感覚でいえば姉弟のように感じていた。
血が混じっている所以なのかもしれないが、彼女も僕と似た立ち位置にいるだけ親近感を抱くのだ。
「そういや祐介が、沙那と直樹と同じクラスって言ってたっけ」
哀は人差し指を顎に当てて言う。
「直樹、祐介くんと同じクラスになったんだ」
以前「あいつ以外やったら誰でもいいや」と言っていた直樹の顔が思い浮かぶ。
「うん。修学旅行もあるのにさ。おもしろいよね」
他人事だからか、哀は楽しそうに笑う。
哀や哀たち幼馴染も偶然が重なり、昨年からこの学校及び寮生活を送っていた。
僕の幼馴染だけでなく、まさかの身内まで同じ学校に通うことになるとはつゆほども思っていなかった。
そのおかげもあり、昨年から非常に騒がしい日々を送ることになっている。
「今年はゴールデンウィーク、奏多は帰るの?」
「うん、一応。お母さんがうるさいからさ」
一人っ子の息子が中学生から親元を離れているだけ気持ちはわかるので、顔を見せるだけでもせめてもの親孝行だ。
「やっぱそうだよね。私も帰ろう」
哀はごろりと寝転びながら適当に返答した。
***
ゴールデンウィークが明け、個人部屋の環境にも慣れてきた頃。
温かい陽光が窓から差し、心地良い体温が肌を包む。開けられた窓からは緩やかな風が吹き、ひやりとした冷感と青い香りが届く。
ゴールデンウィーク開けの五月初旬、連日爽やかな日々が続き、一年で最も過ごしやすい時期だ。
ラウンジから見られる桜はすっかり新緑が芽生えて春を終えたものの、穢れのない緑は目にも良い。
だが天災というものは、前触れもなくやってくるものだ。
「奏多ぁ~起きろ~!」
特徴的な声と共に威勢よくドアが開かれる。僕は危険を察知した新鮮なエビのように飛び跳ねる。
「って、おい奏多! おまえ部屋の鍵、閉めてないのかよ」
瑛一郎は僕を叱りながらずけずけ部屋の中に入る。
僕は回らない頭のまま、身体を起こす。
「全寮制なんだから別に鍵しなくてもいいかなって……」
「物騒だな。襲われでもしたらどうすんだ」
「僕、男だよ……」
大きく溜息を吐くと、「で、何の用?」と問いかける。
「あーそうそう。あいつらがおもしろいことしててよ。喝を入れる為にも奏多にも見せてやろうと思って」
「あいつら?」
「ま、百聞は一見に如かずってもんだ」
そう言うと、瑛一郎は勢いよく僕の腕を引く。
僕は足がもつれそうになりながら彼についていく。
「ってみんな、朝からお揃いで……」
部屋を出て突き当り廊下まで出ると、直樹に萌、そして沙那が立っていた。
「おはよ~奏多くん」
部屋着のままの沙那は、ふにゃりと笑う。起きたてなのか、その顔には眠気が宿っていた。
「おまえのいとこがおもしろいことしてんだよ」
あれ見てみろよと瑛一郎が指差すと、ラウンジ内で何やら筋トレを行う哀とその幼馴染四人の姿が目に入った。
「ほんまに毎日、やってるんやなぁ」
直樹は、間延びした声で呟く。
「うちは朝から運動とか無理やわ」
萌は、大きく息を吐きながら両手を広げる。
「でも、本当に仲が良いよね」
沙那は、朗らかに同調する。
同じクラスである美子から軽く聞いたことはあるが、まさか本当に早朝に運動をしているとは思わなかった。せっかく登校がないだけゆとりがあるのにもったいない。
だが、彼らと一緒にいる哀の顔は、僕や身内の前では見せないほどに素の笑顔だった。
「哀の顔があそこまで変わるのは、あの人たちの前だけだしね」
僕は心から答える。
「奏多の前でも?」
瑛一郎が、素朴に問う。
「うん。元々哀は、一歩引いた場所からみんなを見ているようなタイプだし、正月に集まる時も周囲の会話を聞きながら、黙々とおせちを食べてる」
僕は笑いながら説明する。
「だからそれだけ、あの人たちには心許しているんだろうなって、外野から見てるとよくわかるよ」
自身が「観測者」と表明している哀は、基本的に僕たち身内の前ですらあまり感情を見せない。周囲から一歩引いた立場に立ち、全体を俯瞰しているようなタイプの人間だ。
「傍観者」である僕と共通する部分はあるものの、僕は感情を隠すのが下手だ。
だが今の彼女は、彼らと同じ立場に立ち、ありのままの姿だった。
その顔は、自身が「観測者」だと忘れているような感情の含む素の顔だった。
「確かにね」沙那は同意するように笑う。
僕らの反応を見た瑛一郎は満悦顔になり、「それでだ」と本題を切り出す。
「俺らも負けてらんねーだろ。だから俺らも、あいつらみたいに運動やろうぜ! 俺、朝練あるから夜でも…」
「興味ねぇ」直樹が素っ気なく言う。
「寝たい」萌が適当にあしらう。
「めんどくさいかも」沙那が笑いながら答える。
「どうでもいい」僕は小さく息を吐く。
粗方予測できていただけに、皆即答していた。僕らの中では、もはやお決まりの反応だ。
「おまえらな……」
案の定、瑛一郎は力なく呟いた。
***
月日は流れ、六月下旬。
気候の良い時期から一変し、連日外は雨が続いていた。湿気で体はべたつき、空が暗いことから心なし気分も下がる。
実際、今日から二年生は修学旅行で北海道に訪れており、寮内も人気が少なくなっていた。僕の周囲は二年生が多いだけ余計に実感する。
時間をかけて大きく息を吐く。言葉にならない感情をデトックスしていく感覚だ。
波のない海に浮かぶのはいつぶりだろうか。
今日は休日である為、授業もなく自由だ。
朝食を取り終えた後は、ひたすらベッドの上でスマホを弄る。
たまにはいいだろう。
彼らがここに来て以降、ほぼ無休で相手していただけに気は抜ける。彼らが来る前は中学生で同居人がいたことから、完全に一人になるのは、もはや初めてとも言えるかもしれない。
「傍観者なんだから、元々体力はないんだよ」
僕は習い事をしていなければ、部活動にも入っていない。
好奇心旺盛な人物が常に周囲にいるだけ、彼らの影響で嗜む程度だった。どちらかというと、好きなものを楽しそうに語る彼らを見ているだけで楽しいものなんだ。
風呂や夕食を終えた後も部屋内で伸びていた。ここ一年ほどの疲労を癒すような姿勢だ。
「たまには、ね……」
だが何故か、もどかしい感覚に陥っている。心の裏側を掻かれているような歯がゆさを感じ、そして自分で触れることはできない。
何の感情かもわからないが、妙に身体が何かを欲しているのは感じていた。
急激に眠気が襲ったことで目を閉じた。
***
眩しい光が降り注ぎ、心地良い温度が肌を包む。
「貴重な気候なんだから、もう少し堪能した方がいいぞ」と太陽が二度寝を誘った。
僕は寝返りを打つと、日の光で熱の孕んだ布団に身を丸める。
光合成の行われた柔らかい羽毛に肌が沈み、「そうだそうだ。まだ起きるべきでない」と太陽とグルなのか、布団も腕を離さない。
六月下旬のこの時期は、梅雨で連日雨が降り続くが、今日は珍しく穏やかな日和だった。
それだけに、僕は貴重な気候を布団に全身を沈めて堪能した。
そこで、ふと思う。
何故、陽光が僕の顔を照らせるのだろうか。
毎晩寝る時は、窓辺のカーテンはきっちりと閉めているはずだ。普段も毎朝起きると、自分でカーテンを開けて日光浴を行っている。
先ほどまでと変わり、全身が引き締まる。内側を覆うように身体を丸めた。
恐る恐る目を開けると同時に、「朝ですよー!」と活発な声が耳に飛び込んだ。
「ほーら、ほらほらほらほらほらほらほら。いつまで寝ているの、早く起きないと遅刻しちゃうぞ!」
神崎 渚(カンザキ ナギサ)は、布団をバリッと剥がすと、僕の頬をピタピタ叩く。
いきなり冷水シャワーを浴びせられたかのような強い刺激に、僕は飛び起きた。
「な、何々!?」
「わっ、哀と違って奏多は新鮮な反応だ!」
僕の目の前に座る渚は、ぱっちり二重の目を輝かせながら華のある笑顔を寄せる。
艶のある黒漆の髪からフローラルの香りが届いたことで、瞬時に目が覚めた。
僕は咄嗟に身体を逸らして渚から距離を取る。
何だ、この状況は。
何故、僕の部屋にモデルの渚がいる。
こんなの、週刊誌に写真でも撮られれば、大問題ではないか。
「何で、渚ちゃん……と美子ちゃんも?」
「奏多くんおはよ~」
ベッドサイドには、僕と同じクラスの二宮 美子(ニノミヤ ミコ)がメロンパンを食べながら僕を見る。
胡桃色の柔らかい髪に丸い目が輝く。起きたてだからか今日はリボンをつけていない。
朝食前だというのに、彼女の胃袋は底を知らないものだ。
いや、違う。そうじゃない。
「あ、朝から何?」
一応男である僕の部屋に女の子二人がいきなり押しかける状況は、捉え方を変えたら良いのかもしれないが、僕は直樹ではないので動揺が隠せない。
男は襲われないと考えていたが、このような状況が起こると肌で実感したので、今後は鍵を閉めるとしよう。
「奏多って、基本暇でしょ?」
「決めつけられてるね」僕の顔は強張る。
確かに部活に入っていなければ趣味もないので的確ではあった。
「今、みんな北海道行ってて美子と二人だからさ、奏多もあたしたちと一緒に運動しようよ!」
渚は満面の笑みで提案する。
以前、瑛一郎に見せてもらった運動のことを差しているのだろうが、中々ハードに感じただけに即答できない。
「奏多くん弱そうなんだから、運動は必要だよ~」
「中々ひどいね」僕の顔は引き攣る。
確かに運動もしなければ筋トレもしないので的確ではあった。
だが、一応男であるだけ変なプライドがある。
「毎朝ラウンジでやってるやつだよね。あれくらい僕だって……」
そう言った瞬間、渚が僕の腕を引き、走り出す。
僕は足がもつれそうになりながら彼女についていった。
結局いつもこうだ。
海に浮かぶ浮き輪は、ただ波に流されるだけで抵抗することもできない。
だが、これでいいんだろう、と思っている自分もどこかいた。
運動が想像以上にハードだったことは語るまでもない。
***
数日後、北海道から帰還した瑛一郎、直樹、沙那の二年生が僕の部屋に訪れていた。
高校一年生かつ男子部屋で一番部屋が狭いはずなのに、「物が少なくて広く感じる」との理由から、何故か毎回、僕の部屋が拠点となっていた。
「おう奏多! 久し振りだな~」
いまだ修学旅行気分の抜けていない瑛一郎は、癖のある陽気な声でそう言うと、床に購入したお土産を置き始める。
直樹や沙那も各々購入したものを並べる。
「奏多へのお土産はこれだな」
そう言って直樹は、瑛一郎の購入したものの中からジンギスカン味の甘いお菓子を僕に差し出す。
「明かにまずそうなんだけど」
「何言ってんだ。しょっぱいものと甘いものが一度に食べられるコスパの良いお菓子だぞ」瑛一郎は力説する。
「だから不安なんじゃん」
僕は苦笑する。どう考えてもまずいとわかる商品なのに、購入するところがさすが瑛一郎だ。
「瑛一郎くん。ひとつ食べてあとは奏多に渡すって言ってた」
沙那がけろっと告白すると、瑛一郎が「おい沙那!言うなよ」と厳しい顔を向けた。
本当どこまでも変わらない。
馬鹿であほで単純で、強引に流される波だ。
「北海道、楽しそうだったようで」
そう呟くと、三人が少し驚いたような顔をする。
「そうかそうか」
直樹は納得気に顎を触る。
「え?」予想外の反応にキョトンとする。
「俺らがいなくて寂しかったんだろ」
そう言って瑛一郎が僕の首に腕を回す。
酔っ払いに絡まれている感覚になって即座に顔が引き攣った。
「あ、でも今は嫌がっているよ」沙那は目を細めて笑う。
海に浮かんでいれば、転覆したり沖まで流されることがあるとは知りつつも、毎日荒波が訪れるとさすがに疲労は募る。
だが正直、彼らの破天荒振りは昔から変わらないので、慣れてはいた。
サーフィンの仕方がわからなくても、毎日荒波にゆられていると自ずと乗りこなし方は覚えるものだ。
それに、何だかんだ言って、僕は巻き込まれることは嫌いじゃない。
浮き輪は波に抵抗できないものだし、波の無い海に浮かぶだけではつまらないものだ。
悔しくも、僕は嘘を吐くのが下手で、感情を隠すことが下手だ。
幼馴染である彼らには、もはや悲しい足掻きであるが、無言で顔を逸らして対抗した。
***
「何か、すごく量多くない?」
僕は、哀から受け取ったお土産の量に目を丸くする。
目前には、元々頼んでいたバターサンドはもちろん、ラーメンやチーズケーキ、チョコレート、スナック菓子など「北海道フル満喫セット」と呼べるものが並べられていた。
うちの親はお土産が好きだった。身内が旅行に行くときは、お金は渡すからその分お土産を買ってきて、と考えるほどだった。
だが今、目前には、あきらかに渡した金額以上の量がある。
「いつものことだから多分お金一万円くらいしか入っていなかったよね。明らかに三万円分ぐらいあるじゃん」
「何かかわいそうで」哀は目を逸らして呟く。
「かわいそう?」
僕も来年、北海道行くんだけど、と尋ねるが、哀は「こっちの話」と適当に逸らした。
Day1「晴れ、時々雨」 完