Day3「台風、のちに虹」②


「聞いてくれ。俺はついに渚ちゃんのプログラムを完全に攻略してやったんだ」

文化祭も済み、束の間の休息がやってきた頃。
僕の部屋のドアを開けながら、瑛一郎が癖のある声で言った。
彼の後ろから、直樹と沙那も顔を覗かせる。

「渚ちゃんのプログラム?」
僕は首を傾げる。

「前に、朝に哀ちゃんたちが運動してるの見たやろ。あれ意外とハードらしくて、瑛一郎が初めてやった時に断念したとかで、ずっとリベンジに燃えてたんやって」
直樹が興味なさそうに答える。

「でも、十分体力もついたから今朝リベンジしたら、無事にクリアできたんだって」
沙那はふふっと笑みを漏らしながら続ける。

「そうだ。俺はついに無念を晴らしたんだ。俺は確実にあの時より成長した」

その言葉を聞いた瞬間、顔が引き攣る。
後ろの二人も、諦めたように首を掻いていた。

瑛一郎は自分で成長したと感じられる時に、いつも行っていることがあった。

「っつーわけで、俺は萌さんの所まで行ってくる! 今日こそは良い報告できるだろうから、シャンパン準備して待ってろよ」

瑛一郎はそう言うと、じゃっと指を立ててこの場を去った。
残された僕と直樹、沙那は小さく息を吐く。

「あれ、今、瑛一郎どっか行った?」

唐突に響いた声に振り向くと、反対方向から萌が現れた。

「萌さん?」

「おう、久しぶり!」

萌は白い歯を見せて親指を立てる。相変わらず丈の短いスカートから健康的な四肢が伸びている。
サイドに括られた地毛であるべっ甲色の髪が、さらりと軽く揺れた。

「やっと色々落ち着いて来てな。やからあんたらにちょっと報告しようと思ってたんやけど、でも今、瑛一郎、どっか行ったよな?」

「あぁ、えっと……」
内容が内容なだけに言葉に詰まる。

「まぁおらんならむしろちょうどいいか。ってことでなんやけど」

そう言うと、萌は僕と沙那を交互に見る。

「うち、来年から北海道の大学、行くことなって」

「「北海道!?」」

僕と沙那の声が被った。
直樹は元々知っていたのか、特に驚いていない。

「うん。おじいちゃんの畑が向こうにあって、せっかくなら向こうの大学行って、それ利用しようかなって思ってな」

「北海道って、そんな遠いところ……」
沙那は信じられない、と声を震わせる。

「瑛一郎には……言ったんですか……?」

思わず言葉に出ていた。
直樹も沙那も顔を強張らせて僕を見る。
萌は、サイドに括られた髪の先を指で弄りながら下を向いた。

「まだやな……やから、どう言ったらいいかなってちょっと案、聞かせてほしくて」

ちょうど今、瑛一郎おらんのやし、と萌は力なく笑う。
だが、彼女の背後に人影が現れたことで、僕も直樹も沙那も思わず目を見開く。

僕は、感情が素直に表れるだけ萌も気づいたのだろう。

つられて彼女も振り返ると、そこには、ぽかんと口を開ける瑛一郎が立っていた。

「俺、今、寮長室行ったんすけどいなくて、直樹に部屋番号聞こうと戻ってきたら萌さんがいたんすけど……えっと、北海道って、どういう意味っすか?」

瑛一郎は、視線の定まらない調子で尋ねる。

突然の登場に、萌は唇を震わせていた。
僕も直樹も沙那も、どう対応すべきか悩み、それぞれ視線を逸らして咳払いする。

「えっと、そのままの意味で……うち、北海道の大学に受かったから…………」

萌は、瑛一郎の表情を窺いながら告白する。以前、沙那から明かされた萌の素顔からも、純粋に彼を思っての振る舞いだった。

現実が受け入れられないのか、瑛一郎は静止したまま動かない。

「おい、瑛一郎……生きてっか?」
直樹は、ひょいと瑛一郎の顔を覗き込む。

いまだ瑛一郎は立ち尽くすも、やがて口を開く。
それは、予想もしていなかった言葉だった。

「じゃあこれから、何度も北海道飛べるってわけっすね」

「え?」
その場にいる全員、同じ反応をしていた。

「いや、瑛一郎…………北海道やで?」
萌は、顔を引き攣らせて問う。

「俺、修学旅行で北海道飛んで、すんげ〜気に入ったんすよ! まず飛行機乗るだけで、アトラクション気分になれますし、しかも美味いものしかない。そんなんむしろ歓迎しますよ!」
瑛一郎は目を輝かせて答える。

あまりにも前向きな彼の言葉に、この場にいる皆、呆気に取られていた。

「ちょっとくらいの距離が何なんすか! むしろ今まで近い距離だっただけに、会った時の感動が倍増するってものですよ!」

「恋人の感動の再会みたいに言うなや」
直樹が苦笑しながらつっこむ。

「うるせぇ〜〜例え一方通行だろうが、少しくらい感動が生まれるはずだ。いんや俺が必ずそうしてみせる。俺が萌さんを想う気持ちは昔から変わらねぇんだからな」
瑛一郎が険しい顔で宣言する。

「馬鹿やな……ほんま瑛一郎って、馬鹿やな」

萌は観念したように力なく笑う。
心なしか、萌の目元がきらりと光った気がした。

「ってそれよりも萌さん大学合格したんすよね。お祝いしなきゃっすよ!」

「あっ、そうだった」

北海道という距離に気を取られていただけ、彼女が無事に進路を固めたお祝いを言えていなかった。
同じことを思ったのか、沙那も口に手を当て萌を見る。

「今夜は萌さんの合格祝いパーティーだ! っつーわけでまずは買い出しだな!」

そう言うと「ほら直樹、コンビニ行くぞ」と瑛一郎は直樹の肩を掴む。
直樹も頭を掻きながらも、渋々彼についていく。

その場に残された僕と沙那と萌は、二人の背中を呆然と見つめていた。

「瑛一郎って、台風みたいやな」
萌は静かに呟く。

「でも、退屈しないかも」
沙那は楽しそうに微笑む。

「確かにね、まぁ二人も暇なら、部屋で待ってようか」

そう言って僕は部屋のドアを開ける。恐らくパーティー会場は僕の部屋になるだろうことからの行動だ。

萌も沙那も、諦めたように室内に入った。

 

***

 

すっかり紅葉も落ち切り、防寒具の手放せない時期がやってくる。
秋からは怒涛のイベントが続くだけに、流れるように月日が過ぎる。傍観者である僕も、気付けば物語の一員となってしまうほどに忙しない日々が続いていた。

十二月に入ったことで、寮内もクリスマスムードに変わる。
月に一回ある大掃除のあった先週、寮生全員で、廊下やラウンジといった場所をトナカイやサンタ、赤や緑といったクリスマス色に染め上げていた。

「蓮、ついに今月か〜」

瑛一郎はラウンジ内にあるツリーの飾りを弄りながら呟く。

「一年は長いよね」
沙那も寂しそうに笑う。

哀の幼馴染である、風見 蓮(カザミ レン)が今月から一年間、留学に行くことになった。
彼は鼻筋が通り、切長の端麗な目元からも、祐介さんとはまた違ったかっこよさを兼ね備えた人だ。
無口であるだけ直接話す機会はあまりなかったものの、哀の想い人であるとは知っている。

「そういや瑛一郎、寮長に立候補したんやっけ」
直樹が思い出したように言う。

「おうよ。最後一年くらいは、おもしろいことやろう思ってな。それに萌さんが寮長やってたのに俺がしないわけにいかないだろ」

「どういう理屈なん」
ソファでスマホを弄っていた萌は苦笑しながら言う。

「そのままの意味っすよ。萌さんの歩いた道全てを知る必要があるのは当然でしょ。萌さんのケツを追っかける身として」

「ストーカー宣言かよ」
ケツって言うな、と直樹は瑛一郎の頭をぶつ。

「言葉の綾だ! それだけ俺は萌さんの後を追う覚悟があるってことだ!」

「後を追うも中々だね」
沙那も堪えきれずに笑った。

萌も、スマホを弄りながらも、眩しそうに笑みを溢した。

例え底が真っ暗で見えなくても、見えてる海面は昔から変わらない。
わざわざ深い海底に潜ってまで汚い部分を見る必要もない。そもそも僕は体力もないので、潜れるほど息も続かなかった。

きれいな上澄みしか見えていなくても、知らなければ少なくとも今までの僕のように生温い生き方はできる。

腐れ縁というものは、中々切れないものだし、僕の一番望む晴れの顔が見られるのだから。

そして流れるように月日は過ぎ、一年が経った。

 

***

 

「ヨッシャーー!」
瑛一郎が拳を振り上げて叫ぶ。

「うるさい」
彼の隣でスマホを弄る直樹は、眉間に皺を寄せて言う。

「うるさい」
ベッドで寝転んで小テストの範囲の勉強をしていた僕も呟く。

「聞いてくれ!萌さんのクリスマスイブを奪うことができた!」

「何だよ、その言い方」直樹は苦笑する。

「でも、すごいじゃん」
僕は素朴に驚いていた。

瑛一郎は毎年、恋人の過ごす日であるクリスマスイブに萌にデートに誘っていた。
結局、毎回皆で過ごす結果になっていただけに、萌が許可したことに驚愕していた。

「やっぱり遠距離効果なのかな。まだ一年も経っていないけど」

萌は三月に学校を卒業してすぐに北海道に飛んだ為、九ヶ月振りになる。
小学校からほぼ毎日顔を合わせている関係だっただけに、長く感じられたのかもしれない。

「ほら前に言ったろ。離れてる分、俺が恋しくなるって」

「そんなこと言ってない」

僕は苦笑する。本人がここにいないだけ言われ放題だ。

「つーわけで、今年のクリスマス会は俺、欠席な!」
瑛一郎は勝ち誇ったように笑う。
僕と直樹は悔しくも反論できない。

「しっかし困ったな、寮長最後なだけに色々考えてたんだけど」

「どうせロクでもないことやろ」
ヤケにやっているのか、直樹は感情のこもっていない声で吐き捨てる。

「ちっげぇよ馬鹿!俺は自腹を切って、後輩たちに夢と希望を与えようとだな」

「僕らもう、高校生だけど」僕は自身を指差す。

「年齢は関係ねぇ。心はいつまでも少年だ。つーわけで、沙那も呼んで会議だ」

そう言うと、瑛一郎は大股で歩きながら部屋を出て行った。

「あいつ、スマホの存在忘れてるんか?」
直樹は頭を掻きながらも立ち上がる。
僕も彼に続いて腰を上げる。

「しかし姉貴が許可するとはな〜。どんな心境の変化や」

「やっぱり遠距離なのが効果的だったのかな」

僕と直樹は廊下を歩きながらぼやく。瑛一郎のことは応援はしていたものの、瑛一郎であるだけ理不尽にも悔しく感じた。

直樹は、ふと天井を見上げる。

「まぁ、時間が経てば、気持ちが変わることもあるよな」

「直樹?」

「今年で卒業なんやし、最後くらいわかりやすく行動するのもありやな」

直樹は、自分と会話しているのか独り言を呟く。
具体的に話されてないものの、美子ちゃんのことだとは伝わった。
それだけに沙那を思うと胸が痛んだ。

ラウンジに辿り着くと、瑛一郎と沙那が外を指差して談笑していた。
釣られて顔を向けると、ガラス張りの外は、チラチラと白い雪が舞っていた。

「雪……!」
僕は窓に近寄る。

「まだ十二月初旬やのに早いよね」
沙那は目を細めて微笑む。

「気まぐれなんだろ、お天道様も」
瑛一郎は納得するように頷いた。

「でも知ってるか? こんなにきれいな雪でも食べることには向かねぇ。大気中の不純物が混じっているから、真っ白に見えても本当は汚ねぇんだ」

瑛一郎は至極真面目な顔で腕を組む。
直樹も沙那も、その言葉に顔を僅かに歪めて反応する。

「でもさ、こうして見ている分にはきれいなんだから、それでも良いんじゃないかな」
僕は答えていた。

「別にわざわざ手に取って確かめなくっても、こうして眺めていればきれいなんだからさ、そもそも雪は元々食べ物じゃないんだし」

そう言うと、瑛一郎が「それもそうだな」と頷いた。

 

***

 

クリスマスイブを前日に控えた二十三日。
この日は一日、「高校生棟の一、二年生全員にクリスマスプレゼントを配る」という寮長である瑛一郎発案の計画に付き合わされただけ疲労が募っていた。

室内のベッドで大の字になり、休息を取る。

「沙那……大丈夫かな」

先ほど直樹は、ダメ元で美子ちゃんに明日デートの誘いをした。すると彼女は、兄が隣にいながらもあっさりと許可したのだ。

美子ちゃんが今までどれほど祐介のことを溺愛していたかを見てきただけに、正直驚愕した。それは祐介はもちろんのこと、声をかけた直樹本人ですら驚いていた。

ほぼ毎日、女の子と一緒にいるだけ純粋に喜ぶ直樹の姿は、まっすぐに恋愛をする男子高校生そのものだった。

そんな彼を見つめる沙那の寂しそうな顔が頭から離れなかった。

僕はスマホを手に取り、沙那にメッセージを入れる。
数分後、ガチャリと部屋のドアが開かれ、沙那が室内に入る。

「さすが、奏多くんだよね……」

沙那はふにゃりと笑う。その笑顔には力が入っておらず、目元も赤く腫れていた。
そんな彼女の顔を見るのが辛かった。

「言ったでしょ。沙那の心を満たすのは僕だって……例えどんな沙那でも僕は、全部肯定するんだから」

僕が笑顔にしてあげる、だなんて言う自信はまだない。
だが、傘を差して雨を避けることくらいは、傍観者である僕にでもできる。

「奏多くんは、本当にきれいだよね」

沙那は目を潤ませて微笑む。翡翠色の瞳が光に反射して輝き、僕を魅了する。
そんな彼女が心底きれいだな、と改めて感じた。

「僕って、沙那が思っているほどきれいじゃないんだ。だって」

そう言うと、僕は意地悪く口角を上げる。

「報われないってわかっているからこそ、まっすぐに思うことができるんだ。それに、女の子は男と違って、二番が一番になる可能性もあるって言ったのは、沙那でしょ?」

沙那は目を丸くして反応する。

「それだけに、沙那よりも僕の方が有利であるのには違いない」

指を立てて言い切ると、沙那はあははっと声を上げて笑った。
その笑顔を引き出せただけで、僕は満足だった。

「期待してる」

沙那は丁寧に手入れされた髪をなびかせ、挑発するように目を細めた。

 

Day3「台風、のちに虹」 完