私の本能が、目前にいる人物を「変な人」だと言っている。
目前に広がる道路の中央に、三十代くらいの男性が、裸で大の字になって寝転んでいた。いや、厳密には、本人が配慮しているのか、誰かが気を使って供えたのかわからないが、見えてはいけない大事な部分にはタオルがかけられているのだが。
彼を発見した時、人が倒れているものだと驚いたが、近くまで来ると彼の満足気な表情が見えて、どうも意図的に寝転んでいるのだと感じることができた。
素肌にアスファルト、確実に寝心地は良くないだろうが、本人は心地良さそうな表情を浮かべながら胸を上下させている。
メガネをかけているところや、どことなく彼から漂う雰囲気からも、根は真面目そうだな、と感じられる。普段は真面目に就労しているものの、花金が来ると上司に夜の繁華街に付き合わされ、酒の勢いでハメを外してしまうサラリーマン、といった印象を抱いた。
それにしても、何故裸なのか。
辺りを見回す。車が通る気配はしなかった。
裏街道には、車の存在は確認できるものの、実際に利用する人は今のところ見受けられない。だから、例え道路の中央に裸で横たわっていようとも、車で轢かれるような心配はいらない。わざわざ起こす必要もないはずだ。
決して関わるのが面倒だというわけではないが、私は素知らぬ振りして彼の横を通過しようとする。
途端、気配を察知したのか、彼は勢いよく目を開けて私の方に顔を向けた。寝ているものだと思い、隠すことなく彼に視線を送っていたので、不意に目が合ってしまった。見物していただけだが、罪悪感が襲ってきたので軽く頭を下げる。
しかしよく考えると、一度少女に襲われて以降、出歩く際は常にレンズの黒いメガネをかけていた。もちろん今もメガネをかけているので視線がバレることはなかったはずだ。私は今の行動を誤魔化すように頭を掻いた。
彼は無言のまま、私が何者か観察するような目で見る。裏街道の住民だから、もちろん彼の目も黒かった。
眼光は鋭く、外見から受ける印象から生じる違和感も相まって、蛇に睨まれた蛙の如く委縮してしまう。その場から立ち去り辛くなった。
おそるおそる「大丈夫ですか？」と声をかけてみる。
すると彼は、先ほどまでの険しい表情から一変し、照れ臭そうに笑いながら「一度こうして、道路の真ん中に寝そべってみたかったんだ」と言った。
わからなくもないな、と素直に彼に共感した。
彼が寝転んでいる道路は片道四車線ある道路だ。表では、安全的な意味からも法律的な意味からも、公共道路の中央に大の字になって寝転ぶなんてことは不可能だ。
しかし、立ち入り禁止エリアに侵入したくなるような、秘密にしろと忠告されると他言したくなる秘密話のような、触るなと書かれていたら触れたくなる展示物のような、禁止されると実行したくなるカリギュラ効果というものは、少なからずの人間に起こりうる心理現象ではあるだろう。とはいえ実際に行動に移すと信頼を落とすことになるのでおすすめはしない。あくまで例え話だ。
しかし、何故裸なのか。
と問おうとして口を噤む。解答を得たところで、長年の疑問が去る快感が訪れるわけでもなければ、もとより解答の内容にさほど興味があるわけでもない。その為、口に出さずに腹に納めることにした。
一瞬構えはしたものの、特別私に危害を加える様子も感じられない。再び横を通過しようと試みる。
しかし、またもやそのタイミングで彼に反応があったので反射的に足を止めた。絶対、タイミングを狙っているだろうこの男。
だが彼は、こちらのことは意に介する様子はなく口を開く。
「向こうにいた時は、本当に苦しかったんだ。ルールに則ってない奴らが優遇されることはザラにあった。結局は、結果よりも上司の好みで全て決められるんだ。そんな不平等な社会にはもううんざりだ。真面目に頑張ったところで、結局報われないのならば、頑張る必要性も見つからないでしょ」
話を聞いてほしいのだろうか、聞いてもいないのに過去を吐露する。彼は大の字に寝転んだまま、表にいた頃を思い出しているようだ。
彼の言葉には共感できる点があった。余計なノイズを入れない為に彼から目を逸らし、視界から入る情報を遮断して思案する。
表の世界が不平等であるのは仕方ないことだろう。努力したからと必ず結果がついてくるわけではない。頑張った人全員が報われるならば、スポーツなんて競技は生まれていない。むしろ、恩を仇で返されることもよく聞く話だ。
私自身が実際体験したわけではないが、人間には感情がある以上、計算通りにいかないこともあるはずだ。達観していると言われたらそこまでだが、もはやこれは、諦めに近い。
だからこそ、裏街道のような世界が生まれたのではないのか。
「でも裏街道は、こうして道路に大の字になったところで、人や法によって咎められることはない。変人だ、と敬遠されることもない」
正直、最初は変な人がいると思ったのだが、それは噯気にも出さないようにした。
「表なんて嫌いだ。お気に入りしか見てない上司も、人に頼ってしか生きていけないような同僚にも、何を言っても否定してくる妻にも。ボクの居場所なんて向こうには存在しないんだ」
過去を思い出して感情的になってるのか、彼の告白はどんどん熱を帯びていく。
何だか私にまで飛び火しそうな気がしたので、そそくさとその場を去ることにした。幸い、反応を示さないことで、彼が何か言ってくることはなかった。
角を曲がる時に、もう一度彼の方へと目を向けた。周りに誰もいないにも関わらず、先ほどと変わらぬ調子で何かを叫んでいる。
私は心の中で健闘を祈り、アパートへと足を進めた。
＊＊＊
私が利用している二○一の部屋に帰宅し、手に入れてきた品を机に置く。思わぬできごとにより、主に精神的に疲弊した。大きく息を吐きながらソファに腰かける。
裏街道に来て三日くらいだろうか。時間がなく、食事をしない生活にも少し慣れていた。
手に入れてきた品を袋から出した。適当に見繕ってきた服だった。
動けば身体は汚れるし、気分転換にも風呂に入ろうとしたものの、服は今着ている制服一着だけしかなく、この部屋にも着替えや寝具といったものが見当たらなかった。
そこで裏街道に来た際に、某ショッピングモールの看板が見えたことを思い出し、表と変わらなければ服屋くらいはあるはずだ、と考えて記憶を頼りに訪れていたのだった。予想通り服屋はあったが、店員はいなかったので、拝借した形になるのだが。
薄々感じてはいたが、裏街道はどうやら表の街を参考に造られているように思える。明かりと人気がないだけで、外観はほぼ表と変わらない。欲しいものは店で手に入るし、一応電気も通っているので、設備が使えない不便も感じなかった。もしかすると、私が知らないだけで表にも裏街道そっくりな場所があるかもしれない。
拝借した服は、どれも無地のシンプルなものばかりだった。シャツ二着とパンツ一着、下着二セット、パジャマ一着。計一万円相当。
せっかくなら高い品でも借りようかと思ったが、ブランドには詳しくないので、そんなことに頭を悩ますならさっさと風呂に入りたいと、結局いつも利用している大衆向け某大手メーカーの服を選択した。
服の調達も完了したので、目的を達成する為に浴室に向かう。
バスシャワータイプを想像していたが、一人では十分の広さの浴室だった。白くて光沢のある調和した備品が備えられている。念の為シャンプー類も調達してきたのだが、それらの類も一式並んでいた。ラックにはバスタオルとハンドタオルも置かれている。全く汚れが見当たらないが、一応湯舟をシャワーで流して洗浄した。
ホテルのようにきれいな浴室に気が緩んでいたのだろう。その為、不意に感じた人の気配に普段以上に肩を飛び上がらせることになった。
思考が止まり、背筋が凍りつく。おそるおそる背後を振り返るが、もちろん誰もいない。
水が排水管へ流れる音が浴室に響く。私は頭の回転を緊急停止し、代わりに湯はり準備を進める手を速く動かして、リビングに戻る。
ソファに腰をかけて、身の安全を確保した後、脳の活動を再開させた。
ここに来てから、時々人気を感じることがある。メイやガラクや少女など裏街道の住民と出会った時は、むしろ気配を感じられなくて驚くことが多かった。しかし、先ほど感じたものはそれとは逆の、人がいる気配がするものだ。
メイが部屋に来る時は玄関から元気よく入ってくる。ガラクはそもそも私の部屋に来訪する用があるとは思えないので、二人でないことは確実だった。
この部屋に監視カメラでもあるのか、と前に軽く確認はしたが、そのようなものが設置されている様子もない。
急に心細くなってきた。メイには風呂に入りたいと事前に伝えていたので、いつものように突然やってくることもないだろう。
何だか見たくないものを見る気がして、生活に便利だからと睡眠時以外かけているメガネも外した。途端視界は霞み、私の見える世界は暗くなった。
簡単なことだ。見たくなければ見なければいい。
しかし、今は何も感じないこと、原因が判明しないことからも、解答を導くことができずに思案を終了した。気のせいだと思いたい願望から出した結果でもある。
ちょうど湯はり完了を示す軽快な音が鳴り響いたので、私は浴室に向かった。
＊＊＊
久しぶりのお風呂はとても気持ちがよかった。熱めのお湯が、身体の血管細胞を活性化させ、心地いい痺れが全身に響き渡る。満足感から嘆声が漏れていた。
湯舟に浸かりながら洗顔料やトリートメントの袋を破る。これも特に拘りのない適当に選んできたものだった。袋を開けた瞬間、フローラルの甘い香りが鼻孔を擽った。
本当に私は、服にもスキンケア品にも関心がないんだな、と半ば他人事のように思う。いつぞやに、「女の子なんだから、もう少し関心を持ちなさい」と言った母の言葉が思い出される。ミカにも似たようなことを言われて事あるごとに何か勧めてくれていた。結局今でも、生活に必要だから使用する、以上の関心を抱くことがなかったのだが。
設定温度を少し高くしすぎたのか、意識が朦朧としてきたので湯舟から上がる。そのまま全身を洗い流して、浴室を後にした。
髪を乾かす前に風呂の余韻を堪能しようとふとんに寝転がる。ゆでたまごの殻が剥けたように全身がツルツルで、つま先までホカホカしていた。拝借してきたパジャマは、素材に拘った商品なのか着心地が抜群だった。
今ここに牛乳でもあれば最高なのにな、と思うが調達していないのでもちろんない。わざわざコンビニまで行くのも面倒だ。惜しく感じながらも、しばらくふとんの上で伸びていた。
ノックの音が響き、身体を起こして玄関に向かう。
扉を開けると、メイが立っていた。
「メイ？ どうしたのノックなんて……」
「だって、お風呂に入ってるって言ったじゃん」と、頬を膨らましながら答える。
失念していた。メイは子どもとはいえ、さすがに裸を見られるのには抵抗があった。メイもその辺りの配慮は持ちあわせているようだった。
軽く謝りながら、髪から滴る水滴をタオルで拭った。
「ねぇ、お風呂上がったなら、ボクの部屋でトランプしない？ガラクも来てるんだ」
メイはいつもの屈託のない眩しい笑顔で言った。
「ガラクが？」
「うん、行こう！」
そう言って私の手を引いたので、慌てて靴を履く。まだ髪も乾かしていないのだが、早く早く、と目を輝かせながら急かすメイを前にすると、まぁいいか、と諦める。
階段を下りながらふと思う。
こうして、諦められるところが、母やミカは気になったのだろうな。
メイの部屋に入るが、ガラクの姿が見られない。その代わりに、浴室から音が聞こえたので、ガラクも風呂に入っているのだと見当がつく。
「ガラク、図書館には風呂がないからさ、定期的にこのアパートに来て風呂に入るんだ。大して外にも出てないのにマメだよね。今はたまたまボクの部屋の使ってるだけだけど」
そう言いながら、いそいそと机やざぶとんの準備をし始めるので、私も手伝う。
ガラクは常に読書をしているイメージがあり、衣食住とは無縁のように見えていた。
彼の生活の一部を目撃して、失礼ながらもどこか違和感を感じた。