第二試合 夏vs自分②


「翔吏、すごいじゃん」

次の日、教室に着いて開口一番、前座席に声をかける。

「何が?」
翔吏は目を丸くして問う。

「ベンチ入りしたんでしょ。うちで渡された応援のプリントに名前、あったからさ」

そう言うと、翔吏は口角を上げて得意げな顔をする。

「あぁ、そのことか。ま、当然の結果だな」

「は?」予想外の返答に、思わず目が丸くなる。

「誰よりもバットを振った自身だけはあったんだ。努力が実を結ぶとはこのことだな」
翔吏は至極当然だ、と言わんばかりに頷く。

以前、公園で彼の姿を見たこと、更に中学時代ケガをしていたという話を聞いてから、彼がどれだけ努力をしたのかは想像の余地をはるかに超えるだろう。
とはいうものの、どこか捻くれている。

「素直に喜べばいいものの」私は口を尖らせて言う。

「言ったろ。これがスタートラインなんだ」
翔吏は口を曲げて答える。

「なんか本当……速水さんとは大違いだね」

思わず口に出ていた。同じ野球部なだけにどうしても比べてしまう。
私の言葉が気に食わなかったのか、翔吏は険しい顔で私を睨む。

「俺は剛速球ストレートより、変化球の方が好きなんだ」

「そんなこと聞いてない」

「ま、つーわけで、俺が打つ時に下手な音出したら説教だからな。せめて音だけでもきれいなものを頼むぜ」

「うるさいわね。言われなくてもわかってる」

感情的になり、握りこぶしで机をドンッと叩く。
翔吏は私を一瞥すると、「ぶっさいくな顔」と吐き捨てて前方を向いた。

私はじっと彼の背中を睨む。

悔しい。素直に褒めたにも関わらず、何でここまで不愉快にならないといけないんだ。
こんな捻くれた奴がベンチ入りできていることにも、それが彼の実力でもぎ取った結果であることにも、全部が悔しかった。

こんな奴に負けてられるわけがない。

「陽葵、お腹でも痛いの? 険しい顔」

昼休み、翔吏の席でお弁当をつつく依都は淡々と指摘する。

「そんなに顔、強張ってる?」

「うん、陽葵は感情が顔に出やすいから」

私と違って、と依都は真顔のまま淡々と答える。「でも最近、弱音吐かないね。やっと慣れてきたんだ」

「うん、こんなところで負けてられないと言うか……」

「負けてられない?」

何のこと?と依都はキョトンとする。
私は無言で彼女の座る椅子を睨みながらパンをほおばった。

 

***

 

休日の練習、今日は普段より一時間早く部室に訪れていた。
基本的にこの時期の自主練習はコンクールメンバー優先であるが、禁止はされていない。少しでもたくさん練習して見返さなければいけないんだ。

何故かわからないが、翔吏と話した後は毎回やる気になっていた。釈然としないが、彼に対抗する感情から向上心が生まれているのは事実だった。

「今に見てなさい…………」

音楽準備室から自分の楽器と譜面台を取り出して外に出ようとすると、「あれ、橘さん?」との声が響き、飛び上がる。
振り向くと、綺麗な黒髪をなびかせた一ノ瀬先輩が、凛と背筋を伸ばして立っていた。

「い、一ノ瀬先輩……! おはようございます!」

私は脊髄反射で深くお辞儀をする。

「す、すみません、少しでも早く練習をしたくて空き部屋で練習しようと。個人練習は可能だと部長から聞いていたので……」

しどろもどろになりながら弁解すると、一ノ瀬さんはジッと私を見る。

「別に、怒ってないじゃん」

「え?」思わず顔を上げる。

「この時期は自主練遠慮している人ばかりだけど、でも一年でもしていいんだし」

そう言うと一ノ瀬さんは、自身の楽器を棚から取る。

「だからそんなに構えられたらこっちも困るよ。練習する人を止めるわけないんだから」

「す、すみません……」

「じゃ」

一ノ瀬さんはそう言うと、颯爽と部屋を出る。
私はその場で茫然と立ち尽くしていた。

以前、速水さんが「一ノ瀬たちも困惑していた」と言っていた言葉を思い出す。
気を遣いすぎるあまり、よく考えたらわかることすら理解できていなかった。

思わず笑みが溢れる。

「やるぞ!」

応援曲の楽譜を握りしめ、空き部屋へと向かった。

 

***

 

本格的に演奏の練習が始まってからは一日がとても早く感じられた。
基礎体力がついてきたのか、三十分間走で膝をついて休憩するなんて情けない行為はしなくなった。
それどころか筋肉痛も通り越し、今ではもはやどれだけスタミナがつけられるかゲーム感覚のように身体を鍛えるようになっている。まさに「運動部」と言っても過言ではない。

体力がついてきたことで、疲れることもなくなった。二ヶ月前までは帰宅後は疲労から何もやる気が起こらなかったが、今では譜面とにらめっこして音の確認をできる余裕が生まれている。

改めて体力って必要なんだ、と身に沁みて感じた。

早朝五時。今日も川辺を走っていた。
もはや習慣となっていたので今もやめることはない。むしろ初夏の爽やかな朝なだけに早く起きないともったいないとすら感じている。

高架下には、いつものように速水さんの姿があった。
学校では常に周囲に人がいる彼も、この瞬間だけは自分の世界に篭っている。
そんな貴重な時間を私だけが知っていることに勝手に特別感を感じていた。

遠くから見守るだけで声をかけることはしない。せっかくの貴重な時間の邪魔はしたくないし、私だって少しでも走って体力をつけたかったのだ。

お互いが、熱い夏に備える為に。

あっという間に一ヶ月が過ぎ、そして開会式前日となった。

 

***

 

開会式前日。地元のローカルニュースでは、明日から始まる高校野球の特集が放送されていた。
注目高校として当然のように紫野学園がピックアップされていることに口角が上がる。

「やっぱりうちって凄いんだぁ」

冷蔵庫から麦茶を取り出してソファに座る。
茫然とテレビを眺めていたが、突如速水さんの顔が表示されたことで心臓が止まりそうになった。

リモコンで音量を上げ、無意識に前かがみになる。
画面には、「速水瞬(主将)」の文字と共に、速水さんのいつもの笑顔が映し出されていた。
画面越しでも伝わる彼の爽やかな空気に、心臓が苦しくなる。

「陽葵、目悪くするよ」
母は苦笑しながら私に声をかける。

いつの間にかソファから腰を上げ、テレビの傍まで近寄っていた。

「だって、うちの高校が出てるから」

「とはいっても貼りつきすぎ。まさかその主将さん、好きなの?」

思わず静止する。
だが母は冗談のようで「ま、陽葵が手を出せるような人でもないか~」と失礼なことを言いながら風呂場へと向かった。

私はムッとしながら画面に顔を戻す。

「それでは最後に、この夏への意気込みを教えてください」

リポーターの言葉に、速水さんはカメラ目線になる。
目が合った感覚に陥り、身体に緊張が走った。

「僕たち三年生は、一年の時に一度、先輩方に甲子園という舞台に連れて来ていただきました。あの時の熱さを今でも忘れられません。今度は僕たちが保護者の方や応援団の方、そして普段から応援してくださる地元の方に、あの場で恩返しできるよう全員で結果を掴みたいと思います。応援のほどよろしくお願いします」

速水さんのまっすぐで濁りのない言葉に奮え上がった。

私がここに来るきっかけになった二年前の甲子園の日、速水さんは当時甲子園という私の憧れの熱い場に立っていたんだ。

心臓が大きく脈打ち、呼吸が荒くなる。
固く拳を握っていたことで手のひらがジワリと痛む。
こめかみ部分の血流が盛んになっているのか、脳内にドクドクと鼓動の音が響いていた。

いてもたってもいられなくなり、気づけば玄関に向かっていた。

「陽葵、こんな時間にどこ行くの?」
偶然部屋から降りてきた姉が声をかける。

「近所だよ。すぐ帰ってくるって言っといて」

時計は午後九時を指している。まだ補導はされない時間だ。
私は慌てて靴を履くと、一直線に川へと向かった。

日の沈んだ夏の夜を駆ける。
梅雨も明けたことで、日中は連日汗が滲む季節になったものの、夜は心地良い気候だった。
遠くの田園から蛙の鳴き声が響く。ジジジッと虫も静かに声を上げ、夏の夜を醸し出す。
広い川に冷やされた風が火照る肌には心地良く、朝とはまた違った爽快感が感じられた。

今は部活動が終了した夜であり、且つ明日は朝から開会式だ。夏に備える為、休んでいるとは普通に考えたらわかる。

だが何故かわからないが、速水さんは今、あの場にいるだろうと確信していた。

川辺の高架下まで来ると、そこにはバットを握って素振りをしている速水さんの姿があった。
先ほどテレビと見た姿とは違った、私だけが知っている彼の姿だ。
根拠のない確信が当たっていたことに、思わず口角が上がる。

「あれ、橘さん」

速水さんは私に気付くと構えを解いた。私は小走りで彼の傍による。

「部活終わりなのに自主練かな。えらいね」

「それはこっちのセリフでもありますよ。明日は開会式なのに」

「ははっ、何かジッとしてられなくってさ」
そう言って速水さんは、手に持つバットを弄ぶ。

「毎朝、ここで練習していますよね。話しかけたら悪いと思って、遠くから見ていただけなんですが……」とここまで言って口籠る。
遠くから見ているだなんて言い方、まるでストーカーじゃないか。

だが速水さんは特に気にすることなく、むしろ「あ、俺も」と笑顔でこちらを向く。

「俺も毎朝、そこの道走る橘さん見えていたよ。こちらこそ悪いかなって思ってたから話しかけなかったけど」

「そ、そんな、速水さんの視界にお邪魔してすみません」

「ははっ、何だそれ」

速水さんは軽く笑うと、近くの段差に腰を下ろす。
邪魔かなとは思いつつも、ここに来た目的が彼に会う為だっただけに、私もおずおず隣に腰を下ろした。

「橘さんのクラスメイトくん、本当にベンチ入りしたからすごいね」

「翔吏ですよね。まさかそれだけ実力があったとは思わなくて、私も驚きました。態度は生意気なんですが」

「態度は生意気なの?」速水さんは目を丸くする。

「はい。私のことなんてブスブス言うんで……」思わず顔が引き攣る。

「彼、そんなこと言うんだな。想像できないな」
速水さんは素直に驚きながら顎に手を当てる。

「多分、先輩の前だから本性を隠しているんだと思います……」

私は不貞腐れて告げ口する。
速水さんはあいつの先輩であるだけ、せめてもの反逆だ。

「でも彼、本当すごいよ。常に上しか見てなくて俺らでも怖いし。スタメンではないものの実際、他の三年差し置いてベンチ入りもぎ取ったんだから。彼は間違いなく大物になる」

速水さんはまっすぐに褒める。後輩でありながらも、素直に実力を認める彼の懐の大きさにまたもや感激した。

「まぁ、でも、本音言えば、一年生でベンチ入りできた彼にはちょっと嫉妬しているんだけどな」

「そうなんですか」意外な言葉に目を見開く。

「だって俺、一年の頃スタンドだったし」

速水さんは目を細めて言う。「もしあの時ベンチ入りしてたら、甲子園の土、踏めたんだけどな」

私は、甲子園という場で応援をすることが夢だ。
だが速水さん含む選手たちは、ただ甲子園という場に訪れるだけでなく、さらに狭き門をくぐらなければいけないんだ。

改めて「甲子園」という場に、どれほど感情が詰まっているのかが感じられて鳥肌が立った。

「…………実はさっき、テレビで速水さん映っていたんですよ」

「え? あぁ、多分夏の特集だよな。どれだろう」
いくつかインタビュー答えたんだよな、と速水さんは腕を組む。

「ローカルチャンネルでやっていた注目の学校特集です」

「あぁ、それか。何か恥ずかしいな」
そう言って速水さんは照れ臭そうに頭を掻く。

「私、速水さんの言葉に震えました。実は私、吹奏楽部に入ったのが、二年前の紫野学園の甲子園をテレビで見たからなんです」

「え、そうなの? まさか応援?」

「はい。二年前に偶然テレビで甲子園に出ている紫野学園を見て、私もあの場所で応援したいなぁって思って……だから、速水さんが甲子園で恩返ししたいと仰ってくださって、すごく嬉しかったんです…………」

緊張で声が高くなる。自分の夢を野球部である彼に打ち明けることに、内心爆発しそうになっていた。

恥ずかしい。絶対今、顔が赤い。いたたまれなくなり、どんどん顔が下に向く。
今、速水さんがどんな顔をしているのかわからない。

「野球部の応援の為に入部だなんて、こんな光栄なことはないよ。すごく嬉しい」

普段以上に温和な声が届く。
恐る恐る顔を上げると、速水さんは少年のような顔で笑っていた。

「本当、俺らだけじゃここまで頑張れないからさ。吹奏楽部の演奏や、チアリーディング部の応援があるからこそ本気で挑めるんだよ。まぁそれにうちの連中、単純な奴ばっかだから、女の子に応援されるってだけでやる気になる奴多いし」

「そういうもんなんですか」私は笑う。

「男ってそういうもんだよ」速水さんも笑いながら肩を竦めた。

あまりにもストレートに紡がれる速水さんの言葉には、何も嫌味も臭みもなかった。

「でも、そうか、甲子園で応援されたいって言われちゃ、こっちも頑張らないとね」

速水さんは軽く言うが、私の身体は強張る。

「いや……、プレッシャーを与えたつもりでは……! て、適度に頑張ってください」

「適度にって」速水さんは笑う。

「行ったことないんだろ。やっぱり生の甲子園は違うよ」

そう言うと、速水さんは眩しそうに空を見上げる。

「とっても眩しくて熱いんだ。人の熱気に包まれて感情が圧倒される。あの場所は本当に一度、行くべきだよ」

そう言うと、速水さんはこちらに拳を見せる。

「甲子園、連れてってあげるからさ」

心臓が大きく鳴った。
先ほどは画面越しだったものの、今は錯覚でもなく私を見つめ、まっすぐに言葉を投げている。
こんなにも曲がりのない感情の受け止め方を、私が知るわけもない。

あまりにも早い剛速球ストレートを目にすると、圧倒されて言葉が出なくなるものなんだ。
それだけ彼の純粋な感情に圧倒されていた。

思わず静止したことで、速水さんは照れ臭そうに頭を掻く。

「って、さすがにクサいこと言ったな。ま、でも俺らが甲子園を目指しているのは元々だから」

そう言うと、速水さんは大きく伸びをする。

私も伝えなければ。
まっすぐである彼の前だからこそ、
偽りのない、素直な感情を。

「私も……必死で応援しますから!」

私は勢いよく顔を上げた。

「まだまだヘタですが、恥ずかしくない音が出せるように練習しますから……なので、私も速水さんの背中を押す力にならせてください!」

思っていることを素直に打ち明けた。

速水さんの前だからこそ、格好がつかなくても飾り気のない純粋な言葉で感情を伝えたかった。
そして口に出すことで、より一層自分の中の目標が明確になってくれる気がしていた。

「頼もしくて助かるよ。橘さんの応援が球場で聴けるの楽しみにしてる」

そう言うと、速水さんは立ち上がる。

「遅くまでごめんな。家まで送るよ」

「いや、そんな、近所なので」

「むしろ近所なんだから、遠慮しない」

そう言うと、速水さんは私の頭にポンッと手を乗せた。
突然の行動に、全身が硬直する。

「こ、子ども扱いしてますよね?」

咄嗟に口に出る。かわいげのない反応で殴りたくなるものだ。

「俺にとったら大抵の人は子どもに見えるよ~」

速水さんは、ははっと豪快に笑うと、「家、こっちかな?」と歩き始める。

私は男の人からスキンシップを受けたことがない。
さらに彼は、紫野学園に通うきっかけとなった憧れの「高校球児」なのだ。

隣に歩く彼を横目で見る。
私の倍以上はある大きな体躯も、先ほどの包み込むような手も、全部が男の人だと感じられて胸が締め付けられた。

平静を装うのに必死だった。耳の裏にまでドクドクと鼓動の音が響き、全身が熱くなる。
彼にとったら何気ない行為かもしれないが、私の感情はここまで揺さぶられているんだ。

「ここなんだ。本当に近いね」

速水さんは、私の家を見て目を見開く。
私は赤面した顔を悟られないよう、下を向きながらお辞儀する。

「わざわざありがとうございました」

「いやいや全然、じゃ、ゆっくり休んで」

そう言うと、速水さんは軽く手を振り、この場を後にする。
私は小さくなる彼の背中を呆然と見つめる。

「陽葵、帰ってきたの?」

声が聞こえたのか、母が玄関のドアを開く。「ってあれ?あの人さっきテレビで出てた人じゃ……」

「うん、そうだよ」

虚な視線で答える私を、母はじっと見つめる。

「青春、しちゃって」

「そんなんじゃない」私は大袈裟に手を振る。

「ほら、明日も練習なんでしょ。早く休みなさい」

そう言うと、母は家の中へと戻っていった。

「そんなんじゃ……ないから…………」

軽く頭を触りながら、家の中へと入った。

 

第二試合 夏vs自分 完