九月十日。応援団の人たちにとったら晴れ舞台、『城島』にとったら命日だった。
応援席から離れた木陰から、台本通りに済まされる個人競技を茫然と眺める。
感情を自覚した後は、もう自暴自棄になっていた。
一人でいる俺に気づいた女が『城島』に声をかけるが反応はない。愛想のない『城島』を訝し気な目で見た後は、つまらなさそうにこの場を去った。
昼休み、名前も覚えてない後輩の女が『城島』にお弁当を差し出すが軽く突っぱねる。女は強張った顔で『城島』を見ると、そそくさとその場を去った。
制限時間のことは念頭にあるものの、もはやどう行動すべきか、自分でもわからなくなっていた。
破損しかかった『城島』の仮面を脱いだ俺は、小さく溜息を吐いて手に持ったペットボトルに口を付ける。
また誰かが近づいてくるな、と顔を上げると桃山だった。
「なあに?そんなに慌てて」
俺はできうる限りの笑顔で対応する。
「何してるの」
「何してるとは?」俺は素朴に問う。
「今は、お昼ご飯を食べる時間」
桃山は小学生を相手にするように説明する。
「俺、いつもお昼は食べないんだよ」
「今日は、午後から三十六度になる。だから少しでも胃に入れて」
「そう言われてもさ、俺、お昼持参してないし。今から買いに行ってたら間に合わなくなっちゃうよ」
「うちの店のパンがある」
強い視線で俺を見る。その目には俺への心配が窺えたので、小さく息を吐く。
「……そんなに俺のことが、気になるの?」
悔しさからも、揶揄うように口にした。
「気になるよ」
桃山は、迷うことなく口にする。俺は静かに首を振る。
あぁもう、どうにでもなってしまえ。
「わかったよ。ごちそうになるね」
そう呟くと、壁から身体を起こして三年A組の集まる場所へと足を進めた。
***
着替えを済ますと、応援席へと向かう。
桃山の言った通りに、今日はかなり日差しが強い。衣装が黒いだけさらに熱を吸収していた。
遅れて女子たちも応援席へと現れる。普段以上に気合の入ったメイクに屋外ということで、より一層肌が白く見える。今日が最後だからか、クラスメイトも隠すことなく視線を送り、目に焼き付けている。
俺は首を掻いて視線を逸らすと、対抗するように『城島』の仮面を被って同じクラスの適当な女の元へと寄った。
応援合戦が開始される。
欠かさずに練習に参加させられたことで、頭は回らずとも身体が勝手に動いていた。
女子サイドで舞う桃山を一瞥する。
今まで見た中で一番輝いて見えた。それは本番だからか、俺の彼女に対する感情の変化から生まれたものかの判別はつかない。
見てはいけないとわかりつつも、意に反して目で追っている。どうせあと数時間後には消えてしまうのに、自分では歯止めが効かなかった。
赤組の出番を終えると、みんなが応援席に戻る中、適当な理由を告げて先に更衣室へと向かう。
着替えを済ますと、知人に悟られぬよう気を払いながら、グラウンド近くの森へと足を踏み入れた。この場所まで演舞の曲や声が響き渡り、無意識に耳を傾けていた。
感情に振り回されてゲームオーバーになるほど頭は湧いてない。
もはや馴染みとなったベンチに腰かけると、今後の動きについて思索にふける。
今は午後一時半。ゲーム終了まであと二時間半だ。
対象は、桃山以外なら誰だっていい。
彼女はダメだ。それこそ高難易度を攻略する感覚で目をつけたものの、はっきり好意を自覚した今では、キスという行為が「忘れたくない思い出」になってしまう。
何よりこんなクソみたいなゲームのカウント稼ぎで、彼女に触れたくなかった。
女なら誰だっていい。最悪強行じみた行為になったところで、どうせすぐ俺も相手も忘れてしまう。
そこで、はっと気づく。
記憶が消えるのは、俺だけでなく『城島』と関わった全ての人間が対象になるのだろう。
だったら
「彼女の中から、『俺』も消えてしまうのか……」
自分が忘れる痛みなら、まだ我慢できる。
ただ、『俺』を見てくれた彼女の中からも記憶が消える、という事実には耐えられなかった。
俺は立ち上がると、まっすぐ理事長室へと向かった。
理事長室をノックするが、応答がない。
ドアノブを捻ると、鍵は開いているが彼の姿が見られない。自分の学校だからと無防備すぎないか。
俺は室内に入ると、窓辺のラジカセが置いてある周辺を漁る。
目的の品を手に取ると、颯爽と理事長室を後にする。
「青いねぇ……」
俺は手に持ったCDのジャケットに目を落としながら苦笑する。日付は正しく、俺が中一の頃を指している。収録されてる楽曲も、今では息をするように馴染みのものとなった曲ばかりだ。
乱暴に引き抜いて近くにあったゴミ箱に投げ捨てると、足早にグラウンドへと戻った。
***
グラウンドに戻ると、すでに応援合戦は済んだようで、みんな気の抜けた顔で団体競技を眺めていた。
俺は応援席には戻らずに、再び近くの木陰に背を預けて、手に持ったCDに目を落とす。
後先考えずに行動してたので、どのように渡すか全く考えていなかった。
「本当、俺らしくないよねぇ」
もはやここまで来ると、爽快ですらある。
忘れるとはいえ、「等身大の高校生活」という青い経験は確かに得ることができたんだな。
俺は静かに息を吐いて顔を上げた。
桃山がタオルを握って、体育館横の水道へと向かう姿が目に入る。今日の彼女は普段と違ってかなり濃い化粧が施され、さらに炎天下の中だ。むず痒くて落としに向かったとはわかる。
ちょうど一人だ。俺は木から背を起こして、体育館へと足を踏み出す。
だが、そこで思わぬことが起きる。
鏡に向き直った桃山の元に、複数の私服姿の男が近づく。出で立ちからも、恐らくこの高校のOBなのだろうと見て取れる。
彼らは、下心を隠すことなく彼女の全身を舐めるように見始める。彼女は怖気ついて後退りしている。
その瞬間、即座に身体が動いた。
足早に体育館横の水道付近まで近づくと、男の一人が俺の存在に気づく。邪魔者が来た、という嫌悪感が滲んでいた。
桃山を一瞥すると、強張った顔をしている。
俺の中で何かが切れた。
「――――明日香ちゃん。用具の片づけ出来てなかったよ。ほら、団長が怒ってるから、早く行こう?」
俺は目を細めて、桃山を落ち着かせるように声をかける。
彼女は頭がついていけてないのかしばらく静止するが、やがて俺の発言に便乗するように無言で頷いた。
俺は、OBらに顔を向ける。
「あ、彼女に何か用事があるのでしたら、今のうちに」
俺は『白金』の仮面を被ると、にこやかに対応する。怒りで狂いそうになるものの、感情的になったら負けだ。
OBたちは顔を引き攣らせると、やりずらそうにこの場を去った。
「ありがとう」
桃山の呟きが聞こえて、正気に戻る。
「ほら、言ったでしょ。無防備だと、俺みたいな奴に引っかかるって」
俺は『城島』の仮面を着用すると、彼女に顔を向ける。
「あなたは、彼らとは同類じゃないわ」
桃山は、はっきりと俺を見て言った。
俺は僅かに口角を上げると、背筋を伸ばして彼女に向き直る。
「明日香ちゃん、少し話したいことがあるからさ、ちょっとついてきてくれない?」
体育館裏を指差して提案する。桃山は首を傾げながらも、無言でこくりと頷いた。
そのまま俺らは、体育館裏へと足を進めた。
***
体育館裏に向かう中、何気なくスマホで時間を確認する。
現在は二時四十五分、制限時間まであと一時間弱だ。
適度に人気がないと確認すると、黙ったまま俺の背についてきた桃山に振り返る。いつもの澄ました顔だが、僅かに困惑と動揺が滲んでいた。
「……まだ怖い?」
俺は肩を竦めて声をかける。桃山は俯いて、小さく首を縦に振った。
「あんなこと、初めてだったから……」
「そうなの?」
素直に驚いたが、納得はできるなとすぐに同意した。
攻略対象を散々選別してきて気づいたことだ。例え美人だとしても、声がかけられるタイプと、かけられないタイプにわかれる。
彼女は後者だった為、俺の中で『高難易度』と認定されていたんだ。
だが彼女は、応援合戦を通じて周囲との隔たりを自ら崩した。今後、周囲の彼女に対する反応の変化は、嫌でもわかる。
彼女に聞こえないように、小さく舌を鳴らした。
「あの、話って……」
桃山は、おずおずと俺を見る。
「あぁそう。これなんだけど」
そう言って、先ほど理事長室から取ってきたCDを差し出す。ジャケットが抜かれて、透明のケースに入れられただけの殺風景なものに変わっていた。
桃山はCDを見て、俺を見て、首を傾げる。
「前に俺の演奏を聴いて、俺がそんなやつじゃないって言ってくれたでしょ。結構、嬉しかったんだよね。だからよかったらさ、思い出した時にでも聴いてよ」
目を細めて勧める。
桃山は無言でCDを受け取るものの、その顔が強張っていたので、首を傾げる。
「どうかした?」俺は素朴に問う。
「何か、別れの挨拶みたい……」
桃山は顔を伏せて呟く。俺は口を噤んで視線を逸らす。
失言した。確かに「思い出した時」だなんて言葉、別れの時以外にあまり使用しない。
「……俺が、どっかに行ったら嫌?」
あえて問いかける。解答を聞いて満足したかったのもある。
俺の言葉を聞いた桃山は、考え込むような表情を浮かべ、目を閉じて口を歪める。
「……嫌…………」
彼女は震える声で呟いた。
その一言が聞けただけでも、俺は満たされてしまった。
だが、結局彼女は、最後まで俺の予想を上回る行動に出る。
「……玲央………」
桃山のたどたどしい呟きが聞こえ、我に返る。
彼女の顔を見ると、今までとは種類の違う色がさしていて目を見張る。
「あの……私…………」
「待って!」
彼女の声を遮るように声が出る。桃山は目を丸くして俺を見た。
口にした本人である俺自身、動揺が隠せていなかった。
一瞬であるものの、感じ取れてしまった。
錯覚だと願いたい。嘘だと言ってほしい。
「……ごめん。それ以上、言わないでくれるかな…………」
俺は引き攣った顔で力なく笑う。桃山は強張った顔で俺を見る。
こんなこと、したい訳ない。
だけど、その言葉を聞いてしまったら、本当に最後なんだ。
「団長!衣装ってどこに片づければいいですか!?」
聞いたことのある声だな、と気づいた時には無意識に身体が動いていた。いたたまれなくなったせいでもある。
体育館端に行くと、風嶺が身を隠すようにしゃがんでいた。体勢からも、俺らの後をつけてたとはわかる。
彼女は俺らに気づくと、鬼に見つかったように顔が強張る。
怒りと焦りと悔しさと辛さで、感情が入り混じっていたのだろう。
「前も、お返しをもらいそびれたからね」
気づけば俺は、強引に風嶺の顎を引き寄せていた。
***
秋を知らせる冷たい風が吹く。頭上で掠める音が鳴り、風と共に色づいた葉が舞った。
グラウンドで整列される様子をしばし眺めた後、俺は紫野学園高校から立ち去った。
「あと、四十分か……」
スマホで時間を確認しながら、足早に駅へと向かう。
途中、店で衣服を購入し、トイレ内で着替えて体操着を捨てる。コインロッカー内に保管していた相棒を手に取ると、颯爽と改札を抜けて特急電車に乗車した。
地元に辿り着くのは、午後三時四十五分。駅前のカラオケで時間を迎えよう、と行動を整理したところで、座席に背を預けた。
無事、制限時間内にクリアラインは達成し、例の子どもが現れて「ゲームクリア」と知らされた。
だが、達成感や解放感といったものは感じずに、言葉では明確にできない複雑な感情が襲い、本当にクリアしてよかったのかと葛藤に苛まれていた。
あの女が追い打ちをかけたせいでもある。
――――本当は桃山さんのこと、好きなんでしょ?
自覚はしていたが、彼女にも悟られるほど自分の気づかぬ間に行動に現れてしまってたんだ。
理に敵わない感情の処理の仕方なんてものは、俺にわかるわけがない。
今さら悔やんだところで、すでにゲームはクリアした。それに、ゲームオーバーになるわけにもいかない。この結果しか道はなかったんだ。
元々このゲームは、娯楽向けのゲームではなく「罰ゲーム」。素直に罰を攻略すればいいものの、軽い気持ちで楽しもうと舐めたのが駄目だった。
頬杖をついて、窓から流れゆく景色を茫然と眺める。
もうすぐ『城島』は消えるが、消えるのは記憶だけだ。痕跡はできうる限りは残さないようにした。
宿にしていたホテルの後始末も終え、制服などの衣服や生活品も処分済み。写真や映像といったメディアにも、極力顔は写らないようにしていた。
懸念事項は、応援合戦前に撮った写真と、保護者応援席の前方にいた全身青系統に固めた主婦の回してたカメラ映像。あとは、理事長室のCDを勝手に持ち出したことくらいか。
唯一、『城島』の記憶が残るであろう風嶺が下手なことを言わない限りは、特に大きな問題もないはずだ。
「あとは……そう、記憶が消えた後の俺に対して、説明書も必要、だね」
窓に映った、色が抜けてほぼ金髪となった自分の頭髪を見て苦笑する。
準備していたノートと油性ペンを手に取り、表紙に「目が覚めたら一番に見ること」と大きく記載すると、ボールペンに握り直してページを捲る。
まずは、このノートの用途。
ゲーム内容については触れられない。だからそれ以外のもので、状況を説明するしかない。
転校した事実が全て消えている中で、どれだけこのノートの内容を信用できるのだろうか。
記憶の消えた後の俺に賭けるしかないが、自分の字だと判別できると、少なくとも俺は信じるはずだ。
俺はノートに、「ここに記載されている内容は、もし何か問題があった時に利用できる口実や弁解のネタ」と筆を走らせる。
次に、ゲームプレイ中の二ヶ月間の行方。
俺は「ゲームの為に」紫野学園高校に目をつけた。家族や知人、理事長に吐いた嘘も、恐らく消えることになる。
つまりこの二ヶ月間、俺が何をしていたのか家族や友人、そして俺自身も判明できないだろう。
俺はしばし思案に暮れると、「七月十日~九月十日は、楽曲制作の為に地元を離れていた。テストはすでに受け終え、進路も固まっている為、多少の自由が許された」と記載する。
あとは、頭髪だ。さすがにこの短時間で戻すことは不可能だ。
今までこんなに目立つ髪色にした経験がなかった為、鏡を見た際に驚愕する未来は見えている。
逡巡した後、「楽曲制作のネタとして経験を得るために、正体を隠す必要があった」と記載し、「すでに目的は達成した。問題があればすぐに戻すこと」と付け加える。
他にも、この二ヶ月で利用した金の行方など思いつく限りの懸念事項についての説明を詳細に記す。
一通り書き終えると、現在の日時を記入し、カメラで撮影して写真に残す。
最後に、『紫野学園高校』『城島』と書き込む。
これらはゲームに関わる為、詳細に説明はできない。だが、単語のみならばゲームに関わりはしないので、消されることもないはずだ。
もしも何かあった時の為に、頭の隅にあった方が状況も読めやすい。
そこで、しばし思案に暮れた後、ある言葉も記入する。
その隣には、「万が一、この名前の子が俺の元に訪れたら、歓迎するように」と付け加えた。
地元に辿り着くと、まっすぐカラオケ店に入店する。夕方だからか、入室するのに少しだけ時間がかかったが、何とか四時までには受付が完了した。
無事、説明書代わりのノートも完成し、できうる対処は全て行った。
残すは、時間が経過するだけだ。
適当にドリンクバーからドリンクを取り、カラオケの個室に入室した瞬間、指輪が光り出し、例の子どもが宙に映し出される。
「さすが玲央さん。後始末も完璧ですね」子どもは淡々と褒める。
「俺が一人になるタイミングを狙ってたの?」
「そういうわけでもありませんが」
俺は室内のソファに腰かけると、子どもは「おっ」と声を上げる。
「時間ですね。それでは今から『償い』を開始します」
子どもは、事務連絡のように説明を始める。
「具体的に説明をしますね。今からあなたたちには、指輪を外してもらいます」
「あなたたちって?」
「現在、寧々さんにも同時に指輪を外す説明がされてます」
「さいですか」俺は目を丸くする。
「外されると、消える記憶が脳内を駆け巡ります。走馬灯のようなものでしょうか。その中で『罰』が与えられます」
「本来は、このタイミングで記憶が消える恐怖を知るってわけね」
「そうですね。裏切り者自身が、消えるという行為を自覚していないと『罰』にはなりませんから」
相手のリズムに乗りたくなくて、あえて邪魔するように言葉を投げかけるが、子どもは平然と答える。
「『罰』を終えた後、しばらくすると脳が安定し、寧々さんとの関係は、指輪をはめる以前のものに戻ります。これにて、『償い』も『ゲーム』も完全に終了となります」
俺は顎に手を当てる。
そうか。指輪をはめる以前の関係に戻る、ということは、また俺は寧々と交際している関係に戻る訳だ。
この辺りは、今後の俺がどう行動するかに任せるしかない。
「記憶が消えた後の対処はお任せください。円滑に運ぶために、私たちが尽力いたしますので」子どもは安心させるように笑顔で言う。
「俺、この部屋一時間でしか借りてないんだけど、その辺りも平気?」
「あなたは、現実的な方ですね」
「今さら、それを言うのかい?」俺は肩を竦める。
「そうですね。私は、外で倒れた方のスマホから両親に連絡を送ったり、救急車を呼ぶ途中に記憶を失った方の代わりに応答した経験もありますね」
「さすが、先進国」俺は皮肉を口にする。
「今の時代はデジタルです」子どもは冗談の判別のつかないトーンで答える。
俺は、机に先ほど作成した説明書ノートを広げると、最後に記載した文字を見つめて目を細める。
俺の行動に気づいた子どもは、ふむ、と腕を組み、俺に向き直る。
「本当に良いのですか?」
「良い、とは?」
「あなたは、このゲームの真意にすでに気づいてるはずです。ですが、このような行為は、自分自身で心の傷を抉ることになるものです」
子どもは素直に状況を説明する。俺は小さく息を吐くと、力なく笑う。
「そんなことはわかってるよ。でもさ、歯止めが聞かないものでしょ。恋愛ってものはさ」
「恋は盲目、なんて言葉も存在しますからね」子どもは噛み締めるように頷く。
ゲームを探ってると宣言した風嶺に、少しだけ期待している自分がいた。
彼女は、一度記憶を消されたが、突然蘇ったと告白した。その言葉を聞いて、ふと思ったことがある。
もしも、記憶が消えるのではなく、思い出せなくなるだけならば。何かの反動で、思い出せることがあるのならば。
確かに、胸に空いた穴をさらに抉る行為にはなるが、一縷の望みを抱き、このような行動に出たんだ。
「耐えてみせるよ。知ってるでしょ。俺がどれだけこのゲームを攻略してきたのか」
俺は手を伸ばして愛しい文字に触れる。
「記憶のひとつくらい、意地でも覚えててやるさ」
最後にもう一度、ノートに記載した『桃山 明日香』という文字を名残惜しく見つめると、右手につけたミサンガに軽く触れ、静かに指輪を外した。
part3:Presto 完