昨晩は妙な夢を見なかったことから気分が良い。莉世にとって一日のモチベーションは、ほぼ朝で決まると言っても過言ではなかった。
難なく学校まで辿り着く。すっかり入学式の空気は消え、古びた木造建築の公立学校となっていた。さっそく授業も昼過ぎまで詰まっている。
教室前に辿り着くと中から活発な声が聞こえた。窓から様子を窺うと、予想通り東だった。来たばかりなのか帽子も学生マントも着用したままだ。帽子からのぞく毛先も活発に跳ねている。
教室中央、莉世の机に座り、後ろ座席の西久保と言い合いをしている。世話しなく両手を動かしていた。
物音を立てぬよう扉を開けるが、野生の勘ごとく東は莉世に反応する。
「お、南の南雲、来たな。おっす!」
東は、眩しそうな笑顔でよっと敬礼のように手を掲げる。莉世は微妙な顔つきになる。
「南の南雲って……」
「俺は東の東に、こいつは西の西久保、だからおまえは、南の南雲だ」
「は、はぁ……」
「意味わかんないし」
莉世の気持ちを代弁するように西久保は言うと「朝からキーキーうるさいよね。猿山に帰ってくれないかな」と耳を塞いで言う。
呆れる西久保に、東は険しい顔を向ける。
「元々人間、猿だったんだぞ。おまえも元は猿なんだ」
「いつの時代の話してんのよ」
西久保と東は、にらみ合う。昨日の今日でありながらもすっかり見慣れた光景だ。
莉世は、東の座る自分の席をじっと見る。彼がいると席につけない。だが口にする勇気もなかった。
視線に気付いた東は、悪びれることもなくヒョイッと机から飛び降りる。莉世は少し安堵しながら席に鞄を置く。教科書を片している時にふと思い出す。
「そういえば、北の北条、さんは……」
「あぁ、あいつだな」
東は、窓から外を眺める少年を指差す。昨日、莉世よりも早くに教室に辿り着いていた無口な少年だ。
「昨日もずっと外、見てたよな。全然喋らねぇし、何か話しかけ辛いっつーか」
「一緒の学校じゃなかったんだ」
「北鼠じゃねぇよ」東は、顎に手を当てる。
「南鼠でもなかったね」西久保は同意するように頷く。
「そう言えばグルチャ、彼もいたよね。誰が招待したんだろう」あたしが作ったんだけど、と両手を広げる。
「ま、参加してるってことは、ノリが悪い奴ではないんだろ」東は、あっさり結論を出すと、あっと莉世に振り向き指をさす。莉世は肩を飛び上がらせる。
「そうだそうだ。南の南雲、おまえ今日暇か?」
「今日?」唐突な質問にキョトンとする。
「猿が噂、確かめようとしてるらしい」
西久保は呆れながら頭を振ると、「だって『神隠し』って、おもしろそうじゃね?」と東は嬉々として言う。
「え、えっと……噂って、あの石が割れて怪異が増えたってやつ……?」
莉世は恐る恐る確認する。西久保は頷く。
「『四時四十四分に、神社奥にある山頂に続く別れ道に入ると神隠しに遭う』っていう噂があるんだけど、猿がそれを確かめに行くらしい」
「神隠しって異世界に飛ばされるんだろ? 本当だったらそれはそれでおもしろいじゃねぇか」
「うんうん、おもしろいおもしろい。猿が戻って来れなくなったら万々歳」
西久保は肩をすくめながら同意する。彼女の言葉に、東は「何言ってるんだ」と首を傾げる。
「他人事じゃねぇだろ。おまえも行くんだからよ」
「は? 何勝手に決めてんのよ」
西久保は表情を一変させて東に向かう。
「おまえが言い始めたことじゃねぇか。まさかおまえ、自分が行くのが恐いからって、人任せにしようとしてんのか?」
「ちっ違うし! あたしはそういう噂があるって話をしただけで……」
「あ〜絶対嘘だ〜本当は恐くてビビってるだけなんだ〜」
「ばっかにしないでよ。そもそも神隠しなんてあるわけないでしょ」
「じゃ、おまえも当然行くんだろ」
「も、もちろんよ」
「ま、待って」
思わず会話に割り入る。勢いで妙な方向に進んでいることに、内心ハラハラした。
「あ、危ないよ……」
「でもさ、噂はちょっと気にならない?」
西久保は、照れ臭そうに言う。
「せっかく転校してきたんだからよ。この街を知るためにもおまえも参加な。いわばこれは、藍河区に来た人間への洗礼だ」東は、無茶苦茶な理屈を言う。莉世は口を開けたまま固まる。
幽霊は信じていない。ただの空想の存在だ。だから何事も起こるはずがないと思っているのに。
だけど、どうしてか、理由は明確ではないが、行ったら何かが起こるような直感が働いていた。
そんな抽象的なことを彼らにどう伝えたらいいのかわからない。ただの勘だ。でもこれだけはわかる。
確実に何かが起こるはずだ。
その言葉を口にする勇気が出なかった。
「やめとくんだ」
唐突に、刺さるほど冷たい声が届く。一瞬自分が言ったのかというほどに警戒心の孕んだ言葉だった。
顔を上げると、厳しい顔をした北条が立っていた。
「ほ、北条?」西久保は、首を傾げて呟く。
「興味本位で怪異に近づくんじゃない。巻き込まれでもしたらどうするつもりだ」
北条は、厳しい顔で忠告する。
「はぁ、おまえ、幽霊とか信じるタイプなのか」東は、馬鹿にするように反応する。
「北条、意外と怖がりだったりする?」西久保は、揶揄うように問う。
そんな二人に呆れたのか、北条は小さく溜息を吐く。
「僕は忠告したからな」
そう言うと、北条は踵を返して自分の席へ戻った。
三人は、唖然としていた。
「何あいつ。感じ悪……」西久保は、頬を強張らせる。
「前言撤回だな。あいつはノリが悪い」東も頷いて同調する。
「ちょっと、二人とも……」
そこそこ大きい声で言うのでハラハラした。しかし、依然として二人の態度は変わらない。
「むしろ、あぁ言われたら逆に気になるっていうか」
「こうなりゃ行くっきゃないね。ね、莉世ちゃんも行くでしょ」
西久保は、莉世を見る。その目には、有無を言わせない力強さがあった。莉世は、何も答えられなかった。
キーンコーンカーンコーンとベルが鳴り、担任が教室ドアを開く。東は廊下側の自席へと戻る。莉世もそのタイミングで前を向いた。
窓側席を窺う。今まで無口を貫いていた北条が、何故自分たちに忠告したのか気になった。祖母にも興味本位で近づくなと言われた。何より莉世自身、乗り気ではなかった。
だが、はっきり断れる勇気も持ち合わせていない。先ほどの二人の態度からも東と西久保は、このクラスのカースト上位に位置するはずだ。そんな二人にただの直感で断り、嫌われて孤立はしたくない。
ただでさえ見知らぬ地であるだけ一人は不安なんだ。
莉世は、胸元のネックレスをぎゅっと握りしめた。
☆☆☆