一人で訪れるのは初めてなので、少し緊張した。おそるおそる扉を開け、本が積まれている場所に目を向ける。来るたびに量が増している気がするな。
しかし、いつもの場所にガラクの姿は見られなかった。
「あれ?ガラク?」
驚いて館内を見回す。図書館以外にガラクが行くような場所が思い当たらなかったが、すぐに奥の棚から「何だ」と返答があった。
声のした方へ顔を向けると、きれいな白髪をしたガラクがいた。奥の棚から取ってきたであろう分厚い本を手に持っている。ただ歩いてるだけなのに改めてスタイルがいいなと実感させられた。
「要件は何だ」
茫然と見惚れていた私を促すようにガラクは問う。ハッと我に返り、小さく頭を振って脳内を切り替える。
「あぁ……えっと、隣のアパートのことなんだけど、少し気になることがあって……」
「気になること?」
ガラクは藪から棒にと、何のことか見当がついていなさそうな反応をする。とぼけている様子もない。屋上のことは何も知らなさそうだ。
少し期待していただけに、小さく肩を落とす。
「あのアパート、屋上があるんだけど、その前に立入禁止を示すカーテンがかかっていてさ。でも私、前にメイがそこの扉を開ける音を聞いているんだよね」
ガラクは黙ったまま耳を傾けている。私も一旦、見たもの全てを話そうと言葉を続ける。
「階段に血痕のような跡もあった。それに、以前からあのアパート、人の気配がするの。誰かがいるようなそんな……。でも、メイはあのアパートは、誰もいないって言っていたんだよね」
「……なるほど」
そう言うと、腕を組んで思案に暮れるガラク。沈黙の深さからも、ただ現状を推理しているのではなく、ガラク自身が以前から引っかかっていた点を私の話と照らし合わせているように感じられた。
彼の反応からも、ガラクもメイにどこか違和感を感じていたのかもしれない。
「何か、思い当たることがあるの?」
「いや……アパートについてはわからんが、メイについては前から少し気になることはあった」
そう言うとガラクは、手に持っていた本を積まれた本の山の上に置いて、近くの椅子に座った。緊張が走り、自然と背筋が伸びる。
「メイは以前から、表の人間をわざわざオレのところまで紹介しに来た。必要ないと言っても聞かないから途中からは好きにさせていたが」
確かに私も裏街道に来た際、初めにガラクの元に訪れていた。よほどメイにとってガラクは信頼できる人物なのだろう。それも元芸能人。大々的に言えないにしても、自慢したくなる気持ちはわからなくもない。
「しかし、それも数日経つとそいつらを見なくなる。メイに聞いても『知らない』としか答えない。オレも干渉する気はなかったから、それ以上詮索することはなかったが……あまりにも唐突に姿を見なくなる」
あのアパートは、生活に必要なものは全て備えられていた。「いつ誰が来てもいいように」とメイ自身が言っていた。だから連れて来られた人たちはおのずとあのアパートに居住することになっていたのだろう。ガラクも時々、あのアパートの風呂を利用しているから、確かに行方が気になることもあるはずだ。
でも、ガラクが気になっているのは、そこじゃない。恐らく連れて来られた人たちの行方が掴めなくなった、根本の原因。
「そいつらが消えたのは、メイと何かあったからではないかと思っているんだ」
メイ自身が表から連れて来た人たち。それなのにメイと何か問題があって行方がわからなくなった。
それに、さっきガラクは気になることを言った。
私が以前、トンネル内でメイに行方を訪ねた時は、「裏街道にいる」と言っていた。しかし、ガラクが同じ質問をした時は、「知らない」と答えている。この違いは一体何なのか。
だがガラクは、その原因も察している様子で言葉を続けた。
「メイは極度の寂しがり屋だ。そして、裏街道に依存している。もしかしたら、そいつらが『表に帰りたい』といったような言葉を吐いたのかもしれん」
それは私も懸念していた点だ。最近のメイの態度を見てもわかる。そんなことを口にしたら、どんな反応が返ってくるのか――――。
「だから――――表に帰れないようなことになっているとか」
垣間見る闇のような表情。
メイから貰ったブローチに付着していた血。
某裸の人を目の前にした時のメイの反応。
階段の血痕。
そして今まで感じていた、アパートの人気。
「……実は、さっきまでメイと公園で遊んでいたの。そしたらまた、充電が切れたように眠り始めてさ。多分、まだしばらくは寝ているんじゃないかな」
ガラクは黙ったままだが、私が何を言おうとしているのか察しているようだ。
「ねぇ、ガラク。よければ一緒に屋上まで来てくれない?」
おそるおそる尋ねたが、ガラクは当然のように「あぁ」と即答した。
図書館を出てアパートへと向かう。
玄関入ってすぐ隣、メイの部屋の前で無意識に足が止まった。茫然と扉を眺めて、中で眠っているであろうメイを脳裏に描く。
行方のわからなくなった表の人間。その原因は本当にメイなのだろうか。眩しいほどにあどけない笑顔のメイを思い出す。
疑いたくない。ただ得た情報からも関係ないと思うことの方が難しい。
不意に立ち止まった私に気を遣ってくれたのか。ガラクは私に顔を寄せる。
「さっき寝たと言っていたな。メイは一度寝るとしばらくは起きないから安心しろ」
体感は当てにならない。それに想像よりも裏街道の時の流れは速いように感じている。
そう思った時に、スマホの存在を思い出した。時間を知る術は持っていた。
「ちょっと待ってて」
二階の階段を上がると、ガラクにそう声をかけて部屋に入る。床に放り出されているスマホを手に取り、ガラクの元へと戻った。
「実は、表に帰った時にスマホも持ってきてさ」
電源をつけると「二○一九年八月二十日十四時五十六分」と表示された。一時間前に眠りについたと考えて、一日の半分は寝ていないとだめならば、少なくとも二十一日までは起きないのではないか。ただ、今までも不意に起きることがあったから、本当に目安にしかならないが。
視線を感じたので顔を上げる。ガラクが私の持つスマホを物珍しそうに見ていた。
「ガラク?」
「今はそんなものが普及しているのか」
ガラクは感心するように頷いた。意外な反応に目を丸くする。
「ガラクがいた頃にはなかったの?」
「携帯はあったが、二つ折のものが主流だった」
そう言ってガラクは手をパカパカ動かした。ガラケーと呼ばれているものだろうか。ショッピングモールの電化製品売り場で見たものを思い出すが、今ではほとんど利用している人は見ない。
私は複雑な気持ちになった。外見から想像できる年齢は、私と同じか少し上くらいに見えるが、もしかしたらガラクも結構年上なのかもしれない。
今見ている現実が混乱しそうになるが、あくまで平静を装って、スマホをポケットにしまう。
屋上まで上がると一気に緊張が高まった。先ほどと変わらずに、立入禁止を示すカーテンが垂れている。
「これか」
ガラクはそう呟くと、躊躇いもなくカーテンをめくった。
「ガラク!?」
カーテンの奥には予想通り扉があった。屋上の扉であるのには間違いない。
突如、私の足は硬直する。本能から拒絶反応をしている。一見、普通の扉なのに、どこか異様な空気が立ち込めている。裏街道の住民のように、他人が簡単に踏み込めない結界が張られているように感じた。
私が立ち尽くしていると、黙って思案していたガラクが口を開いた。
「階段に血痕があったと言っていたな」
「え?」
「多分、原因はここだろうな」
そう言ってガラクは扉に近づいた。ガラクの目線を追うと、扉に向けられていた。よく見ると赤黒い汚れがついている。
あ、と気づいた時にはガラクは動いていた。
「僅かだが、匂いがする」
ガラクは何の躊躇いもなく扉に顔を近づけた。花の匂いを嗅ぐような軽い行動に、私は目を白黒させた。
彼には驚くといった感情は持ち合わせていないのだろうか。こんな現状を目撃してもなお、動じてる様子がない。演技だとしたら相当な実力だろう。
ガラクはそのまま扉を開けた。反射的に手で目を覆う。何も言わないガラクが気になり、指の隙間から様子を窺った。
目前に広がる光景に、さすがのガラクにも動揺が生じたようだ。
人形だろうか。
屋上には、数人の人形のようなものが椅子に座らされていた。目は閉じており、どれも澄ました顔をしている。ここからは特に傷なども見られず、きれいな状態だ。
ガラクの背後から、扉の向こうの景色を伺っていた。血痕や警告カーテンからも、凄惨な光景が広がっているものだと思っていたので、今見ている光景に茫然としてしまう。
しかし、どうしていまだ心臓は鳴っているのか。人形にしてはあまりにも精巧な作りに見える。
何より気になるのは、今まで感じていた気配と目の前のそれが一致したことだ。
ガラクは扉を開けてから微動だにしない。とにかくもっと近くで確認しないことには判断できない。
扉から身体を乗り出そうとするが、ガラクの腕によって制された。
「あれは……人形じゃない」
ガラクは前方を見据えたまま静かに言った。その言葉が何を意味するか、すぐには理解できなかった。
「で、でも、どういうこと?だって動かないよね……」
「正確には、動けない、ようだ」
ガラクは周囲を見回す。何か発見したのか、屋上に足をつけ、私が外に出る前に扉を閉めた。
「ガラク?」
扉を開けようとするがびくともしない。扉の向こうに何かつっかえているようだ。
「そこで待ってろ」
そう言い残して、ガラクは扉の前から離れた。私は目を落とし、唇を結んだ。
もうわかっていた。ガラクの言葉の意味も、ここまで配慮をしてくれた意味も。
先ほど見たものは、人間ではないのか。だが、とても息をしているようには見えなかった。
人形のようにきれいに佇んでいたことに驚いたが、変化がない裏街道の性質を考えたら納得がいく。例え息絶えたとしても腐敗することはないからだ。そのことにいち早く気づいたガラクが、詳細に見させない為にこのような配慮をしてくれたのだろう。
どうして死体があるのか。メイはここで何をしていたのか。次々と疑問が膨れ上がるが、メイの本心が見えないので割ることができない。
扉の向こうから足音が聞こえてきたので我に返る。扉を開けたガラクは相変わらず冷静だが、考え込むような顔をしている。
「ど、どうだったの……?」
「立ち話もなんだ。おまえの部屋ででも話そう」
ガラクはそう言うと、階段を下り始める。
「部屋はどこだったか?」
「えっと、二○一だよ」
頭がいっぱいだった。一体ガラクは屋上で何を見たというのか。
お茶でも出した方がいいかと考えたが、そういった気の利いたものは置いていない。むしろ、今まで食事をしていなかったことに今更気づいた。
食事の必要がない裏街道。慣れって怖いものだ。
「気を遣う必要はない。話せばすぐ出ていく」
リビングからそう聞こえたので、手ぶらでガラクの元へ戻る。
ガラクは当然のようにソファに座っていた。
この部屋には一人がけのソファひとつしか置いていないので、私の座る場所は自然とふとんの上か床だけとなった。
気を遣うのはむしろそっちだ。よくもまぁ人様の部屋で、率先してソファに座れるものだ。
釈然としないまま片隅に畳んでいるふとんの上に腰を下ろす。ガラクはそんな私には一ミリも気を留める様子はない。
「詳細は後だ。まずは屋上の現状を説明するぞ」
ガラクは背もたれに預けていた身体を起こして私に向き直る。
「まず、座っていたあいつらは、表から連れて来られた人間に違いない」
「というのは」
「メイがオレの元に紹介に来た際、顔を合わせたのは一瞬だ。だから顔は覚えていないから、メイが連れて来たという確証は持てん。別の誰かかもしれん。だが、表から来てまだ日が浅いことには違いない」
「何でそんなことがわかるの?」
「目が白かった」
ハッキリと言った。ということは、ガラクはあの死体に触れたのか?
「あと、察しているだろうが、もう息はしていなかった。しかしきれいに椅子に座らされていただろう。まぁ、簡単に言えば、物理的に固定されていた。そして固定するのに使用されていたものが、ハサミだった」
具体的にどのように固定されていたかを手を用いて示すガラク。あまりにも淡々と説明するものだから、脳が現実だと受け入れてなかった。しかし、もしあの時近寄って直接見ていたら、トラウマになっていたに違いない。今更になってガラクの配慮に感謝した。
そこで、ハッと思い出す。
「そういえば前に、メイはハサミを持っていた……」
「あぁ。オレも見たことがある。だから屋上のアレは、メイがやったに違いない」
点と点が繋がっていく。そのおかげでやはり現実を知ることになってしまった。
「でも……何でメイはそんなことしたの?だって、メイが連れて来たんでしょ?」
現実を受け入れたくなくて、縋るような気持ちでガラクに問いかける。
ガラクは手を顎に添えて、「これはさっきも少し触れたことだが……」と前置きして言葉を続ける。
「メイは異常なまでに裏街道に執着している。しかし逆に言えば、それだけ表の世界が嫌い、という風にも捉えられる」
今までのメイの態度からも裏街道の執着は見て取れた。ガラクの言う通り、裏を返せばそれだけ表の世界が嫌い、というようにも考えられる。
「メイは一人を嫌う。だからいつも誰かと一緒にいたがる。だが、己の意志で裏街道の扉を開けた奴は基本的にダメだ。前にも言ったが、ここの奴らは他人に干渉しない。自分の都合のいいことしか見えてない。だからこそ、まだ扉の開かれる前の表の人間を連れて来ていたんだろう」
「待って。そもそも扉が開かれるってどういうこと?」
その言葉を聞いたガラクは、そういえばそうだったと気を緩めた。
「そうか。おまえもメイに連れて来られた人間だったな」
首を掻きながら思案している。何から説明しようか、といった様子だ。
「表の世界にいる時に、受け入れ難い現実に直面して、強い逃避願望が生まれると視界が暗くなる。言葉のままに何も見えなくなるんだ。つまり、その時点で目が黒くなる」
「だから、裏街道にいる目が白い人間は、誰かに連れて来られたって言えるんだ」
「あぁ。自らの意志で裏街道に来た人間は、元から目が黒い」
先ほど目が白いという点だけで連れて来られた人間だと断言していたガラクの発言を思い出していた。
ガラクは、神妙な面持ちになった。
「何も見えなくなったと思ったら、気づけば裏の世界に来ていた。だから、具体的にどうやってここに来たのかわからなかった」
「え?」
「だからこそ、表と行き来できる場所があることに驚いたんだ」