色が判別できるようになってから気づいたことは、この街の空は元から薄暗いということだ。
表で例えるならば、曇天。しかし雨が降る気配は今のところ感じず、また太陽が顔を覗かせることもない。
沈黙が続いた。ガラクは私の為に語りたくないだろう過去を教えてくれたのに、私は上手く返答することができなかった。
だが、ひとつ疑問が生じた。
「でも、それなのに、ガラクは表に帰ろうとしているの……?」
ようやく開いた口。先ほどのメイとのやりとりを思い出した。
「表に帰ることは、以前から考えていたことだ」
ガラクは顔を上げて言った。その目は真剣で、冗談を言っている様子もない。
メイの言葉を借りるわけではないが、裏街道は人との関わりがほとんど生まれず、生活に必要な品も大抵揃っていて何不自由ないはずだ。
ガラクの話した現実は、到底受け入れ難いものだ。だからこそ逃避願望が生まれ、裏街道へ来た。その感情も痛々しいほど感じられた。
それなのに、どうして再び表に帰ろうと思うのか。
「メイに文字を教えている時に、うっかりそれを匂わす発言をしてしまった。一番気をつけていたんだが、今考えるとメイが発言を誘発していたのかもしれない。文字を教えているのもその為かと気づき、部屋を飛び出したと思ったら遅かった」
「でも、どうして帰りたいって思うの?裏街道には表で嫌だなと思うことが何ひとつないんだよ?むしろ表に帰ったら、最悪また同じような目に遭うかもしれない。そんな現実から逃避したいと願っていたんでしょ。それなのにどうして……?」
私は考えていたことを全て吐き出した。ガラクは私の言葉を黙って受け止め、暫く思案して口を開いた。
「何もないからだよ」
後ろポケットに手をやり、一冊の本を取り出す。それは以前私が図書館で見かけた、著者の書かれていない「現実との向き合い方」とだけ書かれた本だった。
「これは……?」
「あの図書館に訪れた際に見つけたものだ。作者も書かれておらず、明らかに図書館の蔵書ではないから外部から持ち込まれた本だろうな。誰が書いたのかはわからんが、この本を読んだことによってもう一度表に帰る決心がついた」
その本を受け取り、パラパラとめくる。まんがの教本のような感じだ。理不尽な対応をされた時の受け流し方。面倒くさい上司との付き合い方。仕事の選び方。タイトル通りに現実社会との向き合い方が書かれていた。
「おまえも前に言っていたな。この世界に来てまで生きたいとは思えないと。裏街道は何不自由なく、逃避するには最適の世界だ。しかしそれと同時に、生きているのかがわからなくなった。そんなの死んだと同然だろ。確かにオレは現実からの逃避を望んだ。でもそれだけじゃない。オレは生きたいんだ。逃避はもう十分した。だからそれからは現実から目を逸らすことはしなかった。だが唯一、表に帰る方法を知らなかった」
そこで私を見る。
「だからこそ心底驚いた。おまえが表へ帰ったと言った時は。まさか表と簡単に行き来できる場所があるとは考えもしなかったからだ。だが一番の問題は目だ。オレは裏街道に来て長い。目はすでに死んでいる。だから、表で普通に生活するのはまず無理だ。しかし……」
そう言ってガラクは口角を上げた。その様子から見ても何か策があるのかもしれない。材料は全て揃ったといった感じだ。
ガラクは、以前から表に帰ることを検討していた。そう言われたら、彼の今までの行動や態度の変化にも納得できた。彼が裏街道では生きてる感じがしないと言ったのも、この世界に来てまで生きたいと思えなかった私も同意することだ。
だが、やはり先ほどガラクから語られた過去が重すぎて不安になってしまう。どうしてそのような過去を経験しながらも、再び表に帰ろうと思えるのか。
私は再度確認するように問う。
「以前と変わらない暴力や差別などがあるかもしれないし、それに視覚といった最大のハンディキャップを背負ってまで、表の世界に帰りたいの?」
「あぁ」
私の目を見て、ハッキリと答えた。
「オレは『生きたがり』だからな」
ガラクの目には、将来を見据えている輝きが秘められていた。暗闇の中でもなお未来を見る為に火をともそうとしている。その姿が私にはあまりにも眩しかった。
ガラクの顔が変わった。目を見開き、心底動揺している様子だ。驚くようなことを言ったのはそちらではないか。それなのに、何故ガラクが驚いているのか。
「どうして、泣いてるんだ……?」
そう言われて気がつく。
頬に伝う感触。一滴ぽたりと落ちて、服に波紋を広がせた。
私の目からは、無意識に涙が溢れていた。
「何で、私……」
止めようと思っても意志に反してボロボロと溢れてくる。必死に拭っても全く止まる気配がない。止め方がわからない。泣いた記憶なんてなかったからだ。
戸惑っていると、腕が伸びてきてその手が頬に触れた。
ガラクが私の涙を拭っていた。
「きれいだな。目が生きているからこその産物だ」
その言葉は憂いを含んでいた。目が死ぬと涙は流せないのかもしれない。
何故涙が流れたのか私にも不明だ。ただ、ガラクの生きたいと願う感情があまりにも強くて眩しくて、無意識に感情が動かされたのかもしれない。
ガラクの涙を拭う手に触れる。大きくて温かい手だ。その温もりによって、私は落ち着きを取り戻していた。
「ごめんね……手が濡れてしまって」
「構わん。久しぶりに珍しいものが見れた」
「その言い方、なんか嫌だ」
涙でぐちゃぐちゃになった顔でガラクを睨む。しかし、ガラクは表情を崩して笑った。その顔は、雑誌で見たもの以上に自然で柔らかいものだった。
恥ずかしくなって顔を逸らす。ガラクも手を元に戻した。
「しかし、今は二○一九年だと言ったな。オレが記憶にあるのは十七の頃…二○○八年だから、もう十一年も経っているんだな」
以前から表に帰ることを考えていた。だから今どれだけ時間が経っているのかが知りたかったのか。私が持参した本の奥付を確認していたのも今理解できた。
先ほどの会話からも、十七歳の時に裏街道に来たとはわかる。外見からも私と同じ高校生か少し上くらいだとは思っていた。
しかしそこで待てよ、と脳内に警鐘が鳴る。
スマホの時にも抱いた違和感。勝手に脳内で換算していた。もし表の世界で成長していたなら、――――今のガラクは、二十七歳か二十八歳になる。
頭を勢いよく振った。突然の奇怪な行動に、隣にいたガラクも目を丸くする。
現実は、あまりにも残酷だ。
「まぁ薬の効能に期待するしかないが、痛みが引いたら――――――」
「帰さないよ」
背後から聞こえたその声は、今まで聞いた中で一番冷ややかなものだった。
「メイ……いつの間に……」
「表に帰るからボクのことは知らないって?結局、裏街道でもボクのことは誰にも見られないんだね」
いつの間にか、公園の入り口に全身真っ赤に染まってるメイが立っていた。右手には大振りのハサミが握られている。
ゆっくりと私たちの元へ近づく。それと同時にギギギ…と、ハサミがアスファルトを引っ掻く乾いた金属音が響く。メイがこちらに近づく度に、地面に赤い足跡が増えた。
「ねぇどうして?ガラクだけはそんなこと言わないって思っていたのに。どうして表なんかに帰ろうとするんだよ」
顔を上げたメイは、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「どうして?どうして帰りたいなんて言うの?表なんて酷いことしかないじゃないか。ガラクだって、そんな現実に絶望したからこの世界に来たんじゃないの?」
縋るような顔だ。血に染まった外見が錯覚に映るほどに純粋な瞳だった。
そんなメイを前にガラクは目を瞑り、暫く思案した。
「確かに、裏街道では表みたいに逃避願望が生まれる事柄はない。だが、それ以外にも何もない。おまえも、この現実に退屈しているから一人でいるのを好まないのだろ」
「違う。ガラクも知ってるでしょ。ボクは一人が嫌いなんだ。だから裏街道では誰かと一緒にいたいってそれで……」
「でも、目の死んだ奴には構ってもらえないから目の生きた人間を連れて来ている。結局それは、表に縋っているのではないのか」
その言葉が気に障ったのか。きっと睨むような表情になり、ハサミをガラクに向ける。
私は慌ててメイに声をかけるが聞こえていないようだ。ガラクも特に取り乱している様子はない。一人だけ狼狽していることに何だかいたたまれなくなった。
「そんなんじゃない……みんな、どうしてわからないんだ…表は最低で最悪な場所じゃないか……ボクがいたころなんて、何もいいことなんてなかったんだ……大好きだった公園でさえ…最後は立入禁止になって…」
ハサミを持つ手は小刻みに震えていた。
「初めてだったんだ……ボクのことをちゃんと見てくれる人……ガラクに出会ってさ……ただでさえ、ここの住民は他人に関心をもたないのに……それでもボクの我儘を…ガラクは聞いてくれてさ…それなのに…」
そのままガラクの肩にうな垂れるように寄りかかった。
初めて二人を見た時から感じていたことだ。血縁関係には見えないが、それと同等の、あるいはそれ以上の繋がりがこの二人の間にはあるように感じていた。
どれだけの時間一緒にいたのか私にはわからない。しかし、メイにとったら貴重で重要で、唯一の存在だったに違いない。
小さく震えるメイの背中を擦るガラクの表情は変わらない。
「おまえと一緒にいたからこそ、中々言い出せなかったんだ。おまえの表を憎む心や感情を知っていたからこそ……。だが、それでも考えが変わることはない」
その瞬間、メイの震えは止まったように見えた。
ゆっくり身体を起こしながらガラクに向き直る。涙で濡れているものだと思ったが、むしろその顔からは感情が欠落していた。
「やっぱり、変わらないんだね…わかったよ」
うな垂れていた腕を掲げる。手にはハサミを握っていた。
「ガラクもみんなと一緒にしてあげる。それなら永遠にボクと一緒にいられるからさ」
みんな、が何を指しているのかは考えなくてもわかった。
一瞬だけ見た屋上の光景が脳裏に広がる。みんな、動く気配は見せなかったが、とてもきれいな状態で並べられていた。
メイの表情は変わらない。ガラクも切っ先を向けられてもなお動じている様子はない。
長い沈黙。二人とも一瞬たりとも視線を逸らそうとはしない。どちらも本気だと空気で感じられた。
「大丈夫。ぐちゃぐちゃにはしないよ。それだと意味ないもん。だって、これからずっとボクと一緒にいるんだから。もちろんガラクは特別だからみんな以上にかわいがってあげる。今だって、苦しむことなく一瞬で眠らせてあげるから安心して」
死体でもいいから一緒にいたいと願う愛の形。法律のない裏街道では否定はしないが理解はできない。それほど嫌いな表に帰ってほしくないと願うほどメイの過去は重くて苦しいものだったのか。
だが、メイが本当に求めているのは、一方通行でない心のある理解者のはずだ。
目を覚ましてほしい。「メイ……!だめ!」
「何でだめなの?アリスはこんなに他人に干渉する人じゃなかったでしょ?自分の人生でさえ、簡単に諦められるほどに何にも関心がなかったじゃないか。それなのにガラクはダメなの!?」
メイは意外と私のことを観察している。今までの私は他人が死んだところで、友人のミカが目の前で殺された時でさえ取り乱すことはなかった。
それだけど――――――
「ガラクは……だめ。だって、目が死んでもなお現実を見ようとしている。私なんかよりも、よっぽど生きる価値があるんだから……」
その言葉を聞いたメイは眉を寄せて顔を歪ませた。見るからに嫌悪感が表れている。
「やっぱりアリス。ガラクが好きなんだ。そうだよね。ガラクはかっこいいし優しいもんね。ボクも大好きだもん」
以前も問われた事柄。だが、今なら頷くことができた。
現実が見られなくて裏街道に逃避した。だが、ずっと逃避していても生きていると実感できない。だからただでさえ目が死んでいて普通の生活ができないと理解していても、再び現実を見ようとしている。
ガラクの眩しいほどの強い感情に心動かされ、そして惚れていることは紛れもなく事実だった。
メイは先ほどよりも表情を歪ませ、ガラクに向き直る。
「アリスは、表の現状から逃れたくて自殺という道を選択していた。それに、戻る頃には目は死んでいるからどのみち構ってもらえる。だからボクはアリスに関しては安心していたのにさ」
まさに予想した通りだった。
だけど――――――安心していた?どうして過去形なのだろうか。
メイはガラクの足を挟むようにして正面に立った。もう逃がさないと言った空気をまとっている。いまだメイの身体からポタポタと流れる誰かの血が、ガラクの服の上に点々と落ちて赤い花を咲かせた。
手には大振りのハサミが握られている。その佇まいからも頃合いを見定めた様子だ。
「大丈夫だよガラク。今まで通り一緒にいるんだ。もう本を読んでもらえないのは残念だけど、それでもガラクが表に帰るよりかはマシさ」
笑みを浮かべながら、艶やかな声で囁くメイ。本当に子どもなのかと疑ったが、実年齢では私より年上のことを考えたら妥当ではあるのかもしれない。
それでもなお冷静なガラク。演技か素かわからないが、どっちにしろ大層なメンタルを持っているものだ。
ガラクは観念したように背中をベンチに倒した。それと同時にメイはガラクの腰に座り、馬乗り状態になる。
ガラクは長い溜息を吐き、じっとメイの顔を見る。
「おまえの気が済むのならば、好きにすればいい」
私は反射的に「え?」と言っていた。
屋上の異様な光景を目撃し、今メイのまとう空気からもわかる。彼は本気だ。それはガラクもわかっていることのはずなのに。
メイもその反応は予想していなかったのか、少し面食らった顔になるが、すぐに表情を戻す。
「ガラク知ってるでしょ?ボクは容赦しないって。そんなこと言って怯むとでも思ってるの?」
「思ってない。それに同情を誘っているわけでもない。だがこんな状態で逃げられる気もしないし、ここにいるオレは死んでるようなものだからな」
諦めは早い方なんだ、とガラクは自嘲気味に言った。一見騙されそうになるが、本心であるはずがない。
その言葉を聞いたメイの表情は歪んだ。
「もう、知らないから――――――」
そう言って、腕を高く振り上げる。
「だ、ダメ――――!」無意識に叫んでいた。