今日は、月夜が休みだった。繁盛期だから、とバイトを優先したようだ。
二ヶ月たった今、部活動には慣れ、友人もできつつあったが、基本的に大半が下宿生だった。なので大学までは自転車やバイクで通う人が多い。
月夜は、私の地元に下宿しているので、いつもは最寄りまで一緒に帰る。だが、今日は一人だ。
活動後、一人さみしくバス停に向かっていると、バス待機列に見慣れない姿があった。
私は、背筋が伸びた。
「あれ、空ちゃん」
スマホを弄っていた土屋さんは、私に気づくと、列を抜けて私のもとまで来る。
「空ちゃんも、このバス使ってるんだね」
「こちらこそ……土屋さんと、同じだったなんて……」
「ふふっ、実はね」
土屋さんは目を細めて笑う。
「活動終わりすぐだと、バス混むでしょ。だからいつもは、時間をずらして帰ってるんだ」
でも今日は疲れたし、と土屋さんは続ける。遅くまで研究していたからだろう。
土屋さんは、最後尾を指さして並び直す。並んでいたのに申し訳ない、と思いつつ、唇を噛みながら土屋さんの後に続いた。
彼のそばによると、フワッと新鮮なタバコの香りが舞った。先ほどまで吸っていたのかもしれない。
「土屋さんは、実家通いなんですか?」
「そうだよ〜。隣県だから、二時間くらいかかるんだ」
「に、二時間……」
私は目を丸くする。「下宿は、しないんですか?」
「んー、考えてた時期はあるけど、俺一人だったらできそうもないし」
土屋さんは、やりずらそうに答える。
「気づけばタバコとお酒にお金使っちゃうし、家事もできる気がしないし。だから、誰かと住まないとだめなんだよね〜」
「い、意外です」
「俺って、結構クズだよ」
土屋さんは、ヘラっと笑って答える。
意外な一面だ。部活動で百人以上の部員をまとめる部長の姿を見ているので、正直、彼は何でもできそうな気がしていた。
バスが到着する。並んでいた人たちは、ぞろぞろとバスに乗り込み始める。
私たちが入った時には、ほぼ席が空いていなかった。ひとつだけ空いた席を、土屋さんが「どうぞ」と譲ってくれたので、畏まりながら着席した。
すぐ隣に土屋さんが手すりに掴まって立っている。ラベンダーの香りが届き、歯がゆくなった。
満員だ。乗車を切るように、プシューと音が鳴り、バスが動き始めた。
バスに揺られながら、ふと引っかかる。
土屋さんは、誰かと、住まないとだめだとわかっていながら、考えてた時期があったようだ。
つまりそれは、同棲する予定だった、ということだろうか。
チクリと胸が痛む。そして嫌でも思い出す。
昨年の土屋さんの薬指には、指輪がつけられていた。彼女が、いたんだ。
無意識に気が沈む。考えたくないのに、考えてしまう。私は嫉妬してるんだ。
土屋さんは大人だ。彼女のいた過去があっておかしくない。いやむしろ経験がないほうが違和感がある。
冷静になるために息を吐く。気づかれないように土屋さんを見ると、彼は窓の外を眺めていた。
つられるように窓に視線を向ける。今日は雲もなく、澄んだ空だった。きっと帰宅する時には、星が輝いている。
再び土屋さんを伺う。相変わらず彼は、まっすぐ空を見ていた。その顔を見て、改めて実感する。
やっぱり、土屋さんか好きだ。
土屋さんの、純粋に空を見上げるその瞳に、顔に、心に、全てに惹かれていた。
空が好きな土屋さんが、好きだった。
思わず見惚れていたことで、視線を隠すのを忘れていたようだ。私の視線に気づいた土屋さんは、「なーに?」と目を細めた。
私は正直に答えられるわけもなく、「何でもないです……」と小さく弁解しながら視線をそらした。
***
「空ちゃんは、地下鉄藍河線?」
バス停に着いた時、土屋さんが訪ねた。私は頷く。
「そっか。俺、尾泉線だから。気をつけてね」
土屋さんは、振り返りながら手を振る。
私も、挨拶しながら軽くお辞儀した。
ここで、お別れか。
背を向けようとした土屋さんは、ふっと表情を変えると、身体をこちらに向ける。
「……空ちゃん、なんて顔してるの?」
「へ?」
「捨てられた子犬みたいな顔してるよ」
土屋さんが、ニヤニヤしながら答える。
「なっ…!?」
思わず頬に手を当てる。衝撃的な言葉に、一瞬で顔が赤くなった。
そんな私を見て、土屋さんは愉快そうに笑みを浮かべる。
「帰ってほしく、なかったの?」
「そんなこと、ない!」
私は、露骨に背中を向ける。正直、少しだけ図星だっただけに戸惑った。
だが、羞恥心が上回り、大袈裟に否定してしまう。「じゃ、今日はお疲れ様でした!」
慌てて歩き出そうとした時、「待って」と腕が引かれた。
驚きながら振り返ると、土屋さんが目を細めて私の腕を掴んでいた。
「つ、土屋さん……?」
「空ちゃん、連絡先交換しようよ」
土屋さんは、ニコニコとスマホを取り出す。突然の行動に、私は呆気に取られる。
「空ちゃんが寂しくなったら、構ってあげるよ」
したり顔をする。全部、お見通しだよと言わんばかりだ。私はムッとする。
「さっ、寂しくなったり、しません!」
そう言いながらも、スマホを取り出していた。時に身体は、本能で行動するものだ。
そんな私に、土屋さんは満足げに笑うと、連絡先アプリのIDを交換をした。
「じゃ、遅いから気をつけてね」
土屋さんは、笑顔で手を振る。私も、つられて手を振ると、改札へと向かった。
帰宅ラッシュが少し落ち着いたホーム。顔に疲労が浮かんだ社会人たちと並んで電車を待った。
交換した土屋さんの連絡先を見る。アイコンは、夜空で、眩しい星がいくつも輝いている。星の並びから、恐らく牡牛座のプレアデス星団だ。この星団は、和名で「スバル」と呼ばれている。
彼らしい。オシャレな外見や発言だが、彼は一貫して星が好きなんだと感じられる。そこがまた好感度になっていた。
電車が到着し、乗車する。ポツポツと空いた適当な席に腰を下ろして目を閉じた。
土屋さんは、ズルい。
全部私の感情がお見通しの、確信犯だ。
でも、嬉しかった。
連絡先ひとつで、これだけ舞い上がってしまう。単純で乙女のような恋愛をしていることが楽しくなった。
地元に辿り着き、ぼんやり空を見上げながら帰宅する。
バスの中から見た空と変わらず、澄んだ深い藍の空を照らすように眩しい星が輝いていた。
ピロンと通知音が鳴る。土屋さんだった。
『空、きれいだよ』
一瞬、ドキリと心臓が鳴るが、思わず口元が緩む。彼と同じことを考えていたことが嬉しかった。
『きれいですね』
返信を終えると、再び顔を空に向けた。
午後九時。すでに夏の星座が確認できた。
白鳥座にこと座、わし座の三つの星座からなる夏の大三角。学校でも習うほどに有名な星の並びだ。やはり圧巻だった。
夏の大三角から南に下がった位置にさそり座が佇むはずだが、この街からは見られない。いつかさそり座を見ることが密かな夢でもある。夏の合宿では見られるだろうか。
「スバル好きの昴さん……」
澄んだ濃紺の空の下を歩きながら、口ずさむように呟いた。
第1セメスター:6月 完