私は隠すことに必死だった。
あの日は、あの後解放されて飲み会に戻ったが、体調不良を言い訳にすぐに帰宅した。それから、海老原くんはもちろん、天草でさえ、無意識に避けるようになってしまった。
全部、私が油断してしまったせいだから。
できるだけ普通に振舞った。部活内でも業務連絡をする際も、海老原くんも普通だった。
だが、常に緊張の糸が張っていたようだ。
「昨日、海老原くんの家が……」
「家に行ったの!?」
部室内、後輩たちが話していた言葉が届き、私は思わず声を上げた。
「い、いや、海老原くんの家が近くにあるって知ったって話で……」
突然、話に割り込んだ私に、後輩は怪訝な表情を浮かべる。海老原くんは、何事もないような澄ました顔をしている。
「どうかしましたか? 空さん」海老原くんが純粋な瞳で問う。
「い、いや、何でもない……」
やり辛くなり、私は、顔を引き攣らせた。
普通に挨拶し、廊下ですれ違った時も普通に挨拶する。あまりにもの平然とした毎日に、一ヶ月経った今では、あの日が錯覚だったのではと思うようになっていた。
だが、油断した頃に現実を突きつけられる。
『空さん。お腹が減りました。明日うち来てください』
夜、海老原くんからメッセージが届いた。短いメッセージだが、その意味は解っていた。
家にいけば何をされるのか、そして行かなければどうなるのか。
明日は土曜日。講義もなければ偶然バイトも入れていない、天草と会う予定もない貴重な完全オフ日だ。もしかしてこちらの予定すら把握しているのでは、と感じるほどの気持ち悪いタイミングだ。
私は、思考がおかしくなっていた。土屋さんの一件から、改めて恋愛は人を歪めてしまうものだと実感した。
逆らうことなんて、できない。
「空さん。来てくださると信じてましたよ」
次の日、海老原くんは笑顔で出迎える。
目立たないよう帽子にマスク、と露骨に変装スタイルの私には気にも留めない。
私は無言で彼の部屋に入る。海老原くんは最大限に私をもてなした。
「空さんの為にたくさんオモチャを用意したんですよ。たっぷり時間があるので、今日はたくさん遊びましょうね」
海老原くんは、無邪気な子どものようなあどけなさで笑う。室内に置かれた大量の玩具に私は顔が引き攣った。
***
「おまえ、最近変だぞ」
天草の自宅内。映画を見ている時、天草が私に触れた時に、ついに指摘された。思わず頬が、ピクリと反応した。
最近、肌に触れられるだけで反射的に身体が反応するようになった。強張って硬くなる。確実に海老原くんの一件以降だ。
その反応は、天草に触れられる時も出てしまった。
「どうしたんだ?」
天草は優しく問う。言葉が見つからず、私は唇を噛み締める。
彼に後ろめたいことがあること、そして彼の優しさが温かくて、意に反して涙が溢れた。私は隠しごとが下手だ。
「ごめん……ごめんなさい…………」
「お、おい、どうしたんだよ」
「ごめんなさい……」
もう隠すことはできない。
私は、正直に打ち明けることにした。
当然と言えば当然だが、天草は怒りをあらわにした。だが、私ではなく、海老原くんに対してだった。
「言っただろ。男って下心ないやつの方が珍しいんだって」
天草は、冷静な声で諭す。その声は、怒りを抑えるような荒々しさが感じられた。
「本当に……ごめんなさい……。でも、データがどうなるか恐くて、逆らえなかった」
そう打ち明けると、天草は頭を掻く。
「おまえは、自己犠牲をしすぎるんだ」
土屋さんのことも含んでいるとは伝わった。確かに私は、私のせいでと考えていた。全て筒抜けで返す言葉がない。
「正直、あいつは最初から嫌いだった。ずっとおまえにくっついてるからさ。俺もちゃんと見張っていればよかった……俺こそ悪い」
その夜は、何度も抱かれた。私も精一杯、彼の愛に答えた。
天草は私の身体を夢中にまさぐる。理性に抗うように少し乱暴で、だが温かみのある手で、触れられるたびに安心感が包まれた。
今までの出来事を忘れさせてくれるように上書きされ、そして体内が浄化されるようだった。
「おまえには俺がいる。もうあいつのことなんて忘れてくれ」
天草が何度もそう囁く。
他の人が入る隙間なんてない。私には、天草がいるんだ。
私はその日からは、心を入れ替えた。
***
「空さん。俺のこと避けてます?」
部活動中。海老原くんがそう言った。
捨てられた子犬のような潤んだ悲しそうな瞳。華奢な身体に薄めのカーディガンとシンプルな服。普段は全く異性に関心がなさそうな草食系にしか見えない。
「そうかも」
グッと堪える。騙されるわけにはいかない。
「構っていただきたいので、今晩ウチ来てください」
海老原くんが声を落として言った。
だが、私はもう言いなりにならない。
「悪いけど、もう行かない」
「どうして?」
「私には、恒星しかいないから」
その言葉に、海老原くんは僅かに嫌悪感を示す。私は視線を合わせないように言葉を続ける。
「もう、こんな関係も終わり。私はあなたの気持ちには応えられない。だから、わかって」
ハッキリと口にした。後ろに天草が支えてくれている力強さがあった。
海老原くんは、しばし呆然とするが、やがて表情を一変し、静かに涙を流した。
予想外の反応に、私は目が丸くなる。
「海老原くん……?」
「僕に、しませんか?」
「え?」
「僕、本当に空さんが好きなんです……。今までは見てるだけでいいって思ってたけど、やっぱり無理でした……彼女になってください」
海老原くんは、ボロボロ泣きながら言う。応えられないとハッキリ伝えたはずなのに、聞いていなかったのだろうか。
涙を流す海老原くんは、妙に神々しかった。さすがに二度同じことを伝えるのも胸が痛いとはいえ、良い顔はしていられない。
「ごめんなさい……。恒星を裏切ることはできない」
「……そうですか」
海老原くんは、ピタリと泣き止むと、私に顔を向ける。その瞳は、先ほどとは打って変わって濁っていた。
「僕、おかしいです……。普通、こんな場合は、データをばらまくだとか強行手段に出ると思うんです。空さん優しい方ですし、自傷してもいいかもしれません」
ゾワッと悪寒が走った。懸念していた最悪の反撃だ。
だが、海老原くんは、悲し気に視線を落とす。
「でも、そんなことしたら、空さんが悲しむでしょう。僕、先輩に嫌われたくないんです。ただ寂しかっただけですから。だから、僕が関わることで空さんが迷惑なら、もう何もしません……」
そう言うと、海老原くんは、背を向ける。
「さようなら。先輩」
私の傍から離れる海老原くん。今にも消えてしまいそうな哀愁漂う背中に、「ねぇ」と思わず口が開く。
「安心してください。データは全て消しました。大丈夫です。粘着系ではないので」
海老原くんはそう言うと、そのまま学校を出た。
離れられると怖い、と咄嗟に声をかけていた。海老原くんがこのまま私の知らないところへ行くと、彼がどうなるかが不安だった。
海老原くんを思ってのことなのか、またその現実を知った私がどう思うのか。八方美人なのか自己犠牲なのか。
おかしくなっているのは、私の方なのかもしれない。
***