2頁目「脇役から主人公」➅



 学校終了のベルがなる。真宵は友人たちと部活動へ、日中は生徒会へ、暁も友人たちと教室を出た。放課後は各々の時間があるものだ。
 水曜日の今日は私も予定がある。下校準備を済ますと、教室を出た。

 私は、まっすぐ藍田川へ向かった。気持ち急いでいたのか、若干小走りになる。気づけば、視界が開き、目の前に大きな川が広がっていた。
 普段訪れる図書館へ向かっていないからか、まだ空の明るい川が新鮮に映った。

 普段利用するベンチのある高架下付近に目を向ける。
 当然のように、惟月はいた。

 だが、そこで私の足は止まる。
 よく考えたら、ありえないことだ。あれは私の幻聴に違いない。会ったら何を話そうなんて考えていたが、そもそも自分から話しかける勇気なんて持っていなかった。

「あっ、来てくれたんだね!」
 
 延々思考していると、惟月が私に気づく。私は河川敷まで下り、小走りで惟月に近寄ると、彼はおもむろにこちらに顔を向けた。先週見たときと変わらない、睫毛が長く、色素の薄い美しい顔立ちだ。

「伝言が無事、届いてたようだね」

 惟月は、何食わぬ顔で手をあげる。ニコニコと笑う彼に流されそうになる。
 まだ二人なら会話はできる。私は、マスクに手をかけると、小さく息を吸い込んだ。 

「あなた……私に、何をしたの?」 

 そう問いかけると、惟月はフフッと笑う。

「言ったでしょ。キミに一言の勇気をあげたんだ」

 たしかに彼はそう言った。つまりそれは、本音で話せる力のことだろうか。

「私、恐いくらい無意識に話すようになったの……」

「でも、悪いことは起こってないでしょ?」

 惟月にそう言われ、はたと気付く。

 そう言われたら、そうかもしれない。感情が口に出た時も、失言した時も、発言したことで相手との関係が悪くなってはいない。むしろそれらがきっかけで、自分が予想もしていなかった展開へと好転している。
 この一週間に起こったことは、些細な偶然と発言から生まれたものだった。だが私にとっては、憧れの人や場所との関わりであり、輝かしい非日常でもあった。

「うん。むしろ信じられないことが起こったの。クラスメイトと話せたし、今日は食堂にも行って、それに来週にはバーベキューも……」

 そこまで言うと静止する。改めて口に出すと、全然珍しいことではない。信じられない、なんて言ってしまったが、レベルが低くて恥ずかしくなってきた。

 だが、そんな私に惟月はふふっと笑う。

「すごいことだよ。些細なことでも喜べるって、良いことじゃないかな。それだけたくさん幸福になれるんだからさ」

 惟月の言葉に胸がつまる。
 私の不安も全て伝わっている感覚だ。そんな彼になら少しだけ共有してもらえるのかもしれない。

 そう思うと同時に、私はマスクを外していた。

「私、話すことが苦手なの……。それに全然 珍しいことじゃないと思う。だから退屈かもしれないけど、話聞いてくれる?」

 恐る恐る問うと、惟月は「もちろん」と言った。
 私は、彼の隣に腰を下ろした。

 私はこの一週間起こった出来事を話した。自身について話すことに慣れておらず、恥ずかしいほどの拙い語りだった。だがそれでも話すのをやめようとはしなかった。もしかしたら内心、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。クラスメイトではない惟月だからこそ素直に本心を言葉にできたのだろう。

 たった少し、話す勇気を手に入れただけで、ここまで毎日が変わるものなのか。誰とも話さないことが日常だった私にとったら、この一週間は、あまりにも眩しい一日だったんだ。

 皆にとっては何気ない日常でも、私にとったら輝かしい非日常だった。

 でもやっぱり大したことはない。退屈ではないか、私の話ばかりで、迷惑ではないかなといった不安も比例して大きくなった。

「小夜がすごく楽しそうで、僕は嬉しいよ。他には何があったの?」

 そう言って惟月は、微笑む。彼には本当に筒抜けのようだ。
 夕日に照らされる惟月は、先週見たときと変わらずに神々しい。彼の輪郭をなぞる光が、青白さを感じる彼の肌に赤みがさして人間らしく見えた。思わず見惚れるほどで、目が離せなくなる。

 共感してもらえる嬉しさを知ったことで、気付けば視界が暗くなってきた。
 空を仰ぎ見た私に気づいた惟月は、「もう帰らなきゃだね」と呟いた。

「い、惟月くんは、水曜日はいつもここに来るの?」

 まだ話したいことがあった。だが、私の語りが遅いばかりに時間がかかってしまう。そんな自分が悔しかった。

 惟月は振り返ると「そうだね」と笑う。

「じゃあ毎週、ここに来たら、会える?」

 気づいたらそう尋ねていた。名残惜しい気持ちが出たのかもしれない。
 そんな私に、惟月は優しく笑って頷いた。

 私は、荷物をまとめると、土手まであがる。河川敷に振り向くと、すでに惟月の姿は見えなくなっていた。

「早いな……」

 今日、改めて惟月と話して感じたこと。それは、彼自身については、尋ねてはいけない。彼はつねにニコニコ笑っているが、なんとなく自分のことを尋ねてほしくなさそうだと感じ取れた。普段言葉に慎重になるからこそ感覚で伝わったのだ。

 惟月は人間なのだろうか?
 ふと、そんな疑問がよぎるが、すぐに頭を振る。
 
 夕日に照らされて私を見る彼の顔は人間にしか見えなかった。私の拙い語りでも、嬉しそうに聞いてくれたあの顔は、私たちと同じ人間にしか見えないものだ。

 そんなことを考えながら、帰宅路を歩んだ。

 一週間に一度の、少し不思議な放課後時間。
 来週、惟月と会うまでになにを話そうか、今日みたいに話題が尽きないほどにたくさんのことが起こりますように、と空を見上げながら心で願った。

***

 週末からゴールデンウィークに入った。校則でアルバイトは禁止されており、両親も連休関係のない仕事をしていることから、真宵に誘われたバーベキュー以外は特に大きな予定がない。真宵の言葉を借りれば、暇だった。ただ、私にとっては家でのんびりしている時間も立派な予定ではあった。

 自宅のベッドで読書をしていた。暁と話すきっかけにもなった『青い夏』を読み返していた。スポーツは詳しくないが、野球よりも青春要素が強めの眩しい日常ものだった。映画公開時は学校でも毎日話題にあげられていたことから、映画も見てみようかな、とふと思う。
 
 と、そこで気づいたことがあった。
 今週は図書館へ行っておらず、来週水曜日は連休最終日、つまり真宵に誘われたバーベキューの日だ。返却期限の日は予定がある。
 少し早めに図書館へ行こう、と私は荷物をまとめると、外出の準備をした。

 街は家族づれや旅行客で忙しない。私は予定もなく自宅にいたが、改めて大型連休だと実感させられる。普段は学校帰りに訪れているので、日が高いうちに私服で図書館へ向かうことに違和感を感じるものだった。

 中央図書館に辿り着き、中へ入る。普段よりも利用客が多く、平日ではあまり見かけない家族づれが確認できた。

 私は、返却カウンターで手続きを終えると、普段通りにまずは返却されたばかりの書籍の並ぶ本棚へ向かう。

 再び京都の雑誌が借りられていることに気づいた。いまは大型連休中で、旅行の計画を立てていたのだろうか。そんなことを勝手に妄想して頬が緩む。
 ゴールデンウィーク明けから修学旅行について予定を決める。これも何かの縁だ。私は新しい京都の雑誌を数冊手に取った。

 私は文芸書では、ジャンルには拘りなく読んでた。作家で選ぶこともあれや、タイトルやキャッチコピー、表紙に惹かれて手に取ることもある。メディア化された話題作は大抵図書館では借りられているので、旬のうちに手を出すことは少なかった。

 数冊文芸書を見繕うと、貸出手続きを済ませた。

***