3頁目「憧憬から愛慕」④



 私は、歯痒い思いだった。
 なんで誘ってくれたのだろう。偶然会えて、偶然家に送ってもらえたからだろうか。それにしては、夢を見るには、十分すぎる出来事だ。

 薄暗くなったことを良いことに、背中に顔を近づける。彼の香りがより一層強く、顔全体を包んだ。私とは違う、広くて大きな背中に、次第に胸が高鳴った。

 触れたい、と思ってしまうのは、変な感情なのだろうか。ただ、惟月のことを思うと、この感情はあまり出してはいけないはずだ。私も他人に触れられると驚くはずだ。

 家に近づき、車が停車していることに気づく。

「あ、お父さん帰ってる」

 突如暁は、キキーッとブレーキをかけるて自転車を止めた。その勢いで、私は彼の背中に顔がぶつかった。

「ご、ごめん、大丈夫?」
 
 暁は慌ててこちらを見る。不思議に思いながら彼を見上げると、若干動揺していた。

「いや……、さすがに家の前まで行くのは悪いかなって。ここでもいい?」
 
「うん。本当にありがとう」

「全然。じゃ、また明日」

 暁は照れくさそうに顔を歪めると、手を振って来た道を戻り始めた。
 そんな彼を、私は手を振って見送る。

 感情が忙しない。惟月の不安を掻き消してくれるように、暁のことで脳内はいっぱいになっていた。

***

 風呂を済ませて夜時間。のんびりしていると、暁からメッセージが届いた。

『中途半端なとこで下ろしてごめんね。無事に帰れた?』
 暁の声で再生されるほど自然な文体だ。気を遣ってくれていると感じられて温かくなる。

『全然大丈夫だよ。送ってくれてありがとう』

『全然。俺も帰る道中だったし』

 返信を打っていると、続けてメッセージが届いた。

『あと来週のこと、茜たちには言わないで』

 たしかに口の軽すぎる彼女に言えば、たちまち広がってしまう。炎のように燃え上がる未来は目に見えた。私も暁ファンから刺される事態は避けたい。

『言わないよ。でも、本当に私だけでいいの?』

 いまだに疑問に感じていた。正直、私と一緒にいておもしろいと思ってもらえる気はしなかった。自分が誰かと一緒にいたいと思ってもらえる存在だとは到底思えなかった。面と向かっては聞けないことも、メッセージならば少し勇気が出せる。

『小夜ちゃんと見たいからだよ。何度言わせるの』

 だが暁は、私の不安を飛ばすかのように直球な言葉だった。
 字面で見て改めて実感した。こんなの、自惚れてしまうじゃないか。
 そんな何気ないやり取りですら、幸せだった。

***



 私は無意識に学校に早く登校するようになっていた。朝の誰もいない教室が居心地が良いと知ってしまったからかもしれない。それと、皆に早く会いたいと思う気持ちが無意識に行動に表れてしまっているのかもしれない。

 今日は月曜日。今までは週末に入る金曜日が好きだったのに、今では皆に会える月曜日が楽しみになっていた。だからこそ、普段よりも早くに着いたかもしれない。

 ガラリと扉を開くと、なんと暁が座席に着いて窓の外を見ていた。

 扉の音に気づいた暁は、こちらに向くと、「はよ」と手を上げた。

「上からこの校舎入ってくの見えたよ。気づくかなって見てたけど、案外気づかないものなんだね」
 暁は笑う。無心で登校する姿を見られていたと知り、恥ずかしくなった。

「今日、すごく早くない?」

「ん、一度は一番に来てみたいなって思って」
 暁は舌を出す。「でも、俺も五分くらい前に来たとこだよ」

 二日会っていないだけなのに、すでに嬉しくなっていた。勝手ながら暁との朝だけの二人の時間が、彼をひとりじめしているような優越感が生まれるので、彼が早めに登校してくれることが嬉しかった。こんな意地汚い感情、絶対に言えるわけがない。

 私は「今日は雑誌持ってきたよ」と話しかけると、おっと暁はイスを後ろ向きに座り直した。

 皆が登校する中、私たちは雑誌を見ながら色々話す。先週までひとりで見ていたものなのに、誰かと雑誌を見ながら話すことがこんなにも楽しいものだとは思いもしなかった。

 学校の朝時間、そして夜のメッセージの時間。今までは遠くから眺めるだけの憧れの存在である暁との特別な時間が増えていることに嬉しくなった。

 気持ち悪いと思われたくなくて、あえて時間を置いて返信する。長文にならないよう、ただやりとりは続けたかったので、どんな反応でも返してくれることが嬉しかった。

 だが、どんどん欲が増す自分にも驚いた。もう少し二人で話したい、やりとりを続けたい。でも、こんなこと言えるわけがない。だからどう返したら相手は興味を持ってくれるのか、嫌だなと思われないかばかり考えるようになった。
 
 そのおかげで、この週末は惟月のことで落ち込まなくて済んだものだった。
  

***

 五月下旬の水曜日。今日はあいにくの雨だった。そういえば来週から六月で梅雨に入るなとふと思う。
 登校中はまだ傘で防げる程度だったが、授業中は雨音がうるさいほどの土砂降りだった。

「これはさすがに、今日は部活ねぇな」

 休憩時間、真宵は窓を見ながら寄り道しよっと。と嬉しそうに笑う。外の部活動は雨の日はラッキーと思うのかもしれない。

 雨の日は、嫌いじゃない。雨音が無心にさせてくれるようだからだ。だが、外に出るのは濡れて雨の匂いが服に染みつくので、あまり好きじゃない。だからこそ、今日は寄り道せずに直帰しようと決めた。

 川で惟月と会うようになってから、初めての雨だ。さすがに土砂降りの雨天では、彼もいないだろう。

 それに、心のわだかまりが解けない状態のまま、本心を見透かす彼とは会いたくない気持ちもあった。
 だからこそ、雨天を理由にできた天候に感謝していた。

***

「小夜ちゃん。白はやめた方がいいぜ」

 体育の着替え中、真宵は私を見て唐突に言った。私は何のことかわからず首を傾げる。

「夏服になったからシャツだけになるだろ。白だと意外と透けて見えんだよ。ピンク系やベージュがベストだ」

 そう言って手鏡をこちらに見せる。たしかに言われたら透けて見えるかもしれない。

 今週から六月に入り、毎年の記録的な暑さから、例年より早めに制服移行期間となっていた。私もブレザーは暑く、すでに夏服登校に移行していたのだ。
 スカートも夏物に変わり、真宵のスカート丈はさらに短くなっているように見えた。

「白は男ウケはいいかもだけどな。まれに変なヤツもいるし、気をつけた方がいいぜ」
 
 うん、と頷く。彼女のおかげで授業では習わない知識が得られるものだ。

 男子たちも着替えが終わり、教室内に戻る。いつも女子の着替えが遅く、待たせてしまうのは申し訳ない。

「遅すぎ」

 日中が、席につくなりぼやく。一緒に入ってきた暁は苦笑する。
 日中はまだブレザー姿だが、暁はすでに夏服に移行し、印象的なパーカーは着ていない。その代わりに派手なTシャツを中に着ていた。

「これでも急いでやってんだぞ」
 真宵は、険しい顔で対抗する。

「どうせダラダラ喋ってるからでしょ。廊下で待たされる男の身にもなってくれる?」

 日中はピシャリと言う。ぐうの音も出ない。

「重要な話だ。白いブラはやめろって話してただけだ」
 真宵は、若干切れ気味に言った。

「それ、俺らが聞いていい話ではない気がするけど」
 暁は苦笑しながら言う。あれ、今私の下着の色バラされた?

「小夜ちゃんかわいいから、レクチャーしねぇとダメだろ。ウチがいたら蹴り上げてやれるけどよ」

 そう言って真宵は、蹴り上げるポーズをする。そんな彼女を日中は冷ややかな目で見る。

「……あんまり、舐めないほうがいいと思うけど」
 日中は、言った。予想外の発言に、私と真宵は目を丸くして彼を見る。

「そうやって自分は関係ないって人ほど痛い目見るんだよ。そもそも男と女では、筋肉量から違うんだよ」

「そうか? 少なくともお前より筋肉あるぞ。実際体育はウチの方が成績いいだろ」

 真宵はあっさり言う。唯一5ではない教科は体育だったようだ。

 私は日中を見る。口では無愛想だが、意外と彼女を心配しているのかもしれないな、とふと思った。

***