3頁目「憧憬から愛慕」③



 ホームルームが終わり、放課後時間となる。

「璃空~、今日暇か?」
 友人たちが暁に声をかける。

「悪い、今日用事ある」
 暁は、申し訳なさそうに手を上げる。

 毎日誘われる暁の姿は、すっかり見慣れた光景だが、もしかしてバイトかな、だなんて聞き流しながら私も下校の準備を始める。
 やっと惟月に報告できる。図書館はいまは金曜日に向かうことにしていたので、このまま真っ直ぐ川へ向かった。

 気持ちが急いでいたのかもしれない。無意識に小走りになっていた。
 川へ辿り着く。先週ここでバーベキューをして以来だ。
 同じ場所であるのに、まるで見え方が変わるものだ。

 私はいつもの隠れ家ベンチへ顔を向ける。当然のように惟月は座っていた。呆然と川を眺めている。

 私は、河川敷に下りると、小走りで駆け寄る。だが、近くまで行っても惟月は私に気がつかない。

「惟月くん……?」

 肩を叩こうとするが、途端、彼は目を丸くして反射的に身体をのけぞった。あまりにもの驚きように、私は息をのむ。

「あ、小夜か。ご、ごめん。びっくりして……」

 惟月は、普段の笑顔に戻る。だが、その顔は若干引き攣っていた。

「う、うん。ごめん、私もいきなり……」

 嫌な汗が流れた。肩を叩こうとしただけで、あんなに驚かれるとは思わなかった。

「今日は、早いね」
 惟月は言う。その声色は、普段の温かいものに戻っていた。

「うん。図書館には、金曜日に行くことにしたから……」

「そうなんだ」

 私は、畏まった態度でベンチに腰を下ろす。だが、惟月の顔が見られない。
 先ほどの表情が脳裏から離れない。あまりにも必死な表情に、彼の感情が伝わってしまった。私に触れられることがイヤという気持ちがその一瞬の反応で伝わってしまった。
 もしかしたら、隣に座るのもイヤだと思われていないか。そんな不安すら浮かび、普段よりも少し離れて座った。

「修学旅行の班、決めるって言ってたよね」

 惟月は、さっそく修学旅行について話題を出す。彼には、ゴールデンウイーク明けから決めるとは前に伝えていた。

「うん。みんなと一緒の班になれたよ」

「よかったじゃん」
 惟月は目を細めて笑う。だが、私は顔が引き攣ってしまった。

 あんなにも彼に早く話したいと思っていたのに、いまでは違う不安が渦巻いて素直に受け取れない。

 私はうぬぼれていた。暁と距離が近くなって、本心が話せるようになったからと距離感を忘れそうになっていた。
 これが普通なんだ。私だって、知らない人に触られそうになったら、避けてしまう。当然の反応だ。
 でも、どうしてここまで傷ついてしまうのだろう。

 惟月は、普段と変わらない。だから私の勘違いの可能性だってある。私は勝手に思考してしまう。だから尋ねないことには相手の本心だなんてわからないのに。
 だけど尋ねる勇気なんてあるわけない。マスクの力はあっても、口が閉ざされてしまう。
 普段は私の本心を見透かしたかのような発言が多いのに、今日は私の態度の変化に気づいてくれない。察してくれないかな、だなんて思ってしまうところは、女のずるいところでもある。だけど、今日ばかりは気づいてくれないかな、だなんて思ってしまった。

 きっと惟月は、私の異変に気づいている。だけど惟月は、触れることがなかった。その行動からも、改めて感じた。
 さっきの件は、惟月も触れてほしくないからだ。つまり、あの反応が全てだったのだろう。

 妙な力を得てから、知らない感情ばかり経験する。こんなにも感情というのは天気のように変わりやすいものなのか。

 それほど私は、彼の反応にショックを受けていた。

***



 夕日が西に傾き、帰宅路を歩む。
 私の頭は、ずっと惟月のことでいっぱいだった。

 惟月は、私のことばかり尋ねるのに、私は彼のことについて何も知らない。何も教えてくれない。
 それに私自身問えないようにしているのか、空気感から口を開くこともできない。

 ずるい。

 惟月の存在は、私にとってとても大きい。だから彼のことをもっと知りたいと思ってしまうのは、自然なことではないのか。
 それなのに、惟月は何も教えてくれない。

 ただ、彼のことを聞いたら、もう二度と会えなくなるような気がして、尋ねられなかった。それほど彼の存在が私の中では大きかったのだ。

「小夜ちゃん?」

 名前が呼ばれ、はっと我に返る。
 顔を上げると目前に、暁が立っていた。バイトへ行っていたのか、自転車にまたがっている。

「あ、暁くん」

「また川に、来てたんだね」
 
 暁は、自転車から腰を下ろすと、夕日が眩しそうに川を眺める。もしかしたら惟月と話していたところを見られたらのかもしれない。

「うん。いつも水曜日は、ここに来てて」

「そうなんだ?」

 暁は何故、と不思議そうに首を傾げる。惟月のことを言いそうになるが、どう説明すべきか悩み、結果、顔が暗くなってしまった。

「小夜ちゃん?」

「な、なんでもないよ……」

 私は大げさに手を振る。そんな私を暁は観察するようにジッと見る。言及されたらどうしようと不安になるが、暁は「そっか」とだけ言って自転車にまたがった。

「帰るんだよね。せっかくだし送るよ」

 サラリと言われたが、私は慌てて手を振る。

「いやっ いいよ!」

「自転車のほうが早いだろ」

 暁は軽く笑う。そういう意味じゃない。

「お、重いよ……」
 私は力なく応える。暁は拍子抜けしたように、「平気だって」と笑った。

「人乗せるのは慣れてるし、それに茜よりは絶対軽いから」
 カラッと笑う。真宵がいたら蹴り飛ばされてるであろう発言だ。

 暁の好意を無下にはできない。私は小さく頷くと、後ろにちょこんと腰かけた。

「もし怖かったら、身体か服か、つかんでくれていいから」

 暁は、自身の腰を指差す。その言葉に私の顔は引き攣る。
 先ほど、惟月の肩に触れたときの反応を思い出してしまった。

 静止した私に、暁は不思議そうに首を傾げる。

「ふ、触れていいの……?」

「触れて……!? あぁ、えっと、危ないからつかまっていいよって意味……」

 暁は若干動揺を見せて答える。予想の斜め上の反応だったのかもしれない。たしかにつかまると触れるでは、ニュアンスが違うものだ。

 私は赤面しながら、控えめに彼の腰辺りにつかまった。それを確認した暁は、足をペダルに置いて漕ぎ始めた。
 

 自然の広がる川付近。暁のペダルを漕ぐ音が響いていた。

 私は思考していた。異性との距離感がわからなかった。どこまでが普通なんだろうか。暁にとったらこの行為も普通なのだろうか。だが、私にとったら難易度が高いものだ。
 暁が慣れてるとは、ヘアピンの時にも感じたことだ。私は異性とまともに接するのが暁が初めてだった為、彼基準になっていたのだろう。
 
 暁の服を掴む手が震える。異性に触れるのが、こんなにも緊張するものだとは思わなかった。距離が近い。普段ふわりと香る彼の香りが、いまは顔全体を包む感覚だった。

「この神社さ」

 唐突に、暁の言葉が届き、正気に戻る。顔をあげると、大きな朱色の鳥居が目に飛び込んだ。藍河稲荷神社は、虹ノ宮を代表する大きな神社だ。

「あそこに川があるだろ。もうすぐしたら、ホタルが見られるんだよ」

 そう言って指差された先には、神社の近くにある細い川があった。ホタルの名所とは、私も噂程度には聞いたことがあった。

「ホタル、見たことないや」

「俺も去年、バイト帰りに初めて見た。すごくきれいだよ。パートさんに聞いたんだけど、来週あたりが一番見られるらしい」

 そう言うと、暁はおもむろに空を見上げる。つられて私も顔をあげる。
 すでに太陽は低く、薄暗くなりつつあった。

 数秒の沈黙のあと、「小夜ちゃん、夜って平気?」と暁は言った。

「うん。親に言っておけば大丈夫」

「ならさ、来週の金曜の夜、空いてる?」

 私は暁に顔を向ける。

「来週の金曜日はバイト休みで。多分、ホタルもよく見られるからさ」

「私は大丈夫だよ。でも真宵さんたちは……」

「二人で、だよ」

 はたと、目を見開く。暁のほうを見るが、彼は自転車を漕いでいるので、当然こちらを見ない。

「小夜ちゃんと、二人で見たい」

 暁は、声を低くして言った。心臓がドクンと高鳴った。

「わ、私なんかが……いいの?」
 思考のままに尋ねていた。それほど私が誘われた理由がわからない。

「なにそれ。小夜ちゃんとが、いいの」

 暁は、笑った。だが、後ろからは表情が見られない。

 私は脳内で思考がグルグル渦巻いていた。
 暁と二人? 皆に怒られない? 友人は?
 
 なんで、私……?

 暁の意図が全くわからないが、憧れである暁からの誘いなんて、断れるわけがない。

「は、はい……」

「ん、じゃ、また連絡すんね」
 
 暁は、そう言うと、沈黙が訪れた。