「うしろ、通るね」
そう言うと、通路を塞いでいた人は「あ、小夜ちゃんごめん」と身体を避ける。私は軽く頭を下げながら通路を通った。
表情には表れないものの、口に出して言えるようになっている自分に内心驚いていた。修学旅行で同室となった東雲や未明たちとも話せるようになり、それ以降は少しずつクラスメイトとも話せるようになっていた。登校すると、挨拶してくれる人がいる。休憩時間には、私の座席まで来て雑談をしてくれる人がいる。大好きだった読書も、最近は学校ではほぼしなくなり、自宅で楽しむ娯楽となっていた。少しでも皆との時間を大切にしたかったのだ。
今までは考えられなかった日常が、私の日常となっていた。
全ては、惟月がくれた少しの勇気のおかげだった。
あの日から二度、水曜日が訪れるも、川へは行っていなかった。行ったところで、惟月と会ったところで上手く話せる気がしなかった。
それに、夏休み前のテスト週間に入ったこともあった。テスト一週間前になると部活動や生徒会も停止されるようで、また暁もテスト週間に入るとバイトを休みを入れたようで、基本的に毎日放課後は、暁や真宵、日中と教室でテスト勉強をしていた。日中も珍しく参加していたが、どうやら真宵が食堂のコロッケで買収したようで、どちらかといえば教師の立場だった。そのおかげでわからないことも彼に聞くことができ、テスト勉強が捗った。
勉強をしているのに、授業とはまた違う勉強時間に私は内心楽しいな、と思えるようになっていた。
下校時間になると、四人で帰宅する。そのおかげで、余計なことを考えずに済んだ。
私にとっての非日常が日常となっていく。だがこの幸せは惟月がくれたものだ。だからお礼ができないことに、少しだけ引っかかっていた。
そんなときに異変は起きた。
***
今日は夏休み前、最後の登校日だった。
テストも終わり、授業もなく午前中で終わる。明日から始まる夏休みに胸をはせていた。
体育館で形式だけの終業式を終え、教室へ戻る。
教室で、明日から始まる夏期講習の説明などを流し聞きしていた。
今日は水曜日。惟月とは、あれ以来会っていなかった。
それでいいんだ。私は彼に嫌われている。距離が近づいたと思ったが、うぬぼれていた。お土産すら受け取ってもらえないほどに、嫌われていたんだ。
休憩時間、茫然と窓の外を眺めていた。
ふと、違和感を感じた。
私の目先、校舎下にある駐輪場からこちらをジッと見つめる人物。クセのない長髪を後ろに束ね、キューティクルの輝きからまるで天使の輪のように見えた。見たことのない生徒だが、金清高校の制服を身にまとっている。体格的に男性だとは感じるが、女性のように美しい。
汚れのない瞳は、まっすぐに私を見ていた。
なぜだろうか。妙に親近感を覚えた。
時計に目を向ける。休憩時間は、まだ十分ある。そうとわかれば、教室を駆けだしていた。
***
「貴女なら気づいてくださると思いました」
彼の元へ駆けつけて開口一番、神秘的な青年はそう言った。
近くで見た彼は、教室から見たときよりもさらにキレイだ。肌も白く、髪にもツヤがある。憂いを帯びた長い睫毛や柔和に笑う口元から気品が漂っていた。
芸能人と出会ったときもこのような感覚なのだろうか。ひと目で人種が違うと感じた。見慣れた制服も、まるで神聖な正装のように思えた。
「あなたは、ここの生徒……?」
「違いますよ」
青年は、あっさり告白する。全く隠す様子がなく、逆に拍子抜けした。
私の気の抜けた表情から察したのか、青年はふふっと笑う。
「ここに入るには、この姿のほうが良いと考えたからです。ですが私では、やはりなじめなかったようですね」
青年は人差し指を口に当てる。
「それと正確には、隠さないのではなく、隠せないのです」
そう説明すると、カッと視界が白くなった。あまりの眩しさに思わず目を瞑る。
数秒後、おそるおそる目を開けると、異様な光景が目に飛びこんだ。
青年は、一瞬のうちに制服から、白の燕尾服に変わり、背中からは翼が生えていた。暁のパーカーや私のマスクのように、橙色の翼だ。青年はなにごともないように柔和に笑みを浮かべている。まるでその光景が当然といわんばかりの佇まいだ。
あまりにもの神々しさに、息をのむ。
その姿は、まるで
「……………………天使……?」
無意識にこぼれた言葉に、翼の青年は柔和に笑う。
「そう、私は天使。やはり下界では、翼のある人型は、天使ととらえてくれるものですね」
青年はそう答えると「私のことは、『ルーク』とお呼びください」と付けくわえる。私に天使と認識させる為なのか、すでに翼は消えていたことに、少しだけ落胆する。
「翼はさすがに目立ちますから」
ルークは説明した。私は脳内で疑問符を浮かべる。
「それにしても……突飛な姿かと思われましたが冷静ですね。もしかしてお見かけしたことがあるのでしょうか?」
その問いに、私は自分があまり驚いていなかったことに気づく。確かに今、目の前で見たルークは、到底信じられない姿だった。それなのに冷静に現状を受け入れている。
どこか、惟月と近い雰囲気だからだろうか。
「そうです。惟月は私たちと同属です。厳密には研修生ですが」
ルークは、私の疑問に対して説明する。唐突に惟月の名前が出たことに驚くが、私は再び首を傾げる。
あれ、今私、口に出てただろうか?
混乱する私がおかしいのか、ルークはふふっと笑うと咳ばらいをする。
「改めまして、私はルーク。下界で『天使』と呼ばれる存在です。私たち天使は、人間を幸福へ導くことが使命です。そして誰を幸福にするかの『対象』を選ぶことができます。そこで惟月が、対象に選んだのが貴女です」
パチンとルークは指を鳴らすと、目前に鏡のようなものが現れ、私が映し出された。見慣れた姿だが、そこで目を見張る。
私の頭上には、天使の輪のようなものが浮かんでいた。
「こ、これ……」
「私たちが対象を把握するための目印です。被らないほうが賢明ですので」
上を向くが、常に輪は頭上にあるようで、自身の目では見られない。鏡を確認して触れようとするが、触れることもできなかった。
輪に関心を抱く私がおかしいのか、ルークはふふっと笑うと、「基本、人間は認識できません」と説明し、鏡をしまった。
「惟月くんと出会ってから、今までの私では予想できなかったことが起こったの。それって惟月くんが私を幸福の対象に選んだから?」
そう言うと、ルークは指を立てる。