街全体が俯瞰できる高層ビル屋上の柵に、小さな少女が腰かけていた。
黒レースのあしらわれたゴシックな衣装を身に纏い、手には分厚い本を所持している。
風が少女の真紅の髪を揺らす。強風が吹けば、その小さな身体は地上に投げ出されるというのに、彼女は全く怖気つく様子がない。
「……荒れた世界」
少女は、足元で絶えず動く人の波を見ながら、ぽつりと呟く。
「がっかりしたか? この街が、これからおまえの庭だ」
少女の隣に立つ痩身の青年が、尖った歯を光らせながら声をかける。
全身真っ黒なコートを着用し、銀髪の髪の奥からは赤い瞳が鋭く光る。被られたフードと右目に着けられた黒い眼帯からも、いかにも物騒な格好だ。
物語の世界から飛び出てきたような二人の容姿は、灰色の空に高層ビルの立ち並ぶこの景色には、あまりにも不釣り合いで異質なものだった。
少女は、幼い体躯に似つかわしくない無機質な表情のまま、手元の分厚いハードカバー本をぱたりと閉じる。くるりと身体を捻り、とんっと静かに屋上に足を下ろす。リンッと心地良い鈴の音が響き、漆黒のドレスが可憐に舞った。
「みんなが手入れを怠るせいよ」
「それだけ、人間は面倒くさい生き物なんだ」
黒ずくめの青年は、肩を竦めて少女に振り向く。
「質の良い花を咲かせるには、それだけ人間に関わらなけりゃならねぇ。あいつらが面倒がるのもわかっただろ」
青年のその言葉に、少女は僅かに悔しそうに口を曲げる。
「でも、それでも」少女は灰色の空を見上げて呟く。
「私は、きれいな花しか咲かさない」
『○○からのオクリモノ』
赤い夕日に照らされて輝く、刈られたばかりの青い芝生の上には、彫刻が施された灰色の大理石がずらりと並んでいた。
色の失われた一面に、絵具を落としたようにぽつりぽつりとピンク、白、黄色の花が映えている。かぁかぁとカラスの鳴く声が辺りに響くほどに静寂に包まれた空間だった。
いまだ冷気を孕んだ冷たい春風が吹く。閑散としたその場に一人、黒服を身に纏った少年が立っていた。
少年は、墓石に刻まれた馴染みの名前を茫然と眺め、手に持った花を生けると、静かに手を合わせた。
「ごめんなさい」
少年は、感情の起伏の見られない冷静な声で囁く。
「ごめんなさい……」
少年は、今度は僅かに震えた声で呟く。
「って、今更何って、怒ってるよね……ごめんなさい……」
少年は、その場に膝から崩れてしゃがみ込んだ。
大きく風が吹き、少年の髪を揺らす。
遠くで車の走る音が届くほど静まり返ったこの場に、リンッと心地良い鈴の音が鳴った。
「『もう一度、兄に会いたい』」
突如として響いた、冷静で透き通った声に、少年は正気に戻る。
顔を上げると、傍らに幼い少女が立っていた。
蠱惑的な真紅の髪が風でなびく。レースのあしらわれた漆黒のドレスを着用し、幼い体躯には似つかわしくないほどに無機質な表情をしていた。
「それが、あなたの『未練』ね」
「え?」少年は、素朴に聞き返す。
突如として現れた童話の世界から飛び出てきたような容姿をした少女に、僅かに困惑している様子だ。
少女は少年の反応には気を留めず、どこからか取り出した紫色の花を胸の前に掲げると、一枚花弁を千切って空中に放った。
すると、花弁からたちまち煙が舞い、そこから人間のような姿が現れた。
少年は、煙の中から現れた人物に目を見張る。
「お、お兄ちゃん……?」
「お、健じゃねぇか。どうしたんだ」
煙の中から現れた、兄と呼ばれた青年は、何事もないように答える。
あまりにも平然と反応した目前の人物に、健と呼ばれた少年は、信じられない、といった表情で、赤髪の少女と兄の姿をした何者かを交互に見る。
少女は、少年の視線を受けながらも、反応を示す気配は感じられない。
「どうしたんだ。そんな情けない顔をして。ちゃんと受験は上手くいったのか?」
兄と呼ばれた青年は、はつらつと声をかける。
「お兄ちゃん……」
少年は力なく呟くと、兄の姿をしたそれに近寄った。
「お兄ちゃんの言う通り、あの時頑張ったから、ちゃんと受験も上手くいったよ……」
「おっ、さすが健だな。やればできる子なんだから」兄は笑顔で答える。
普段と変わらない兄の姿に、少年は口をぎゅっと結ぶ。
「ごめんなさい……僕、ずっと後悔していたんだ。なんであの時ちゃんと謝らなかったんだろうって……」
「今朝の喧嘩のことか? まだそんなこと、気にしていたんかよ」兄は、繊細だな、と言いたげな表情を浮かべる。
「ずっと、ずっと言いたかったんだ……まさか、もう二度と会えなくなるだなんて思いもしなかったから……でも、こうして今、ちゃんと言えてよかった……」
「これからは、ちゃんと顔上げていけよ」
兄は優しくそう言うと、姿を消した。少年はその場にしゃがみ込み、静かに涙を流した。
「うん……ありがとう。僕、これでやっと頑張れるよ……」
少年は何度も頷くと、眩しそうに夕日を見上げた。
その瞬間、どこからか吹いた突風が少年を襲う。それと同時に彼は力が抜けたようにその場に倒れ込んだ。
墓石に生けられた花が舞う。はらはらと花弁が散る中、少年は墓石に頭を乗せ、腕をだらりと投げ出していた。
目を見開いたままの顔からは徐々に生気が失われ、未来への希望が秘められていた光も儚く消灯した。
「今回もAランク。お見事」
力なく静止している少年の奥、全身黒服に包まれた痩身の青年が、今まさに一刈り終えたばかりといった佇まいで地に足を付ける。
口元からはツルのようなものが伸び、尖った歯を見せながらそれを咀嚼する。
「いちいち囃し立てないで」
赤髪の少女は、凛と背筋を伸ばして答える。手には、先ほどの紫の花とは別の形状をした、まるで先ほどまで生命が宿っていたかのような生き生きとした色の花を所持している。
少女は手に持つ花をどこからか取り出した小瓶に入れる。きゅっとコルクの閉まる音が鳴ると、付けられたラベルからは「種名:下鴨健 ランク:A」の文字が浮かび上がった。
「未来への希望を抱かせた瞬間に花を咲かすおまえは、本当に容赦がねーな」青年が軽い調子で揶揄う。
「雑草が消えた瞬間が、絶好の開花時期。質の良い花を刈るには、当然のことだわ」
少女は手元の小瓶を見つめながら呟いた。
「いいなぁ……」
低く、沈んだ声がその場に響く。振り返ると、そこにはこの地に根付く遺恨が出現していた。
人型ではあるものの器を失っていることで姿は透け、またこの世への未練から発生したことからその表情は哀し気であり、恨めし気でもあった。
「いいなぁ。僕も成仏させてよ。ずっと苦しいままなんだよ……」遺恨は、恨めしそうに少女に迫る。
「悪いけど、私は生きた人間専門。だからそっち専門に言ってもらえるかしら」
少女は、ゴミを見る目で突き放すように答える。
「そんなこと言わないでよ」
「もうこの場に留まり続けているのは嫌なんだ」
「救ってよ」
いつの間にか、少女の周囲は遺恨で溢れていた。
「すげぇ数だな」青年は愉快そうに嗤う。
そう言えばこの場は墓地だったか、と少女は軽く周囲を見回す。
墓地は種の失った器が眠る場所だと聞いている。器に絡みついたままの雑草が放置されたことで遺恨として面倒な存在になってしまった。
少女は溜息を吐く。みんな、手を抜くからこんなことになるのだ。
「汚いわ。近寄らないで」少女は無愛想に呟く。
「ねぇ、お願いだよ」
「助けてよ」
遺恨たちは彼女の言葉を無視して、各々助けを求める。
少女の顔が僅かに歪む。「ゼンゼ」
途端、青年は地を蹴って飛び上がり、手を大きく振ってその場の遺恨を一掃した。
青年は刈り取った遺恨を乱暴に掴むと、口を大きく開けて尖った歯で齧りつく。
「まっず」青年は顔を歪めて漏らす。「やっぱり、遺恨は味が最悪だわ」
「無闇に喰べるのはやめて」少女が険しい顔で制す。
「俺の歯は、そんなにヤワじゃねぇよ」
不味いと言いながらも、青年は遺恨をしっかり噛み締めて味わう。「錆びたら磨けばいいだけだ」
そんな彼を横目に、少女は溜息を吐く。
「みんな、手を抜きすぎだわ。だからこんな荒れた地になっている」
「別に、手入れはルールじゃねぇ」
青年は咀嚼しながら相槌を打つ。「俺らの仕事はただ、人間の魂を取ればいいだけだ」
少女は関心を示さずに、手元の小瓶に入れられた花に目をやる。
質を阻害するものを一切排除した環境下で咲かせた花。
先ほど見た遺恨が残らないほどに、凛と筋を伸ばして咲いている。
「手入れも簡単なものでしょ。きれいな花はきれいな人間を生む。そうしてこの世は循環されるのに」
「いんや、おまえはまだ知らねぇだけだ」
予想外の反応に、少女は怪訝な顔で振り向く。
「人間は、そんな簡単なものじゃねぇよ」
青年は遺恨をきれいに平らげ、指を舐めながら諭す。
否定されたことに少女は少し不快感を表す。幼い体躯であることからも外見相応の反応と見て取れる。
少女は、無言で小瓶を青年に渡す。
青年は恍惚とした表情で小瓶の中の花を眺めた後、そのまま丸呑みした。
ごくんと喉を鳴らすと、青年は「やっぱり、質の良い花は最高だ」と満足気にお腹をさする。
「次、いくわよ」
「へいへい」
凛と背筋を伸ばして歩く少女の背中を青年は肩を竦めながら追った。