英語は、入学前の課題の結果によって階級がわけられ、唯一クラスというものが決められている授業だ。
偶然拓哉と同じだったものの、基本的に大教室で行われる講義をメインに履修していた為、少人数のクラス単位で行う初めての授業に胃が痛くなる。
開始までまだ三十分近くあるにも関わらず教室に辿り着いていることからも、無意識に身体にも緊張が表れていた。
あまり使用されていない校舎なのか、廊下には人の姿は見られずに閑散としている。学内の端に位置する北校舎である為、日の光は届かずに薄暗く、皆から存在を忘れられたかのようにひっそりとしていた。目前の閉ざされたドアの奥からはまだ人気が感じられない。
しかし戸を開いた瞬間、綺麗な赤髪が目に飛び込む。
「英語、同じクラスだったんだ」
俺は目前に座る赤髪の少女に声をかける。俺に気づいた彼女は、無言でこくりと頷く。
近いうちに、とはこのことだったんだ。俺の知る限り、同じ高校でこの大学を志望した知人は拓哉しか把握していなかったので、名簿まで確認していなかった。
ふと彼女の座る席の机上を見ると、花束が置かれていた。
「その花、どうしたの?」俺は素朴に問う。
「あの人に渡そうと思って」
赤髪の少女は、窓の奥を指差して答える。
「あの人?」
つられるように窓の外に顔を向けたところで、あぁ、と目を落とす。
「そっか、あの建物だったんだ」俺は、窓へと近寄りながら呟く。
窓の正面から見える、俺らがいるこの校舎と隣接している建物。
立入禁止を示すロープが張りめぐらされ、今は使用されていないとわかる。
その建物玄関の傍らには、いくつかの花束が添えられていた。
「去年の今くらいか。あの建物から、人が飛び降りたって」
ちょうど一年前、受験の為に大学を選別している時だ。この大学、「花埼大学」内の校舎から女性が飛び降りて自殺をした、というニュースを耳にした。
立入禁止にされていたり、花束が添えられていることから、目前に見える建物が使用されたとわかる。
理由は詳細には知らないが、この大学の受験で落ちた人らしい、とどこかで聞いた。
その話は次第に尾鰭がつき、「あの建物に近づくと、自殺願望が生まれる」「飛び降りた女性の幽霊が出る」といった不穏な噂が流れたことで、うちの高校から花埼大学に志望する生徒はほぼいなくなった。
俺はここが一番自宅から近場だったこと、特に行きたい大学もなかったことから、噂は耳にしていたものの特に気にせず志望した。
周囲からは正気か?といった目で見られたが、人望厚い拓哉も同じ大学を志望していたと判明してからは何も言われなくなった。
「それにしても、優しいね。わざわざ花を用意するなんて」
俺は素直に感心する。先ほど彼女が他人事のように「あの人」と言ったことからも、身内や知り合いではないだろうと感じ取れたからだ。
「私、花を育ててるから」
「へぇ。そうなんだ」素朴に驚く。「家は、花屋でもやっているの?」
世間話のように問いかけるが、聞こえていなかったのか、彼女は目前の花をただジッと見ていた。俺はやりずらくなって顔を逸らす。
壁にかかった時計を確認するが、授業開始までまだ二十分もあるようだ。
「花は、繊細な生き物なの」
どのように時間を潰そうか悩んでいると、少女の声が耳に届き、顔を向ける。
彼女は、先ほどと変わらずに花を見つめたまま言葉を続ける。
「毎日肥料を上げて、水をあげて、それでも現れる害虫や雑草を取り除く。こまめに手入れした結果、綺麗な花が咲く」
少女は淡々と、しかし丁寧に説明すると、花束へと手を伸ばす。
「人間だって、同じ」
少女は花束からひとつ花を取り出すと、俺に差し出した。
「人間も……?」俺は流れるように、花を受け取る。
「人間だって、毎日経験を積んで成長する。その経験は、良いことから悪いこともある。でも」
少女は立ち上がると、俺の元まで寄り、顔を寄せる。
本当に同じ人間なのか、と疑うほどに無機質な彼女の視線に、反射的に背を逸らす。
「後悔や未練は、害虫や雑草と同じ。ずっと残すと、身体を蝕み質を落とす。最悪、怨念としてこの世に留まることになる。だから、できるだけ取り除いた方が良い」
少女は、淡々とした調子で俺に告げる。
いきなり何の自論を語るのだ、と頭がついていけてなかったが、ふと俺のことを指しているのではと気づく。
俺は自分の余計な一言のせいで、付き合ってた彼女に振られ、「何故あんなこと言ってしまったんだ」という『後悔』の形で今、心に染み付いている。
彼女はその後悔を残したままだとダメだ、と言いたいのだろう。
確かに、恋人への未練によってストーカーが生まれ、犯罪に手を染める過程を警察特番でよく目にするし、ホラー映像や心霊写真などは、この世に未練があるからその存在が表に現れる、と心霊特番でよく耳にしていた。
とは言っても、「後悔を取り除く」だなんて、あまりにも簡単に言うものだ。
「……それができたら……みんな苦労してないよ」
気づけば口に漏れていた。
少女は動じることなく、俺に顔を向ける。
「どうしても取り除くことができないから……やり直すことができないから……後悔として残るもんだろ……」
俺は視線を落としたまま、言葉を続ける。
「言ってしまった言葉を言ってないことになんてできない……なかったことになんて……できないんだよ……」
俺は、胸元の服をぎゅっと掴みながら、滔々と述べた。
少女は、相変わらず感情の欠落した表情で俺のことを見ていた。
その瞬間、スマホが鳴って我に返る。
慌てて画面を見ると、拓哉だった。
「おまえ、今どこにいるんだ!?」拓哉は、焦燥気味な声で問う。
「え?もう北棟の教室にいるけど……」
俺は驚きながら答える。俺の返答を聞いた拓哉は、「北棟ー!?」と声を上げた。
「正反対じゃねーか!南棟の三階三○五だぞ。初回から遅刻する気か?急げ」
「わ、わかった……」
彼の勢いに押されるまま、電話を切った。
「ねぇ、教室ここじゃないって……」と少女に振り返るが、そこで首を傾げる。
「あ、あれ?」
少女はいつの間にかいなくなっていた。
俺たちの会話が聞こえて、慌てて南棟へ向かったのかもしれないが、それにしても物音なくいなくなるものだ。
首を捻りながら、指示された教室へ小走りで向かった。
***
今日は六限まで講義を入れていたので、外に出ると、すでに日は落ちていた。周囲は暗く、この時間まで残っている生徒も少ないからか、騒がしい昼間と雰囲気ががらりと反転する。夜の学校は、いつになっても心がそわそわするものだ。
拓哉が事務室で書類手続きをしてる間、俺は近くのベンチで茫然と空を見上げながら待機していた。
結局あの後、赤髪の少女は英語の授業に現れなかった。てっきりあの時、教室に向かったものだと思い込んでいたので、彼女の行方が気になっていた。
黒くて目立つ衣服を身に纏い、小柄な体格に整った顔立ち、感情の起伏が感じられない表情から人形を彷彿とさせる少女。
一目見た時から気になっていたものの、彼女と関われば関わるほど謎が深まった。
そこで、はたと気づく。
「俺、あの子の名前すら知らないんだな……」
俺は苦笑する。そんな初歩的なことすら尋ねていなかったのだな、と己の無能さに頭を掻いた。それだけ自分のことしか考えられていなかったんだと気づかされる。
お待たせ、と馴染みの声が耳に届いたことで思案を終了して帰路につく。
「なぁ、春太。本当に大丈夫か?」
隣で歩く拓哉は、心底心配するように俺を見る。
「俺、そんなやばい人に見える……?」
引き攣った顔で尋ねると、拓哉は「うん」と即答する。俺は苦笑する。
しかし、そこでふと思う。
「でも、少しだけマシになったかもしれない」
「お?それは前言ってた、気になる子によって?」拓哉は、にやにやした顔で俺を見る。
「べ、別に、そんなんじゃないけど……」俺は険しい顔で首を振る。
ずっと元カノのことばかり考えていたが、今ではあの赤髪の少女のことが気になっている。
もちろん後悔がなくなったわけじゃない。ただ、あまりにも謎に包まれた彼女の出現によって、気を逸らされていることは確かだ。
そこで、はたと立ち止まる。
「そっか、取り除くなんてことはできないけど、上書きすることはできるのか……」
彼女と出会うまでは、立ち直れる気なんてしなかった。こんなに苦しむのならば、いっそ身投げしてしまおうと本気で考えた時期もあった。
しかし今では、あの少女の存在が気になり、苦しむ余裕すらなくなっている。
「俺って案外、単純なものなんだな……」
嫌なことは、思い出したくないことは、別の事柄で「後悔」に蓋をすれば良い。そして錘を再び持ち上げる余裕すら無くせば良いだけだ。
男は新規保存で女は上書き保存、だなんて言葉はどこかで聞いたが、俺はまさに上書き保存タイプなのだろう。
益々女々しいな、と苦笑する。
感情というものは、こんなにも簡単に変化するものなんだ。
何故かわからないが彼女に呼ばれてる気がして、無意識に元来た道を戻っていた。
後ろから拓哉の叫ぶ声が聞こえるが、今はそんなことに構う余裕がなかった。
うちの大学では履修が組める時間は基本的に六限までで、今日の講義は全て終了している。
教室の電気は消え、生徒も教授も帰宅していることから、先ほど学校を発った時より一層、不気味に感じられる。
「何、やってんだろ……」俺はポツリと呟く。
何となく戻ってきたものの、赤髪の少女どころか、人気すら感じられない。
ひやりとした外気がまだ冬の名残を知らせ、ヒートしていた頭が徐々に冷えていった。
家に帰ろうと振り返った瞬間、「うわあああ!」と肩を飛び上がらせる。
俺の背後に赤髪の少女が立っていた。普段と変わらない感情の読めない顔で俺をじっと見ている。
「き、君……」
「まだ、帰ってなかったのね」少女は淡々と問う。
「それは、こっちのセリフだよ……」俺は苦笑しながら頭を掻く。
彼女に会いたい、とは思っていたものの、正直何を話すか全くまとめられていなかった。
「きょ、今日さ、君は後悔はできるだけ取り除いた方が良いって言ったよね?」
そう尋ねると、少女は無言でこくりと頷く。
「俺が言ったように、後悔を取り除くことなんてできないと思うんだ。でも、蓋をすることはできる。だからそうやって、苦悩を乗り越えていくしかないんじゃないかな」
先ほど考えたことをそのまま口にしたが、自論を語ったことに何だか恥ずかしくなり、いたたまれなくなる。
俺の言葉を聞いた少女は、目を瞑って思案する顔つきになる。
「確かにあなたの考えが通常、でも」
少女は顔を上げて俺を見る。
「それだと結局、質は落ちる」
そう呟いた瞬間、少女がパチンと指を鳴らす。
突然の行動に目を丸くするが、それと同時に俺の中から何かが湧き上がってきた。
「何だ……?」
それは蓋で閉められたばかりの、思い出したくもない後悔の記憶だった。
***
高校二年の春、俺はずっと好きだった女の子に思い切って想いを告げた。高校生の青い春を謳歌する友人に触発されたのがきっかけだ。
相手は美波 桜(ミナミ サクラ)。誰にでも等しく接し、男女共に人気の高い彼女だからこそ玉砕覚悟の上だった。想いを告げる、という行動ができただけでも俺は満足だったんだ。まさかOKをもらえるだなんて予想もしていなかった。
それから俺の高校生活は、輝かしいものへと変貌した。
今まで流していた誕生日やクリスマス、バレンタイン、といった行事も、桜がいるというだけで特別な日となった。付き合った記念日をお祝いする、という、恋人がいるものにだけ訪れる毎月のイベントも経験した。初めての彼女だっただけに舞い上がっていたのだろう。
お互い実家なのと、俺があまりにも勇気がないことで、手を繋ぐ以上の進展はできなかったものの、桜と一緒にいられる時間が本当に幸せだったんだ。
この時間が永遠に続けば良いのに。心の底から思っていた。
だが、現実はそう甘くない。
高校三年生の春、一年目の記念日にデパートでランチを食べている時だ。
桜から、衝撃的なことを告げられる。
「私、東京の大学に行きたいの」
「え……?」
あまりにも唐突な告白に、俺は手に持っていたフォークを落とす。
慌てて拾おうとすると、颯爽と店員が俺の元まで寄り、優しく微笑み替えの品を差し出す。俺は頭を掻きながらそれを受け取る。少し背を伸ばした店なだけに、対応はさすが、と言うべきか。
「私の尊敬する方の研究所が東京なの。春太くんには早めに言っとかないとって思ってさ……」
桜は、おずおずと口にする。
「と、東京か……すごいね。桜なら大丈夫だよ……」
俺は顔を引き攣らせながら答えた。今持てる最大限の賞賛の言葉だった。
以前から彼女は科学に関心があるとは知っていたし、大学も理系に進むんだろうなとは思っていた。
だが、ほぼ毎日会っているにも関わらず、いきなり遠距離だなんて耐えられる気がしない。それに何でよりによって今日なんだ、というよくわからない怒りすら湧いていた。
だが、本音を口にしたところで、真の通った桜の考えが変わるわけでもないだろうし、明確な意思を持って道を選択した彼女を応援したい、という気持ちは少なからずあったんだ。
それからは、毎日感情を殺して日々を送っていた。進路の話題になるたびに大学生になったら離れ離れになるんだな、と寂しくなるが、表に出さないように繕う。
俺も東京の大学に進学しようか考えた時期もあるが、ただでさえ私立の大学だけでも学費が馬鹿にならないのに、彼女が行くから俺も上京したい、だなんて親に言えるわけがなかった。
そして、桜が東京へと旅立つ三月二十八日。
見送りで最寄り駅まで来ていた。ホーム内には、「電車が参ります。黄色い線より内側に立ってお待ちください」といったアナウンスが響く。
いよいよ離れ離れになるんだ、と俺は視線を落として口を噤んでいた。
桜の乗車予定の電車が到着する。隣に立っていた桜は、颯爽と足を踏み出すと「元気でね」と俺に手を振る。
彼女の平然とした態度に、桜は寂しくないのかよ、と何故か怒りが湧いてきた。記念日に告白するくらいだ。
そうだよな、憧れの教授の元で勉強ができるのだから彼女にとったら今日という日は待ち遠しかったんだろう。
もしかしたら、彼女にとって、俺はそこまで大きな存在でもないのかもしれない。
「…………受からなければよかったのに……」
思わず口から漏れていた。その言葉を聞いた桜は目を丸くして、小さく息を吐いた。
「そんなこと、言うんだ」
「え?」
「純粋に応援してくれてると、思ったのにさ……」
さよなら、と彼女は手を振った。その意味がどういった種類のものかわからずに思わず電話を鳴らす。だが、彼女は応答しない。
電車の中で電話が出られるわけないと、自分を励ましてメッセージアプリを開いたところで目を丸くする。
「今までありがとう。楽しかったよ。新しい環境でも頑張ってね」
その言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。
***
「やっと……やっと忘れられると思ったのに……」
俺の脳内には、どんどん後悔の記憶が映し出されていた。
視線を感じて顔を上げると、少女が俺を真っ直ぐ見ていた。
「ほら、見て」
そう言って俺を指差す。つられて視線を辿って自分を見て驚愕した。
「何だ!?何だよこれ……!?」
俺の身体から、うじゃうじゃと植物のツルらしきものが生えていた。
慌てて手で払うも、ツルは実態ではないのか触れることすらできない。
物理的に違和感は感じないものの、視覚的に奇妙な光景であることには違いない。
「気持ち悪い……!何だよこれ……」
俺はパニックになりながら全身をさするが、一向に消える気配は感じられない。
「それが、あなたの後悔」
少女は、変わらない表情のまま俺の元まで歩く。俺はなす術なく、縋るように彼女を見る。
「蓋をしたところで、後悔というものは簡単に表に現れる。だから結局、取り除くしかないのよ」
少女は淡々と述べる。
あまりにも平然と言う彼女に、今では怒りすら湧いていた。