「取り除けるとしたら?」
「え?」
予想だにしていなかった言葉に思わず顔を上げる。
「私はその為に、あなたの元にやってきた」
そう言うと、少女はどこからか分厚い本を取り出してページをめくる。俺はただ呆然とその様子を眺めていた。
「問題の時間は、三月二十七日の午後十二時三十八分」
少女は、本に羅列されている文面を読み上げる。
三月二十七日は、桜がこの街を去った日だ。
「一体、何のことを……」
「次は、後悔の根を残さないようにね」
少女はそう言うと、いつの間にか所持していた紫色の花の花弁を一枚千切って宙に放った。
それと同時に、俺の視界は暗くなった。
***
桜が驚いた顔で俺を見ている。
はっとして頭を振ると、地元の駅のホームだと気づく。電車が到着したようで、乗車する人、降車する人で周囲はザワザワしていた。
「あれ……俺、さっきまで……」
つい先ほどまで大学にいて、目前には赤髪の少女がいたはずだ。
しかし今、俺の前には桜が立っている。
「そっか……素直に応援してくれてると、思ってたんだけどね」
聞いたことのある言葉だな、と思い出して顔を上げると、呆れたような表情で電車に乗車する桜が目に入る。
「え……?」
状況が読めずに、ただ呆気に取られていた。ピリリリリッと発車を知らせるベルと同時に、プシューッとドアの閉じる音が鳴る。
「さようなら」
その言葉だけが残され、電車は発車した。
俺はこの場で、茫然と立ち尽くしていた。
「何だ……この、デジャヴ感……」
いや、デジャヴじゃない。俺は知ってる。この後にどのような展開になり、その結果、俺がどんな有様になるのかも。
そこで、あの赤髪の少女の言葉を思い出す。
――――次は、後悔の根を残さないようにね
「まさか、時間が戻ったのか……?」
時間が戻るだなんてことあり得るわけがない。だがそうでないと、今のこの状況に説明がつかない。
しかし、そこでふと思う。
もしも仮に、あの少女の言った通りに、後悔を取り除く為に時間が戻ってるとして、
今の桜の様子、
あれは明らかに、
「俺が失言した後じゃねーか!」
なかったことにすると言いながら、何故よりによって発言した後に時間を戻すんだ。
慌てて時刻表を確認する。しかし、次に来る電車は一時間後だった。
「ああぁ……これだから田舎は……!!」
ここまで自転車で来ていたことを思い出すと、慌ててホームを飛び出した。
駐輪場に止めていた自転車にまたがると、勢いよく漕ぎ始めて電車を追った。
競輪選手でもなければ、自転車で追いつくはずがない。だが桜の乗った電車は次の駅で乗り換え連絡で十分近く停止する。その間にかけるしかない。
俺はペダルをがむしゃらに漕いで電車を追った。
あまりにも雑に扱ったことで、途中で自転車のチェーンが外れてしまった。
「くそっ……なんでこんな時に……!」
俺は慌てて自転車から降りる。かなり乱暴な漕ぎ方をしていたのかチェーンは複雑に絡んでいた。その間にも桜の乗った電車は遠のいていく。
焦燥にかられていると、目前をタクシーが過った。俺は反射的に手を上げて呼び止めていた。
後部座席のドアが開かれると、俺は勢いよく転がり込んだ。
「大丈夫かい?」
息を取り乱してる俺に、年配の運転手は気を遣って声をかける。
「すみません……あの……」と、俺は窓の外で遠のく電車を指差す。「あの電車を追ってください」
「電車を?」運転手は目を丸くする。
「はい……できるなら、あの電車が次の駅から発車するまでに……」
いきなり突飛な要望を言ってしまったことに赤面しながら、言葉を付け足す。
「ははっ。長年この仕事をしてるけど、さすがに電車を追ってと言われたのは初めてだね〜」
よし、おっちゃん。ちょっと頑張っちゃうよ、と運転手は、気合を入れてハンドルを握る。
この辺りの地理はもちろん、信号のタイミングすらも脳内に刻まれているのか、運転手は信号につかまることなく狭い住宅街を器用に抜ける。
ブレーキを踏む時間すら削っているのか、ハンドルを切るたびにシェイクされるように身体が傾き、シートベルトをしていないと確実にきれいにミックスされていただろう振動だった。
彼のお陰で、電車が到着する前に駅に辿り着いた。
「追うどころか、先越ししちゃったね〜」と運転手は満更でもなさそうに肩を竦める。
彼の気遣いと見事なハンドルさばきに感服して、俺は五千円札を取り出すと「お釣りはいらないです」と言って車内を出る。
足早に改札を抜けると、電車の到着を知らせるベルが鳴り響く。気持ち急いでホームまで向かう。
焦燥にかられていたせいで、途中、逆ホームに向かっていたと気づき、慌てて引き返す。急いでいる時ほどする凡ミスほど、腹が立つものはない。
ホームが見え始めると、「発車します」とのアナウンスと共に出発のベルが鳴り響く。俺は足がもつれそうになりながら必死にドアまで駆けた。
電車が発車すると「駆け込み乗車はおやめください」とのアナウンスが流れる。
確実に俺のせいだ。膝をついて息を切らしていることからも、周囲の人たちも俺のことだと察しているのだろう。肩を窄めてそそくさと壁に寄りかかる。
この電車に桜は乗っているはずだ。俺は数分その場で息を整えた後、周囲を見回しながら電車内を徘徊した。
三回ドアを開けて辿り着いた車両に桜の姿があった。スマホで何か文字を打ち込んでいる。俺は、はっと気づく。
確か以前は、桜と別れてから一時間後くらいに例の連絡が来たはずだ。
「さ……桜……!」
急いで声をかけると、桜は俺を見て目を丸くした。
「春太くん……?何で……?」
桜は周囲をきょろきょろ見回す。駅で別れたはずなのに、何故同じ電車に乗っているのか、と疑問に思っているのだろう。確かにそう思うのも不思議ではない。
だが、俺は前回の記憶が蘇って恐怖を感じたことで、続ける言葉が全て吹っ飛んでしまった。
「どうしたの?」
どう弁解すべきか頭を悩ませていたが、汗まみれでいまだ肩を上下させている俺を見て察したのか、桜は俺を見る目の色を変えて、いつもの優しくて温かい声で尋ねた。
その声に安堵して、俺は身体の強張りを解く。
目を瞑って大きく深呼吸すると、真っ直ぐ桜に視線を向けた。
「ごめんなさい。俺、桜と離れ離れになることが寂しくて、でも桜はあまり寂しそうに見えなくって、つい、思ってもないことを口走ってしまった……」
俺は素直に本音を吐き出した。ただでさえ脳が回っていないのに、上手く取り繕えるわけも、ましてやここに来てまで感情を抑えるだなんてできるわけがなかった。
桜は、黙ったまま俺を見ている。
「でも、桜のこと応援していたのは本当だから……だから……」
俺は再び大きく息を吸うと、彼女の旅立ちを後押しするように力強い目を向ける。
「東京でも、頑張ってね」
俺は、はっきりと意志を伝えた。
寂しくないわけがない。それに今でも正直、遠距離になるのは嫌だ。
だが、ずっと頑張る彼女を応援していたのも事実だ。
まっすぐ目標に向かう彼女の姿は、一番輝いていたしかっこいいと尊敬していた。だからこそ、俺だってこんなに自慢できる彼女ができたことを誇らしく感じていたんだ。
俺の言葉を聞いた桜は一瞬目を丸くするも、ふふっと柔らかく笑った。
「まさか、それだけを言う為にこの電車を追って?」
「それだけって……」俺は苦笑する。だが、発言に軽快さが感じられることからも、冗談で口にしたとは伝わる。
「春太くん。本当にまっすぐだよね。これしかないって思ったら、がむしゃらに、一直線」
桜は小さく笑いながら、言葉を続ける。俺は恥ずかしくて、下を向く。
「でも、だからこそ、いつも元気づけられてたの」
桜はそう言うと、俺に視線を向ける。
「ありがとうね」
「桜……」
俺は、一気に肩の力が抜けた。桜は、手に所持していたスマホを鞄へと戻す。
「正直、さっきまでもうだめかなって思ってたの」
その言葉が聞こえた瞬間、再び俺の身体が強張る。
その通り。前回はダメだったんだ。
だが、彼女は調子を変えずに言葉を続ける。
「でも、春太くんがこうしてここに来てくれて、本心で話してくれて嬉しかった。むしろ、私も自分勝手だった。春太くんがいるのに、きっと応援してくれるだろう、って勝手にここを出ることを決めて、そして何も言わずに応援してくれていたからさ。私の方こそ意地になってたのかもしれない。春太くんが、あまりにもまっすぐに応援してくれるから。春太くんは、寂しくないんだって……」
「え?」
思いもしていなかった言葉に、俺は目を丸くする。
「お互い、意地を張っていた、ってことだね」桜はへらっと力なく笑う。
頭が追い付かないまま呆然としていると、桜が小さく息を吐いて天井を見上げる。
「だって、私……」桜は、心なし照れ臭そうに目を細める。「ちゃんとこの先のことだって、考えているから」
「そっそんなの俺だって……!!」
俺は張り合うように、無意識に叫んでいた。
桜が苦笑しながら、口元で「しーっ」と指を立てたことと、同じ車両の人たちからの刺さる視線により、今この場が車内だと思い出し、俺は肩を窄める。
桜との間には沈黙が流れた。だが気まずいものではなく、お互いにむず痒さを感じていた。
「あ、次、降りる駅……」
桜は、話題を逸らすように車内表示を見上げる。いつの間にか、随分時間が経っていたようだ。
ホームに辿り着いてからも、何を口にすべきかわからずにそわそわしていた。
さすがに乗り換え先までついていくのは悪い。
本当にこれでしばらくお別れになるものの、今では寂しくなくなっていた。
その瞬間、強い風が吹いて反射的に目を瞑る。それと同時に、俺の中から何かがずるりと抜ける感覚が襲う。次第に、今まで感じていた錘が全て吹っ飛んだかのように身体が軽くなった。
「何だ……?今の風……」
何気なく風の吹いた方へと顔を向けたところで、目を見張る。
全身真っ黒のコート服に包まれた、痩身の男性が立っていた。頭に被られたフードの奥からは、銀色に輝く髪と、真っ赤な瞳が覗く。右目が眼帯で隠されているとはいえ、鋭く尖った目元も相まって眼光は強く感じられ、何か食べているのか、口元が咀嚼するように動いていた。
彼から醸し出される異様で異質な空気に、何故かわからないが、どこか親近感を覚えた。
不意に足を止めた俺に、桜も足を止めて振り返る。
「お疲れ様」
どこからか声が届き、正気に戻る。
振り返ると、そこには赤髪の少女が立っていた。
「君……」
「取り除けたようね」少女は、相変わらず感情の欠落した表情で答える。
「いまだに何が起こったかついていけてないんだけど……でも、これって君のおかげだよね。ありがとう」俺は心からお礼を伝える。
時間が戻る、だなんていまだに信じ難いことだ。だが現に今、以前まで抱いてた負の感情は全く感じられず、むしろ今では、この先に訪れるであろう未来が楽しみにすらなっていた。
今の俺は、誰よりも生き生きと輝いているに違いない。
「でも、何で言った後に戻したの?言う前なら、俺、あんなに頑張らなくてもよかったのに」
正直、今の結果が得られたことから、どうでもいいことではあるが、気になっていたので素朴に尋ねた。
「言う前だと、あなたは本心を彼女に伝えられていない。それだと、いつかまた暴発するタイミングが来る」
少女は淡々と答える。
確かに、今まで抑えていたせいで俺はあんな言葉を口走ってしまったんだ。
俺はずっとギリギリのラインで耐えていた。このタイミングは良くても、きっといつか俺の気づかぬうちに似た未来が訪れていたに違いない。
「根本から後悔を取り除く、とはこういうことなのよ」
赤髪の少女は、俺をまっすぐ見て言った。
「うん……。本当にありがとう……」
俺は心から感謝の気持ちを伝えた。
視線を感じて振り返ると、桜が訝し気な目で俺を見ていた。少女のことばかりに気を取られてしまっていた。それに、しばらく立ち話をしたせいで、周囲にもほとんど人がいない。
「えっと、この人は……」
と説明しようと振り返ったところで、「ねぇ、春太くん……」と、桜は少し困惑した表情で口を開く。
「さっきから、何一人で話してるの?」
桜が何を言っているのかしばらく理解できなかった。
「……え?」
俺は、赤髪の少女に振り返る。気付かぬうちにいなくなっていたことはあるものの、今回彼女は、まだここにいる。顔見知りなのか、先ほどの全身黒服の青年の元まで凛とした佇まいで歩いていく。
俺は再び、桜を見る。
「え、いや、だからこの子……」と少女に手を向けるも相変わらず桜は表情を変えない。
「あまりにも誰かと話してるような感じだから、私、全然ついていけてなかったんだけど……」
「何……言ってんだ……?」
俺は状況が読めずに混乱する。
随分長い間この場に留まっていたのか、閑散としたホーム内に「特急電車が通過します」とのアナウンスが鳴り響く。
桜は、「そろそろ行かなきゃ」と腕時計を確認する。
頭が回らずに呆然と立ち尽くしていると、赤髪の少女が足を踏み出し、口を開く。