3【清水 夏帆】③




大自然に囲まれた森の中を走る。私は足を進めながら周囲を見回す。
持久力がなく、運動は苦手ではあるものの、普段走る廊下の固い地面ではなく、柔らかい土が足への負担を軽減し、さらに自然に囲まれた中走るのは心地いいものだった。

無意識に大きく息を吸う。高層ビルに交通機関のたくさん通る都心の虹ノ宮市とは違い、森林により浄化された空気が美味しく感じる。
隣に流れる川の透き通ったせせらぎにより、心が浄化される。そばに咲いた花も陽の光で澄んだ青色に映えていた。
木々から発せられるマイナスイオンを全身で浴び、天を覆う木々から漏れる日差しは緩やかで、もうすぐ夏の終わりだと知らせているようだった。

「ちょっと、いいかも……」
私は無意識に笑顔になっていた。

感情の電卓があるとするならば、私はマイナスで、ナツがプラスなのだろう。いや、彼女と接すると、相乗効果をもたらすことからカケルの方が適切だ。
すぐにマイナスのことにばかり目を向ける私だが、彼女の傍にいるとものの見え方が変わる。ハードな練習も楽しいと思えるようになっていた。

どこかでひぐらしが鳴く。遠くで騒ぐ声や演奏の音と混ざり、すっと耳に届く。
澄んだ風により、森林の葉の擦れる音も共鳴する。
私は無心になって、森の中を走っていた。

妙に静かだな、と目を開けた瞬間、我に返る。

「ここ、どこ……」

自然に身を任せていたことで、全く周囲を見ていなかった。

私は、いつの間にかコースを大きく逸れ、山奥まで来てしまっていた。

「や、やばい……」

慌てて周囲を見回すも誰もいない。あれだけ広い宿舎であるにも関わらず、今いる場からは、どの位置に建物があるのかすら判別がつかない。

焦燥気味に徘徊するものの、動けば動くほど見知らぬ光景に移り変わる。むしろさらに山奥へ向かっているのでは、という感覚に陥る。

日も低くなり、木々に覆われていることでひっそりとした空間に変わる。
夏の終わりを知らせる風が吹く。疲れが溜まった身体であるとはいえ、ひやりとした空気を感じたことで私の背筋は凍った。

無我夢中で帰路を探していると、奥に人影が見える。
その人はTシャツにジャージとラフな格好をしており、顔は見えないものの私たちと同世代の女の子のように見える。
彼女も私と同じく迷子になったのかな、と勝手に同士と判断して安堵の息を吐きながら近づく。

「すみません。あの、あなたも合宿に来た人ですか……?」

声をかけるも、その人は反応しない。

先ほどとは違う、ピンと張り詰めた空気が漂う。
焦りから大脳で考えるよりも先に行動してしまったが、私はしまった、と顔が強張った。

私の目前に立つその存在は、ぐるり、とこちらに顔を向ける。私はヒッと声が漏れた。

「あなた……私が見えている……」

その存在は、恨めしそうな顔で私に近づく。
私と同じ年齢に見えるが、生気の感じられない白い肌だ。

「いいなぁ……本当は私も大会に出るはずだったのになぁ……羨ましいなぁ……」

その存在は悲し気に呟く。
彼女の呟きを聞いて、私はやるせない気持ちになる。

恐らく私たちと同じく、合宿に来ている時に事故にでもあったのではないのか。
私も簡単に迷ってしまうほどに広い山だ。奥に行くにつれて整備は甘くなり、隣に流れる川も上流に向かうにつれて勢いが増していた。

霊は大抵、固着する場所に未練や後悔があるから姿を現す、と以前テレビの心霊特集に出ていた霊媒師が言っていた。
そんな彼らが、心置きなくあの世へいける為にも、遺恨をきれいに除去しなければならない。『お祓い』という儀式は、人間を護る為でもあるが、彼らの為でもあるのだ、と。

確かに、ずっと未練を抱えたまま同じ場に留まっているのは、彼らも苦しいものだろうとは、姿の見える私には納得できる。

「ごめんね……いつか、そういった存在に祓ってもらえると、いいね……」

姿が見えていることで、いたたまれなくなり、気づけばそう言っていた。

「羨ましい……ずるい……あなたは生きてて、私は死んだ……ずるい」

だが、彼女は私の言葉には反応を示さずに、恨めしそうに何度も呟く。

無意識に後ずさるも、足が動かない。
違和感を抱いて下を向いた瞬間、目を見開いた。

「おねえさん……一緒に行こうよ……」

土からいくつもの手が伸び、私の足首を掴んでいた。

「ちょっと……離して……!」

身動きが取れず、金縛りにでもあったかのような錯覚に陥る。

その存在は、どんどん私に迫る。

霊でも、善良なタイプと悪質なタイプにわかれるのだろう。
大半は前者だが、もしかしたら彼女たちは後者なのかもしれない。

「ずるい……あなただけ楽しそうに……私ももっと生きたかった……」

「嫌……誰か……」

力なく呟いた瞬間、「ゼンゼ」と澄んだ声が響く。

それと同時に、突風が吹き、思わず腕で顔を覆った。

突如吹いた突風により、一気に身体の縛りが放たれて、思わず倒れ込む。

「な、なに、今の風……」

慌てて顔を上げると、全身黒服に銀髪で眼帯をした青年が立っていた。
鋭く光った眼光に、何か食べているのか、口が咀嚼するように動いている。

彼の姿に見覚えがあった。以前、部活の帰宅の際に赤髪の少女の隣にいた青年だ。

茫然と彼を見ていると、森の奥からまさに思い返していた赤髪の少女が現れた。

「いちいち、食べなくていい」赤髪の少女は険しい顔で言う。

「食いものは粗末にしちゃならねぇってキマリ、知らねぇのか」

銀髪の青年は、しかめっ面で咀嚼しながら答える。

唖然としていたが、先ほどの霊の行方が気になり、慌てて辺りを見回す。
だが、全く姿が見えなくなっていた。

「あ、あれ……?霊は?」

「あぁ?俺が喰ったけど」

銀髪の青年は、私に振り向き、さらりと言う。私は眉間に皺を寄せる。

霊を食べるとは、どういう意味だ。

反応に困っていると、赤髪の少女が前に出て、私に近づく。

「悪質な遺恨は人間に害。だから除去しただけ」

遺恨、文脈的に霊のことを指しているんだとは伝わった。
つまり、彼らが先ほどの霊を祓った、ということだろうか。

私の脳内で、何かがピンッと音を立てる。それと同時に、妙な興奮が湧きあがる。

「あなたたちはもしかして……霊能力者?」

鼻息を荒くして尋ねた瞬間、目前に立つ二人はポカンと口を開けた。

「私、霊に襲われてて……君たちが祓ってくれたんやろ?」

「霊能力者って?」赤髪の少女が青年に尋ねる。

「祓魔師みたいなもんだろ。ほら、前に『使徒的良法』って漫画貸してやった時に出てきたじゃねーか」

「『使徒的良法』知ってるの!?」
青年から馴染みのタイトルが飛び出たことで、脊髄反射で反応する。

「何だ?」
青年は驚いたように目を丸くする。

だが、私の興奮は最高潮に達していた。

「私その漫画大好きなんよ!誰からものけ者にされていたゼロが、最後居場所を見つけられてよかった~って息子を見守るような気持ちになったよなぁ。それにあの作品、ボイスドラマ化してるやろ。声もイメージぴったりで、PVも臨場感あってかっこいいし。何より悪魔視点の続編が出るみたいやん。いつ連載始まるのかずっと待ってるんよね。はーまさか読んでる人に出会えるなんて思いもせんかった」

はっと我に返る。
恐る恐る二人の顔を窺うと、唖然と目を見開いていた。

最悪だ。ドマイナー作品に出会えた嬉しさに、典型的なオタクっぷりを発揮してしまった。
周囲がカースト上位生ばかりで、普段話す人もいないから尚更だ。

「これが、オタクってやつね」

「そうだな」

二人はまるで天然記念物に遭遇したような目で私を見る。
いたたまれなくなって、頭を振る。

「あ、あの!私、ここに迷ってしまって……宿舎がどこか、知りませんか?」

自分のせいとはいえ、何よりも今は、雑談なんてしている暇はないはずだ。

特に期待をしたわけではなかったが、少女は「案内するわ」とくるりと踵を返す。

あまりにもあっさりした反応に虚をつかれるも、私は慌てて彼女の背中を追う。

静かな風が流れ、葉の囁きが聴こえるほどに静まり返った森の中。黙々と歩く二人の背中を追っていた。
赤髪の少女は、私よりも小柄で小学生くらいに見える背丈だが、背筋を伸ばして歩くその姿は、凛々しくてかっこいいものだ。

「二人は、兄妹?」

雑談のつもりで尋ねたが、二人から一瞬、微妙な空気が流れる。
私は慌てて言葉を探す。

「ご、ごめん。もしかして、恋び……」

「『相棒』ってやつだな」
銀髪の青年は、私の言葉を冴えぎって答える。

「あ、相棒……!」

男女での相棒関係。物語の中でよく見る設定だ。彼女たちの異質な外見も相まり、勝手に二次元的な萌えを感じて胸が高鳴った。

だが、それ以上口を開こうとしない彼らの態度からも、さすがに私も口を閉ざす。

「匂うな」

銀髪の青年が呟いた瞬間、右手にふっと音もなくその存在が現れる。
先ほどの霊を思い出して反射的に身構えるも、前に立つ二人の態度は変わらない。

「本当……汚い庭ね」

赤髪の少女は、ゴミを見る目で、その存在に顔を向ける。

「これが普通だ」

青年はさらりと答える。「また、刈ってくか?」

「余計な手間は、かけなくていい」

「でももしかしたら、害になるかもしれない」

「あなたが食べたいだけでしょう」

少女が怪訝な顔で青年を見ると、彼は何食わぬ顔で肩を竦める。

会話についていけずに、茫然とやりとりを眺めていたが、霊の見える人物と出会ったことは初めてだと気づくと、恐れ多いと知りつつも、「あの……」とおずおず口を開く。

「あなたたちも霊が見えてるでしょ?それで、普段、困ったりとかしなかった……?」

私は彼らの顔色を窺いながら尋ねる。二人は足を止めて私に振り向く。

もし、私と同じ境遇にある人物に出会った時には、聞きたいと思っていたことだ。
彼らの目にはどのように映っているのかはわからないが、私には霊の姿が、人間と区別がすぐにできないほどに、はっきり見える。
そして、彼らはみんな悲しそうな、辛そうな表情をしている。

そんな存在を目撃してもなお、『普通』に振舞えているのか。

「別にねぇな」

眼帯の青年は、尖った歯を見せてニヤニヤしながら顎を擦る。「邪魔なら、喰えばいいだけだ」

「食べるって……一体何なの」私は怪訝な顔になる。

「あなたは普段、困っているのかしら」
赤髪の少女は、眼帯の青年を無視してさらりと尋ねる。

「う、うん。だって、私……本当に人と霊との見分けがつかなくて。そのせいで、昔から気味悪がられてしまって……」

私の答を聞いた赤髪の少女は、一瞬考え込むと、私に振り向く。

「人と遺恨の見分けがつかないのは当然。だって、元々人間だったのだから」

「元々、人間……」

「人間は、未練といった負の感情を残したまま死ぬと、その未練が遺恨へと変貌する。遺恨を成仏させるには、原因となった未練をなくさないといけないのに、すでに身体は死んでいるので、行動に起こせない。結果、感情だけがこの世に棲み続けることになる。死ぬ前に、きちんと未練や後悔を取り除いていれば、そんなことにはならない」

彼女の言葉に私は同意する。テレビの霊媒師も言っていたことだ。

「うん。霊たち皆、悲しそうな顔してるもん……」

「でも、それとこれとは別ね」

少女はそう言うと、私に向き直る。

「あなたが周囲から気味悪がられていたのは、本当に遺恨が見えることが原因なのかしら」

「え?」

思わぬ問いかけに、私は虚をつかれる。

「あなたは、行動の原因を『遺恨が見えるから』と理由にしているだけじゃないの?」

淡々とした彼女の物言いに、私はカチンとくる。

「だって……そのせいで不気味がられてきたんやもん……!」

感情的になり、語尾が強くなる。
少女は特に驚くこともなく、無機質な顔で私を見る。

「見えているものが存在しているのかわからなくなって……そのせいで気味悪がられて……」

私の脳裏には、幼少期の映像が流れていた。

私が話しかけたのが霊だった、というのは、今までも何度も経験している。
周囲には、突如私が一人で話し始めたように見えるのだろう。当然、不審がられてきた。私の両親でさえ、この話題を持ち出すたびに顔が引き攣った。
唯一、ナツだけが私のことを理解して、傍にいてくれていた。

だが、彼女が転校してからは孤立した。
クラスメイトから目も合わせてもらえなければ、馬鹿にするように私を揶揄う。

全部私のせいだとはわかりつつも、悲しそうな顔をした霊を無視することが当時の私にはできなかった。
だが、周囲から避けられることにも感情が疲弊したことで、高学年になってからは、「普通」に振舞うことに徹した。

でも、一度持たれた印象は、中々消えるものじゃない。
どう『普通』に振舞おうとも、周囲は訝し気な目で私を見る。
そんな環境に、耐えられなくなった。

結果、私は両親に「転校したい」とお願いしたんだ。