4【夏原 杏里】③




三日目、リンたちの姿は再びテレビ局にあった。
玄関の広いロビーを抜けて、ドラマや映画のポスターの飾られている廊下を抜ける。『スタッフ以外立入禁止』と掲げられている看板を横目に、奥の副調整室へと向かった。

昼食後の午後ということで、気だるげに照明や音声の調整をするスタッフを避けながら、複数並ぶモニターに近づく。
「ドラマの再放送見て~」と嘆くゼンゼを無視して、目的の番組を探す。

午後の芸能ニュース番組に夏原の姿があった。

「選考会は目前ですが、意気込みなどはありますか?」
アナウンサーが夏原に尋ねる。
彼女は一瞬考え込むと、顔を上げてまっすぐカメラを見る。

「今持てる最大限の力を出します。そしていまだ達成されてない最年少記録を狙います」
夏原は力強く宣言する。そんな彼女にスタジオのコメンテーターたちも圧倒されて拍手をする。

「本日のゲストは、『伝説の歌姫』と呼ばれている翔歌さんの娘、アンリさんでお送りしました」

アナウンサーがそう締めた瞬間、夏原の顔から一瞬笑みが消える。
だが生放送だと思い出したのか、夏原はすぐに営業スマイルに戻り、丁寧にお辞儀した。

「杏里ちゃん、今日もよかったよ」
颯爽と控室へ戻る夏原に若手スタッフは声をかける。

「ありがとうございます」
夏原は優しく笑い、丁寧にお辞儀した。そんな礼儀正しい彼女に若手スタッフは目が奪われたように静止する。

夏原が一人になった瞬間に、リンは彼女に近づく。

「お疲れさまです」

リンは感情の起伏の見られない声で飲み物の入ったペットボトルを差し出す。

「あ、あなた」

突然のリンの登場に、夏原は僅かに驚いた顔で飲み物を受け取る。

「そっか、同じ事務所だって言ってたっけ」

「えぇ」
リンは淡々と答える。

そんな彼女を夏原は、「それって、素なの?」と怪訝な顔で尋ねる。

「素?」リンは首を傾げる。

「いや、あなた、昨日から全く笑わないからさ。うちの事務所、とにかく笑えっていつも代表に言われない?だから初めはキャラだと思ってたんだけど」

夏原は素朴に驚いたように言う。その言葉を聞いたリンは面食らった顔をする。

「確かに、あいつの笑った顔は見たことがねぇ」

二人から少し離れたスタジオの収録をよそ見していたゼンゼは、噛み締めるように頷いた。

リンと夏原が控室へ辿り着いた時、中から女性の甲高い笑い声が聞こえる。
夏原はドアの前で静止する。

「メディアもあいつばっかり」

「まぁ『伝説の歌姫の娘』なんて、話題になるもんね」

「どうせ選考会も、お母さんのコネを使うんでしょ」

その言葉が聞こえた瞬間、夏原はドアノブを捻って中に入る。

大声で罵倒していた本人が突然現れたことに、さすがに室内にいる女性たちの顔も強ばる。

夏原は大きく息を吸うと、まっすぐ彼女たちに向かう。

「お疲れさまです!先輩が引き立ててくれたおかげで今朝の収録も無事、終えることができました」

夏原はとびきりの笑顔でお辞儀する。
さらりと吐かれた嫌味に、彼女たちの顔はさらに引き攣る。

「ちょっと注目されてるからって、調子乗んなよ」

中にいた女性は嫌悪感剥き出しでそう言うと、足を鳴らしてこの場を去った。

「暇だよね。あんなこと言う時間あるなら、練習でもすればいいのに」
夏原は感情の起伏の見られない表情で答える。
そんな夏原をリンは感心の目で見る。

さきほど訪れた副調整室の室内一部屋に収まるほどの数のモニターの、さらに限られた番組を取り合う芸能界は、常に他を蹴落とし合って席を奪うのだろう。
昨日彼女が、即座にマスコミに売られると考えた思考からも、この世界の厳しさは伝わった。

だからこそ、彼女のように強気でないと、傲慢でないと生き抜けないのではないか。

「それにしても、まだ私は『伝説の歌姫の娘』と思われてるんだね。心外だわ」

夏原は呆れたようにため息を吐く。

「それほど凄い人だったのね」

時間の節約になると尋ねたものの、さすがに後輩としては失言だったようで、夏原は正気?と言いたげな顔を向ける。

「私の母だからっていうのを抜きにして、同じ事務所の後輩として、それはないんじゃないかしら」

夏原は疑いの目でリンを見る。リン自身も今のは失言だと理解したようで無言で顔を逸らす。

「あなた、今日何の収録でここに来たの?」

夏原は尋ねる。その態度は、素朴に感じた疑問ではなく、彼女が何者か確かめるためのテストのように見える。
具体的な名前を挙げられずに、リンは黙り込む。

「『青い夏』の番宣ですよ」

突如、声が届く。
顔を上げると、そこにはゼンゼが立っていた。

「ドラマの番宣……ってあなた、誰?」

「僕は彼女のマネージャーです」
そう言って、うつむいているリンの肩を叩く。

全身黒服に眼帯、ピアスを着用した容姿は、明らかにマネージャーではなく演者のようだが、あまりにもナチュラルに言葉が飛び出たことで、夏原も困惑していた。

「新人を押し出そうとしてくれているのでしょうか、こんな無名の彼女でもありがたいことに細々と仕事を抱けてまして。まだ社会知らずですが適当に流してやってください」

ゼンゼは最もらしいことをさらさらと口にする。
夏原は数秒静止すると、「ま、確かにうちの事務所はサポートが手厚いものね」と納得する。

「あ、行かなきゃ。じゃあね」

夏原は手際よく片付けると、颯爽とこの場を去った。

「演技の技術なんて、いつ習得したの?」
リンは、前方を向いたまま問う。

「そりゃ、毎晩見ている、ジャパニーズカルチャーだ」
ゼンゼは得意げに胸を張った。

選考会及び開花予定日当日。

夏原は早朝から家を出て、会場まで向かう。
マスコミ対策なのか、深く帽子を被り、マスクにサングラスと顔をきっちりと隠している。

リンたちも気付かれぬように後を追った。

「どのタイミングで投与?」ゼンゼは尋ねる。

「彼女がステージに立った瞬間かしら」
リンは彼女の背中を追いながら答える。

薬はいわば病気が治ったと錯覚させるものだ。効力も長くない。
二度目は効力が弱まることからも、ギリギリまでタイミングを待つ必要があった。

会場に辿り着く。選考会もテレビ中継されるのか、多くのメディアが待機していた。
夏原は俯いたままそそくさと門をくぐる。リンたちも後に続いた。

選考会の説明会場は舞台で行われた。
関係者のみであるにも関わらず、三階席まで備わる大規模な舞台が満員になるほど受講者が多い。
これだけの人の中、対象に見つかることもないだろう、とリンたちも当然のように中に入っていた。

「みなさん、四年に一度の祭典に出演する気合は入ってますか!」

舞台に登壇する司会者は声高らかに茶番を始める。四年に一度の音楽祭いうことで、参加者のみならず司会者やスタッフたちも浮き立っているとわかる。

「今日の選考ジャンルは歌唱だけだって。それなのに、すげぇ人だな」

ゼンゼはいつの間に手に入れていたのか、タイムスケジュールの記載されたパンフレットを見ながら言う。

「東と西でわけられて、且つプロで活動してるシンガーソングライターに限られてるらしいけど、それでもさすがね」

「この中から二、三人だっけ。倍率とんでもねぇのに、相変わらず肝が座ってるもんだ」

ゼンゼは前方で背筋を伸ばして資料に目を落とす夏原を見る。

「選考会を終えた後、通過者はそのままメディア向けに出演者発表会をします」

「いいんか?選考会後もなんかあるらしいけど」

「彼女は音楽祭に出演する切符を手にすることが望み。だから結果さえわかれば恐らく雑草は抜ける。その後のことは、考えるだけ無駄よ」

会場内の人の多さや雰囲気からも、リンの中で夏原の願望はほぼ確信していた。

だからこそ万全な状態で舞台に立つ必要があった。

選考は三つのグループにわけられており、それぞれから一人ずつ選出される形だった。
一度限りの採点方式で、より得点が高かったものがブロック優勝となり、音楽祭へ参加できる切符を手にする。

夏原の出番がくる。
彼女がマイクを握った瞬間、リンは紫色の花の花弁を千切って薬を投与した。

夏原が目を見開く。急に喉の違和感がなくなったことに驚いているようだ。

「どうかされましたか?」
審査員が淡々と問う。そこに『伝説の歌姫の娘』に対する差別は感じられない。

「……いえ、失礼しました。始めます」

夏原は冷静にそう言うと、マイクを握り直して歌い始めた。

 

夏原の出番は無事終了する。彼女は深くお辞儀をすると、足早にその場を去った。喉を手で抑えているその顔は、いまだこの現実が受け入れられないと言っている。

「なんとか最後まで持ったわね」

リンは安堵の色を見せる。

「そうだな……」ゼンゼは宙を見ながら相槌を打つ。

「ゼンゼ?」

「いや、なんか、初めにテレビ局で聴いた時のが俺、好きだったなって」

「でも今回は前回と違い、異常のない万全な状態だったのよ?」

「うん、だから俺の勝手な好みなんだろうな」
何が違ったんだろ〜とゼンゼは腕を組む。

リンは関心もなさそうに壁の時計を見ながら、「あとは一時間後の結果発表のみね」と確認する。

一時間後には食事ができる、とゼンゼは舌なめずりをする。

だが、予想だにしていないことが起こる。

 

選考を終えて結果発表となる。
説明を受けた舞台の一回り小さい小さなホール。その中に夏原とリンたちの姿があった。
いつ夏原の中の雑草が抜けても良いように、ゼンゼは足をならす。

「今回の音楽祭出場アーティストは……」

じれったい間が空く。出演者たちは手を組み願う。

「エントリーno.2365番。アンリさんです!」
司会者が高らかに発表した後、わっと歓声が挙がる。

「きたきた」ゼンゼは忙しなく足踏みする。

名前の呼ばれた本人は、一瞬目を丸くするも普段の気丈な振る舞いで立ち上がると登壇する。

彼女の貫禄に周囲は圧倒されているものの、リンとゼンゼの表情は一変して動揺が現れる。

「何で……?」

夏原の身体からは、全く雑草が抜けていなかった。

 

***

 

リンとゼンゼの姿は、会場内の事務ビル屋上にあった。

「何で……何で雑草が抜けなかったのかしら」
リンはいまだ困惑した顔で自問自答を繰り返す。

「彼女はこの選考会にかけていたはず。結果も発表されたのに」

「普通に考えれば、『選考会を通過したい』という未練ではなかったってことだ」
ゼンゼは冷静に答える。

「でも、喉の異常が関係してないとは思えない。それに、今日は選考会しかないのよ。他に原因なんて……」

「厳密には、メディア向けの発表会もあるが」

「それが目的だなんて思えないけど」

開花予定日は今日だ。いつ開花してもおかしくない。
だが、再び喉の異常がなくなったと錯覚させることはできなくなった。

未練を確信していただけに他に考えられる原因が思いつかずに、リンは動揺していた。

その瞬間、ドアが勢いよく開き、夏原がスマホを耳にあてながら屋上に足を付ける。
焦燥気味に柵まで向かった彼女は、リンたちに気づく様子がない。

「お母さん。私、出演することに決まったのよ」

夏原は少し興奮したように告げる。
だが、数回相槌を打つと、彼女の表情がわかりやすく歪む。

「二の舞って……。お母さんはポリープじゃなかったでしょ。一緒にしないでよ」

夏原は激昂する。次第に目からは涙が溢れた。

「私が……いままでどれだけ頑張ってきたと思ってるの。それなのに、最後まで……」

夏原は涙を拭いながら滔々と語る。もう薬は切れているようで、喋り辛そうに喉を抑えていた。

そんな彼女を見て、リンは息を呑む。

「そうだったのね……」

「そうだった?」ゼンゼは素朴に尋ねる。

「彼女の願望は、音楽祭に出場することじゃない」
リンは厳しい顔で夏原に視線を向ける。

「今の会話を聞いてる限り、『伝説の歌姫』と呼ばれた母も音楽祭には参加できなかったのでしょう。そこに出ることで、彼女は結果を残したかった。そして」

今まで彼女が、『伝説の歌姫の娘』と言われるたびに険しい顔をしていた理由。

「本来の目的は、みんなに、伝説と呼ばれた母に、一人の歌手として認めてもらえること」

夏原は電話を切り、数分下を向いた後、顔を上げる。
やっと気配を感じたのか、彼女はこちらに振り向く。

「あ、あれ……?あなた、いたの?」

夏原は目を丸くして尋ねる。その目からは、普段見る強い眼光は失われ、真っ赤に晴れて潤んでいた。

「おめでとうございます」リンは真顔のまま拍手する。「音楽祭、無事出演が決まったようで」

愛想の欠片もない彼女の態度に夏原は「ありがとうね」と力なく笑う。

「でも、頑張っても意味がなかったというか」

「今のは、お母さんですか?」

「そうよ」夏原は俯いたまま答える。

「お母さんの娘、と見られることが何より嫌だったの。だから母が唯一成し遂げられなかったことをやって、認めてもらおうだなんて思ったけど、でも、やっぱり無駄だった」

滔々と語る彼女をリンたちはじっと見つめていた。

途端、再びドアが開かれる。そこには、テレビ局でよく夏原に声をかけていた男性の若手スタッフの姿があった。
彼は、夏原の姿を目にすると、普段の頼りない笑顔になる。

「杏里ちゃん、こんなところにいた。お昼、準備しましたよ。嬉しくてたくさん準備しちゃいました」

今日は杏里ちゃんの大好きなお寿司だよ、と胸を張る。

夏原はこちらに振り向く。

「せっかくだから、あなたたちもどう?」

リンたちは一瞬静止すると、「結構よ」と軽く手を振る。

「遠慮しなくていいわ。彼、たくさん準備してきたって言う時は想像の五倍は多いんだから。破棄はもったいないし」

以前、カツが嫌だからと弁当を払いのけていた彼女からは想像もできない言葉だが、先ほど母との会話を聞かれていたであろうことから、照れ隠しのようにも見える。

そんな彼女の奥で、男性スタッフは怪訝な顔をしている。

「えっと、杏里さん……?」

「何?」

「誰と喋ってるんですか?」

その言葉に、夏原は思考が止まったように静止する。

とにかく、下で準備しておきますね、と男性スタッフはドアを閉めて下へ降りて行った。

夏原は無言でリンたちに振り向く。