第一部⑤




その瞬間、ギャッという声が聞こえた。それと同時に、全身が解放されて軽くなる。私はその隙を逃さずに身体を起こした。何かが建物に衝突したような鈍い音が響く。

音の鳴った方へと顔を向けると、コンビニの入口前に、力なく倒れている少女の姿があった。この場の状況からも、少女は何かに吹っ飛ばされたように思える。

思考を巡らせていると、少女のそばに、分厚い本が落ちていることに気づいた。

「うるさい」

振り返るとガラクが立っていた。見るからに迷惑といった表情を浮かべている。

「ガラク……」

声を発したところで少女に再び襲われないか不安になり、慌てて振り返った。だが襲われるどころか、いつの間にか少女はいなくなっていた。

「あ、あれ……?」

呆然と立ち尽くしている私の脇をガラクは無言で通り過ぎる。落ちてる本を拾い上げ、手で砂を払った。
理解が追いつかないままその様子を眺めていたが、お礼を言ってないことを思い出して、慌てて口を開く。

「あ、ありがとう……」

「別に助けたわけじゃない。目障りだっただけだ」

ガラクはどこかに目をやる。つられて視線を向けると、先ほどベランダから見えた図書館の窓があった。恐らくここから私と少女の声が聞こえてうるさかった、という意味だろう。
ガラクの言った通り、本当に私を助ける為ではなく、ただ単に迷惑だったから行動したにすぎないと感じられた。彼のおかげであの状況を打破できたのだから、理由はともあれ感謝はしていた。

しかしガラクは、先ほどよりも険しい顔になって言葉を続ける。

「メガネはしろ、と言ったはずだ」

やはり突っ込まれた。貰った本人の前だというのに失礼なことをしてしまった。

「ご、ごめんなさい……すぐ近所だから平気かと……」

そう答えると、ガラクは呆れたように目を閉じて小さく息を吐いた。

「あれが食べたかったなら、邪魔をしたな」

そう言って、地面に落ちてる何かを指差した。
ガラクの指示語と指が差しているものが何かはすぐに理解した。わざわざ大脳を働かせて対象を明確にすることにより、もれなく気分も悪くなる必要性は感じられなかったので、「あれ」と呼ばれたものの認識はしないようにした。

私に否があるのは認める。だが明らかな皮肉なので、少しムッとして無言で対抗する。
話題を切り替える為にも、少女の話題を持ちかける。

「さっきの女の子……、何だったの?」

「オレが知るわけない」

ピシャッと言い捨てるガラク。予想通りの反応。だから落胆はしなかった。

「普通の女の子に見えたから……」

「ここにいる奴が、普通の奴に思うのか」

ガラクは鋭い目で私を睨んだ。さすがに軽薄なことを言ってしまったとすぐに後悔した。
私は、何を目安に『普通』と定義づけしたのか。この裏街道は、表舞台に立てない人たちが来る世界。表の世界から逃避したいほどに苦しくて辛い過去を抱えている人たちばかりなのは、何度も反芻して理解したはずじゃないか。相手の振る舞いだけを見て、勝手に解釈してはいけないに決まっている。

私が黙ったことで、会話が成立しないと判断したのだろう。

「とにかくメガネはかけろ。また、この辺りで騒がれても迷惑だ」

ガラクは頭を掻きながら、この場を切り上げるように言う。拾い上げた本を脇に挟むと、図書館へと戻っていった。
私はその様子を黙って見送りながら、少し思案する。

裏街道に来てから出会った裏街道の住民、メイ、ガラク、少女。
彼らは、彼女らは、何がきっかけで裏の世界に来ることになったのだろうか。何が要因で裏街道の扉が開かれたのだろうか。どれだけ表の世界に落胆、絶望したのだろうか。

天真爛漫で無邪気なメイ。冷静沈着で読書家のガラク。外見や振る舞いだけを見ると、本当に表の人間と変わらない。しかし、「普通」でないことは、ガラクも言っていたことだ。だからこそ、何故裏街道に来ることになったのかが気になった。
他人に一番触れられたくない点。思い出したくない過去だろうとは頭ではわかっているが、本心はそう言っていた。

裏街道だけでなく、もっと住民についても知りたい。

もし、あのまま少女に襲われていたら……。思い出しただけで身震いした。だからこそ、偶然ガラクが現れてくれたことにとても感謝していた。

「あ……」

そういえば、コンビニにある本の件を伝えるのを忘れていた。とはいえ、まだしばらくはこの世界にいるつもりだ。また会う機会はあるだろう。

地面に散乱したおにぎりとお茶を袋に入れ直して、アパートの方へと向き直った。
だが、そこで再び視線を感じた。

アパートの玄関の扉から、メイが半分だけ顔を覗かせてこちらを窺っていた。

「メ、メイ、いつの間に!?」

驚きから、つい大きな声が出たので、慌てて手で口を覆う。そして無意識に図書館の小窓に目を向けていた。またガラクに迷惑だと思われたくなかった。

「起きたらアリスがいなくなってたから、びっくりしたんだよ」

そう言いながらも、まだこちらを観察するような面持ちだ。私を警戒しているのか?

「ど、どうしたの……?」

意図がわからずに問いかける。私に何かついているのだろうか。身体に目をやるが、少し服が汚れただけで、特に変わった様子はない。
メイの方に視線を戻すと、そのタイミングで口を開いた。

「ガラクが好きなの?」

予想外の質問に、へっ?と気の抜けた声が出た。

「だって、さっきからずっと二人で話してるし、ガラクが図書館に戻るところをずっと目で追ってたでしょ。確かにガラクは見た目はいいし、優しいけどさ」

何故そう捉えられるのか。二人で話してたとはいえ、明らかにガラクの顔は怒っていたはずだ。それに彼を目で追っていたのではなく、思案に暮れていただけだ。

ガラクは確かに外見は整っているが、優しいという言葉には疑問を唱えたくなった。
結果的に私を助けることになったものの、彼はうるさいという理由のみで行動した。メガネを渡したのも、この辺りで騒ぎが起こることを懸念してのものだろう。行動基準が、相手か自分かの違いは大きな差がある。

圧倒的に否定の言葉が次々に出てくるのと、異性と話すだけで「あいつら付き合ってる」なんて騒ぐ小学生のような解釈をするメイに苦笑した。

私が黙っていたことを同意と捉えたのか。メイは目を潤ませて抱きついてきた。

「アリスの浮気者!」

「だから何でそうなるの!」

えんえん嘘泣きをするメイを宥めていると、図書館の窓から不穏なオーラが出ていることに気づいた。多分、いや確実に発生源はガラクだ。

「と、とりあえずアパートに戻ろ?」

次に本を投げられるのは私かもしれない。身の危険を察知したのでひとまずこの場から離れることにした。

「うん♪」

メイはケロッと表情を変えて、私の手を取る。

「あ、そうだ。これアリスにプレゼント」

そう言って、メイが何か差し出してきた。渡されたものを見ると、キラキラと光るお花のブローチのようだった。

「かわいい。これどうしたの?」

「さっき見つけたの。かわいいし、きれいだからアリスにあげる」

笑顔でそう言った。せっかく貰ったので私は制服の左胸にブローチをつけた。
メイの後に続いて、アパートに入る。

ふと、メイの腰付近に目がいくと、そこについてるウサギの尻尾が元気よく動いた、気がした。そんな馬鹿なと目を擦ると、メイが振り返り「そういえば部屋、二階にしたんだね」と言ってきたので、私は慌てて顔を上げて、「そうだよ」と返事をした。

「今さらだけど、この部屋でもよかったかな?」

玄関前で、二○一と書かれたプレートを指差しながら尋ねた。

「全然いいよ〜今ここにはボク以外いないからね。あ、ちなみにボクは一階の玄関入ってすぐの一〇一の部屋にいるよ」
メイがこの部屋の真下だね、と言って地面を指差す。

「そういえばさ、中のふとんとかの準備って、メイがしてくれたの?」

「そーだよ! いつ誰が来てもいいように、前から準備してるんだ」

「前から?」と、尋ねようとして留まる。裏街道は変化が起こらない。だから前から準備していても、埃が被ったりしないと気づいたからだ。

「アリスみたいな来客用にね♪」メイは眩しい笑顔を私に向ける。

「わざわざありがとうね。助かるよ」

その言葉を聞いたメイは、満足気な笑みを浮かべて、扉を開く。

電気をつけようと手を伸ばすと、メイがその手を遮った。私が首を傾げると、「眩しいからやだ」と言ったので、その流れで質問した。

「裏街道の人は、眩しいのが嫌いなの?」

「うん。電気はあるけど、明るいのは嫌いなんだ。舞台袖は暗いものでしょ」

メイはそう言うと、しきっぱなしにしていたふとんにゴロンと転がる。私も隣に腰を下ろして、コンビニの袋を脇に置いた。

「でもさ、暗いと不便でしょ。視覚的に」

純粋に感じたことを告げた。真っ暗ではないにしろ、目を凝らさなければ見えないのはやはり不便に感じた。

「暗くてもさ、ずっと見てるとだんだん目が慣れて見えるようになるでしょ。だから、ここの住民は特に困らないよ。表から来てすぐだと、まだ慣れてなくて不便に感じるけど、アリスもそのうち慣れてくるよ」

そんなものなのか。隣でゴロゴロとふとんの上を寝転がるメイを見て、目が黒いのと関係あるのかな、と思った。
しかし不便だとは言いつつも、ガラクから貰ったメガネをしていれば支障はなかった。少女に襲われたこともあるので、これからはメガネをかけるのを忘れないようにしよう。

「裏街道、最初は表と変わらないなと思ったんだけど、やっぱり違うね」

「当たり前だよ。その為の世界なんだから」

天候、規律、政治、金銭、時間、そして人間関係。ただ純粋に生きることだけを求めるものにとったら、ノイズとなる可能性のあるものが一切取り除かれた街。少しずつだけど、この世界についても理解してきた。

ここで一旦、裏街道についてわかったことを脳内に書き出した。