第二部⑨




ケンカというのは、相手の意見や行動に対して、共感や賛同ができなくて起こるものだろう。肉体的にも精神的にも、個人の感情と感情のぶつかり合い、ボクシングのようなものだ。
しかし、意志がなければぶつかろうという感情すら湧かないものなんだ。

「違うよ、ママ」

原因は何だったか思い出せない。覚えてられないほどのどうでもいいことだったはずだ。記憶にあるのは、何組かのママ付き合いで、みんなの前で母の行動を指摘したことだった。

「お母さんに向かって、そんなこと言うなんて」

母から返ってきた言葉は、内容とは全く関係のないものだった。今考えると、自分の子どもにみんなの前で指摘されたことが恥ずかしくて、勢いで言ったとはわかる。
ただ、当時の私はその返答に困惑した。よかれと思って発言したものの、意味のわからない理由で怒られるんだ。変わることのない立場を引き合いに出されると、もう何も言えなくなる。

元々戦うつもりじゃなかった。セコンドとしてリングサイドから選手に水分を渡したのに、選手にその手を払い除けられたような感覚だった。
別のリング場を覗くと、ボクシングなのに銃を構えている理不尽な選手もいる。私はこれからこんな場所に立つことになるのか、とゾッとした。
だからそれ以降は、何に対しても意見することに疲労を感じて面倒になった。

それだけではない。意見を言えなかったら鬱憤がたまるのが通常じゃないのか。
でも私にはそれがなかった。何故か。それだけ諦めてしまってたからだ。

武器を持っている相手に、裸で向かっていく行動は勇気じゃなく無謀と呼ぶ。最初からわかりきってる結果に対して、怒りや失望といった感情が湧くはずもない。理不尽なことが通常だと知ったことで、リングに立つ戦意すら失ってしまった。

まだこちらが大けがを負っていない時にそれが気づけたので、早い段階で回避に専念できた。

武器を探す手間をかけるなら、折れた方が早い。

六歳の時に学んだことだった。

 

目立ち過ぎると恰好の的になる、逆に一人だといじめの標的になる。だから私はあえて中間に位置するように振舞った。物体をいなすように、表には出さず相手に調子を合わせた。
争いを避けて周りに同化していたので、必然的に友人関係も希薄なものとなった。親友と呼べる人もいなければ、好きな人もできたことがなかった。
しかし物好きがいて、そんな私に対しても積極的に関わろうとする人物がいた。
それがミカだった。

小学校五年生の時にうちの小学校に転校してきた。きっかけは転校してきた当時、席が前後だったことだ。

ミカは人と関わるのが好きで、とても世話焼き。私とは正反対の人だった。しかし実は心配症で、些細なことでも不安になり、そのたびに話を聞いていた。そして内心、人と深く関わり過ぎるのはよくないと再確認していたし、それでも他人と関わるミカに対して感心もしていた。

「自由行動は一緒に回ろうね」

そんなミカの存在のおかげで、クラスでも孤立することなく、ごく中間の立ち位置に立てていた。

しかし、その唯一だった友人が、突然登校拒否になった。

直接原因は聞けてないが、常に不安を抱えながらも気丈に振舞っていたので、恐らく人間関係に問題があったとは思ってる。あんなに楽しみにしていた修学旅行も来なかった。

一緒にいた頃も、私は彼女に流されるままで、こちらから関係を繋ごうとはしていなかった。何故か。感情に左右されることで、リング上に引っ張り上げられたくなかったからだ。

なので当時彼女に対して抱いた感情は、もっと積極的に相談にのっていれば、といった後悔ではなく、ほらやっぱり他人と関わり過ぎるのはよくないでしょ、といった蔑むものだった。

しかし後々気づいたのは、学園生活の中では、彼女の存在によって自分が確立されていたことだった。途端、自分の存在が見えなくなった。

争いを避けていたことにより、希薄となった自分の存在。

十四歳にして自覚したことだった。

 

偶然本屋で見かけた小説がとてもおもしろくて、以降は読書に没頭した。読書は一人じゃないとできない。しかし、殻の中は意外と心地いいものだった。

その中でもミステリーやホラーを好んでいるのは、やはり最初に購入した作家の作品がきっかけだった。終盤にかけてのどんでん返しがとても刺さり、また私が上がることのないリング上の様子を客席から見ている気分になれた。その為、新作が出る度に書店へ走り、時間を忘れて読んでいた。

しかしその作家が、先月持病で亡くなった。

訃報を聞いた時はもちろん悲しかった。もう新作が読めないな、と落胆もした。
だがそれ以上の感情が湧かなかった。何故か。人はいづれ死ぬと理解していたからだ。

思い返すと、私は涙を流す経験をしたことがない。祖父のお葬式に参列した時も、親戚は目元をハンカチで抑えていたが、私は八十九歳だったから仕方ないよなぁ、とどこか納得していた。

死ぬことはいずれ誰もが経験する卒業式なんだ。だから死に対して涙が出るほどの強い感情が湧かなかった。

その時に、ふと思った。

私もいずれは死ぬ。どんな最期かはわからない。ただ小説の中のような、残酷で悲惨な死を迎えるのは、肉体的にも精神的にも痛そうなので嫌だった。元々リングに上がることを辞退していたので、そんな結末にならないことはわかっていたが、交通事故なんてものはいつ起こるかわからない。もしかしたら明日死ぬかもしれない。

周りに同化することばかりを選択して、自分の存在が見えなくなった。もちろん私以外にも存在価値がわからない人なんてたくさんいるだろう。でも、日々の中で、もしかしたら起こるかもしれない波に期待して今も生きてるんじゃないのか。
でも私は、狭く浅く生活に必要な関係のみ繋ぎ、自分の存在も見えなくなってからは、そんな日々に対しても関心を抱かなくなっていた。

最後に死ぬという結末は変わることがない。
だったら、最期くらいは自ら道を選んでみよう、と思った。

十八歳で決めた選択だった。

 

***

 

「いつ実行するかを考えた時に、この先心待ちにしていることも、やりたいことも思いつかなかったの。だったら今でもいいやって思ったんだよね。だから決定づけるこれといった要因がなくて、本当に、ふと」

私は裏街道に来るまでのことを思い出していた。あの時の私は、本当に急に思い立って、作業のように淡々と行動していた。その要因は明確には自分でも解明できてない。
ただでさえ話題が暗いから、荒波を立てぬよう空気を緩めるような話し方をしてしまう。もうここまできたら癖のようなものだろう。

だがガラクは、そんな私に対しても表情を緩めることなく真剣な態度で口を開く。

「これはあくまで私見だが……決定する瞬間は、明確な要因よりもタイミングだとオレは思ってる。要因が重大なものでも些細なものでも、また自分でも掴めない曖昧な存在でも、それらが着々と積み上げられていき、とあるタイミングで背中を押されて「死」という結果を出すのだろう。いわば最大の選択だ、複雑で当然なんだ。そしてそれらの要因は、他人が簡単に理解できるものでも、同情されることでもない。アリスが本気で望んでいたなら尚更だ」

こんなに饒舌なガラクは珍しい。それだけ真剣に向き合っていると感じられた。だからこそ図書館で尋ねようとした際は、あれだけ悩んでいたのかもしれない。軽い興味本位で気になっているとは思えない。
真正面から受け止められたことに、少し歯痒く感じた。

「でも、そんな時にメイに出会ったんだよね。久しぶりだった。何かに関心を抱いて自ら行動しようと思ったことが。私にもこんな感情があったんだって自分でも驚いた」私は天井を見上げて滔々と話す。

「でもその行動力の根源は、死を覚悟していたからなんだよね。どうせ帰ったら死ぬ。大けがを負ったところで結局死ぬ。だから今まで避けていたリング上にも最後くらいは上がってみようと思えたの。裏街道はとても居心地がいい。でもここに住むとなると、それこそ表と変わらなくなる。だから私は誰よりも裏街道に住むのはふさわしくない」

裏街道に来て思った。確かに居心地はいい。ただずっと住むとなると話は別だ。

「だって、裏街道に逃避してまで自分の人生に執着することができないから」

だからこそ、日数を決めてここに訪れたことに意味を感じていた。

「なるほど……」

そう言うと、ガラクは興味深そうに腕を組んだ。

「つまりオレらは、生きることに執着している、ということか」

「ちがっ……そういう意味じゃなくて」

でも確かに、そう捉えられる言い方になってしまったかもしれない。
言葉が見つからずに口をまごつかせていると

「そう言われたら、そうかもしれないな……」

意外にもガラクは笑っていた。初めて見る自然な笑顔に少し戸惑った。

今まで気がつかなかったが、彼はとても澄んだ碧色の瞳をしている。
心からこの人はきれいだな、と思った。

ガラクに借りた小説を思い出していた。あの本には、物語の世界ではあるものの舞台は現実世界でも存在する場所で、キャラクターも私たちと同じ等身大の高校生だった。
とても眩しかった。少しものの見方を変えるだけで、私にもあのようなきらきらした世界になっていたのかもしれない。私はそんな世界を羨望の目で見ていた。
だが、自分もそのようになりたいと願う憧れや憧憬とは違う。例え舞台が用意されても自ら上がることはないだろう。
だから所詮、他人事。結局、物語。これはもはや諦めに近い。

「怖くないのか?」ガラクは真剣な眼差しで尋ねる。

私は準備を行っていた時のことを思い出した。あとは火をつけるだけ、という時に、無意識ながらライターを持つ手が震えた。
私が選んだ方法は、少なくとも痛みは感じないものだった。しかし、どうしてあの時手が震えたのか。本能的に恐怖を感じていたからなのか。

でも、これだけははっきりとわかる。
身体は恐怖したが、頭では本気で実行に向かっていた。結果としてこの世界に来ることにはなったものの、私は断行するつもりは一切なかった。そしてそれは、メイにも伝わっていた。

そもそも痛い思いをしないのに、生きることに目的もないのに、懸念する事項がない。やすらかに延々眠り続けるだけなのに、どうして怖いと思うのだろうか。

震えたのは自分でも何故かわからない。ただ、あの時の自分は本気だった。

「怖くないよ」

ガラクの瞳をまっすぐ見て、ハッキリと言った。
私のその発言に、ガラクは少し気圧された表情になるが、すぐに元の顔に戻り、「そうか」と呟いた。

「でも、まさか気になってるとは思わなかったから、少しびっくりした」

これは本心だった。彼なりに死に対する価値観を持っているとしても、私という一個人に関心を抱くとは思わなかった。
普段の対応はクールで冷静でも、決して人と関わるのを嫌ってはいないんだな、と改めて感じた。

「オレも、死ぬことを考えていたからな」

「…………え?」

「う、う~ん……」

話し声が聞こえたのか、メイが小さく唸るように声を上げた。私たちは黙ったまま顔を逸らして、メイに目を向けた。しかし起きた様子はなく、いまだ気持ちよさそうに眠っていた。

メイの小さい頭を撫でた。だがその手が僅かに震えている。私の視線は空を彷徨っていた。必死に平静を保とうにも繕うことができない。

それだけ私は、ガラクの言葉に動揺していた。

 

第二部 完