第三部②




アパートの玄関前まで来ると、ちょうどメイが階段を上がっているところだった。背中を向けていたので私の存在に気づく様子もなく、小さく安堵した。
しかしすぐに違和感を抱く。メイが居住にしているのは、一階玄関横すぐの部屋のはずだ。
心臓が高鳴り変な汗が出てきた。

どうしてメイは階段を上がったのだろうか。

以前も、階段上から降りてくるメイに鉢合わせした。私が探索に出かけた時だ。あの時は特に気にしていなかったが、よく考えれば不思議だ。階段上は、私が居住にしている部屋と空き部屋、それに屋上しかない。

物音を立てぬよう細心の注意を払いながらアパート内に入る。階段を踏み外さないようにしっかり足元を確認していたことによって、またもや現実が見えてしまった。

階段には血痕がついていた。赤黒くて、絵具にも見えない。それも上へと伸びるように続いている。明らかに血の流した何かが階段を上った時に付着したもののように見えて、背筋が凍りついた。
だが表面はすでに乾いており、以前から付着しているようにも見える。どれだけ周りを見ていなかったんだと溜息が出そうになる。
すでに乾いているとはいえ、血痕を避けて階段を上がる。

二階へと辿り着いたが、メイの姿は見られない。かすかに頭上から聞こえる足音からも、三階へと続く階段を上がっているようだった。目的は私の部屋ではないらしい。ますます理由がわからない。

どう動くべきか悩んでいると、キィという扉を開けたような音が聞こえてきた。音の離れ具合からも屋上の扉のように感じられる。
地図で存在を知ってから少し気になっていた。あまり屋上といった場所に馴染みがないので、機会があれば一度上がってみようと考えていたのだ。
しかし、先ほど見たメイの様子が妙に引っかかる。

今上がると、鉢合わせしてしまうのは確実だ。メイが降りてきたとわかってから私も屋上へ行ってみよう。図鑑の重さで腕もだるくなってきたので、一旦居住にしている二○一の部屋へ戻った。

私はソファに腰をかけた。ずっと抱えていた図鑑と花も机に置いた。洗面台に置いてあるティッシュを数枚手に取り、花と本の間に挟むようにセットして、押し花の準備を手際よく進める。図鑑を閉じて、その上に重しとして何冊か置き、準備を完了した。

私はソファに身体を預けて、溜息を吐きながら脱力した。ずっと緊張の糸が張っていたのか、かなり疲労を感じた。
少し眠ろうと目を閉じた瞬間、気配を感じて振り返る。が、誰もいなかった。

以前から感じていた違和感がほぼ確信に変わった。ここまでくると、もはや偶然でも気のせいでもないだろう。

このアパートには、誰かいる。

メイは今は自分しか住んでいないと言っていたが、本能的に人の気配を察知している。
湧き上がる緊張、恐怖、そして、疑心―――。

身体的にも精神的にも疲弊していたが、違和感が確信に変わってからは、むしろ気が抜けなくなった。ドーパミンが出ているのかもしれない。もうこうなれば、とことん突っ込むしかない。
そういえば一番身近であるこのアパート内をまともに探索したことがなかった。この機会に一度、アパート内を探索してみよう。

メイが屋上から降りてくる音を聞き逃さないように扉に耳を近づけると、僅かに地面を擦るような音が聞こえてきたので、少しだけ扉を開けた。
メイが三階から降りてるところだった。表情は見えないが、先ほどよりも足取りが軽くなっているように見える。数秒後、一階の階段を降り始めたので扉を開けて外に出た。

屋上に何かあるのだろうか。
緊張が走る。どうして緊張するんだ。ただ単に屋上を見に行くだけじゃないか。それなのに足がすくんでしまっている。こんな経験をするのは初めてだった。

当然のことだ。今まではそういったことは全て避けて生きていたんだから。でも、ここでは現実を知る覚悟を決めた。私はこの世界を、ここの住民を知りたい。だから今は死にたくない、とすら思ったんだから。
固まっていた足が溶解されて動き始める。そして気づくと屋上へと続く階段を上っていた。

三階から続く階段を上がり切ると、目の前にあったものに目を丸くした。

黒い布地に黄色で大きく「立入禁止」と書かれたカーテンがかかっていた。カラーリングからも文字からも、明らかに立入禁止を示す警告がそこに掲げてある。
だが、先ほどメイが屋上の扉を開いた音を聞いている。三階の上はここしか通じておらず、このカーテンの奥に屋上の扉があるだろうことは、ほぼ確実だった。

私は悩んだ。目に見えて警告が掲げられているのに、それを無視して屋上に上がるのか。だがここまでわかりやすく禁止されることに、かえって気になり始めていた。この奥に屋上があるのは確実だし、メイが屋上に上がったのもほぼ確実だからだ。
そこで苦笑する。あぁ、これこそがカリギュラ効果なんだな。

私はカーテンの裾をつまんだ。

途端、後ろに気配を感じた。

「――――――何してるの?アリス」

私は脊髄反射で振り返った。

新たに知ったことだが、あまりにも恐怖しすぎると、声が全く出なくなるらしい。

「メイ……」

「どうしたの?こんなところに来て。もしかして、飛び降りでもしたくなった?」

いつもの笑顔でそう言った。ブラックな内容でありながらも、笑顔で言われたら許せてしまえそうな気になる。
しかし、その眼に差している光は、僅かに濁っていた。

「そんなわけないでしょ。こんなところで死ぬわけにはいかないんだから」

「さすが、揺らぎない覚悟だね。おもしろいよアリスは」

そう言うとメイは私の手を取った。いつものことなのに私は反射的にびくっと反応する。メイはキョトンとした顔で私に振り返る。

「どうしたの?アリス」

あどけない表情でそう言った。その目は私を見据えていた。

「いや……このアパートの中ってどうなってるのか知らなかったから、ちょっと探索してみようって思ったんだけど、立入禁止があるなんて知らなくて驚いていたから……」

あくまでこのアパートに関心がある、といった態度で言った。
メイはずっと私から視線を逸らさない。私の緊張はどんどん高まった。

だが、やがてメイはコロッと表情を変えていつもの笑顔になった。

「興味を持ってくれて嬉しいな。でも、ここにも書いてあるでしょ。屋上は危ないから入ったらだめだよ。万が一落ちて死んだりしたら大変だよ。もっとボクに構ってほしいんだから。ねぇ、今日は公園に行こう?」

メイは私を諭すように言うと階段を下り始めた。そんな彼を見て、諦めたように息を吐く。

屋上には何かある。もはやこれは確実だろう。

 

***

 

アパートから十分ほどの距離に公園があった。遊具はすべり台とぶらんこのみ。あとは砂場とベンチしか置いてないこじんまりとした公園だ。公園内には誰の姿も見られなかった。
以前見た夢も小さな公園が舞台だったが、当然だが今見ている公園には見覚えがない。

「ボク、公園が好きなんだ」

メイはぶらんこを軽く漕ぎながら呟く。重力によって軋む柱、年季の入った音がとてもレトロだ。

「よく来るんだね」

「昔は、公園がボクの家みたいな感じだったからさ」

何気ない調子で言ったので、一瞬耳を疑った。食い入るには棘があり、流すには少々引っかかる。
私がどう反応すべきか迷っていると、メイは言葉を続けた。

「公園にいれば、いつも誰かがいたからね。相手の名前を知らなくたって、同じ場所にいるという理由だけで一緒に遊ぶことができた。唯一楽しいと思える場所だった。でも、暗くなるとみんな帰っちゃうからすこし寂しかったな」

メイは過去を思い出しながら、滔々と吐露していた。私はうまく反応できない。

「表にいる時は、周りの目ばかり気にしていた。だけど裏街道に来てからはみんな同じなんだって気にならなくなった。だからボク、本当に裏街道が大好きなんだ」

そう言うと、メイは私に顔を向けた。

「ねぇ、アリスは表に帰ったら死ぬんだよね?それは今も変わってないの?それまではボクに構ってくれるんだよね?」

唐突だったのでたじろいだ。メイの目には、どこか不安の色が混じってる。

「変わってないし、それまではここにいるよ」

メイの本心はわからないが、質問の解答自体は元々決まっていたので、調子を変えずに返答した。
私の言葉を聞いたメイは、安堵した表情を浮かべて前方へ顔を戻した。漕いでいるブランコの速度を上げるのに比例して、柱が軋む音の大きさも増していく。ブランコで生まれる風が私の髪を揺らした。

しばらく遊んだ後、メイは電池が切れたようにその場に倒れたので、慌ててそばまで駆け寄る。また体力限界まで行動していたのだろう。何度目かとなるその光景も全く慣れずに動揺してしまう。
メイを背負って帰路につく。

太陽は上っておらず、カラスも鳴いていないが、夕暮れのように感じられた。耳をすませば、学校帰りの子どもがはしゃいている声さえ聞こえる錯覚に陥る。
ザァッと風が吹いた。半袖の制服なので少し肌寒く感じたが、背中で眠るメイのぬくもりがとても心地いい。

メイは、あれから何度も「裏街道が好き」と言っていた。以前から感じていたことだが、メイは本当にこの世界が好きなんだろう。だからこそ、私が裏街道に不安を抱くことを懸念している。
私は明確な期限を掲げて表に戻ると告げていたので、いずれ裏街道からいなくなることは、メイもわかっているはずだ。でも、それでも不安になった。

大好きな裏街道が、嫌われるのが怖いんだ。

私はメイを支える手に力を入れる。背中のぬくもりが消えないように、アパートに向かう足が速くなった。

メイの部屋に入り、しきっぱなしにしてあるふとんの上に寝かせる。周りを整えて、かけぶとんをかけてもなお起きる気配を見せない。
メイの隣に腰を下ろして、しばらく思案する。

メイは大好きな裏街道が嫌われるのを恐れている。でも、だからこそ都合の悪いことは、見えないようにしているのではないのか。

屋上の前にかかっていたカーテンを思い出す。あんなにもわかりやすく禁止と提示されているのだから、普通は入ろうとは思わないはずだが、以前から抱いていた違和感からも、屋上に何かあることは確信している。
とはいえ、一人で行くには中々勇気が必要だった。

「ガラクは、このことは知っているのかな……」

裏街道に来た際に、唯一メイに紹介された人物だ。恐らくメイのことを一番知っているのはガラクだろう。もしかしたら、屋上の件も何か知っているかもしれない。

隣で眠るメイを見る。すやすや寝息を立てており、しばらくは起きそうもない。

音を立てぬように部屋から出る。その足で図書館に向かった。