その瞬間、外から声が聞こえた。私はカーテンの隙間から窓の外を覗いた。
制服を着た女の子が倒れていた。いや、正確には倒されていた。彼女の目線の先には中年くらいの男の人が立っている。中年男は女の子にじりじりと近寄っていた。そのたびに彼女は後ずさりする。よく見ると中年男の手には刃物が握られていた。どう見ても中年男が女の子を襲っているようにしか見えなかった。
そっとカーテンを閉じる。別に私には関係のない赤の他人だ。だからこの先、中年男が手に持っている刃物で女の子を襲おうとも、それによって女の子が死んでしまおうとも私には関係がない。
だが何故か胸がざわつく。相手が私と同世代くらいの女の子だからだろうか。若くして表で逃避願望が生まれたことでこの世界に来ることになったものの、自分の人生に立ち向かおうとしているのではないのか。何もかも諦めて死のうとしている私なんかよりも、よっぽど生きる価値がある。
そこまで考えたところで、もはや反射的に部屋を飛び出していた。
玄関まで下りてきたところで、どう動くべきか悩んだ。全くのノープランで飛び出してきたので、これから行動すべき道が全く示されていない。格ゲーのように決まったコマンドで必殺技を繰り出せれば話は早いのだが。
二人は先ほどと変わらずに距離を保ったまま睨み合っていたので、まだ私の存在には気づいていないようだ。ひとまずは女の子を中年男から遠ざけるべきか。
気配を殺して近づくも、先に中年男が私に気づいたようで、「誰だおまえ」と声を上げる。その声に女の子も反応して私を見る。そのタイミングで私は走り、彼女の手を取って一目散にその場から離れた。彼女も状況を素早く察知したのか私に調子を合わせて走り出す。
中年男は気負い立って追ってくるも、年齢的な差からも追いつかれることもなく、叫び声はどんどん遠くなっていった。
どれだけ走っていたのかはわからない。それにここがどこかもわからない。
私と女の子は、二人して肩で息をしながらその場に座り込んだ。周りは田園が広がっており、すぐ近くには山の入り口らしきものがある。ずいぶん遠くまで来たようだ。
少女は体力がないのか、私以上に肩を切らして息をしていた。いきなり手をひっぱった私も申し訳なく思い、声をかけた。
「ごめんね……大丈夫?」
なるべく警戒心を持たれないように、割れものに触れるかの如く声をかけた。
彼女はこちらに顔を向けた。マスクをしているので表情が読めない。彼女の言葉を待ったが、口を開く気配が感じられない。じっと私を見つめる目に少しだけたじろいでしまう。
「いきなり……あの人に……」
そこまで言って、彼女はその場にへたり込んだ。よほど怖かったのだろう、彼女が震えているのは目に見えてわかった。
私は彼女と目線を合わせるためにしゃがむ。そっと肩をなでて震えを抑えるようにした。彼女は何も言わないが、徐々に震えは落ち着いた。私は彼女に気づかれないように息を吐く。
一体、何をしているのだろうか。
全く無関係の人であるにも関わらず、いきなり助けるようなことをして。私は正義感の強い人間でもなければ、お人よしでもない。普段の私ならば確実に知らぬふりをしていた。
あの中年男性の目はどこか虚ろで、手には刃物が握られていた。あのままだと彼女は、あの刃物によって切られていたに違いない。
グロテスクな場面を見たくなかったから行動したのか?少しはあるかもしれないが、そうでもない。行動に移った時のことを思い出す。
人助けなんて私らしくないな、と思う反面、動機が私らしいな、とも思った。
思案していると、ささやくような声で「ありがとう」と聞こえた。顔を上げると彼女はまっすぐ私を見ていた。その顔には警戒心が見られず、先ほどまで感じていた肩の震えも止まっていた。
質問責めするのは気が引けたので、気を逸らす為にも立ち上がる。そのまま何気なく前方の山のふもとへと視線を向けた。彼女もつられて同じ方向へと目を向ける。
「普通の山だ」
山に呼ばれている気がして足を進めた。彼女も立ち上がって私についてきた。
薄暗い森の中は特に不気味に感じられた。動物や虫の鳴く声も聞こえない。そういえばこの世界に来てからは、人間以外の生物の声を聞いてない。私の大嫌いな黒くてすばしっこい生物もこの世界にいないのならばとても快適かもしれないな、と内心思う。
どこからか風が吹いているのか。私たちが山の中に入るとサアッ…と葉がかすめる音がした。天を覆い隠すほどの高さの木々が一斉に騒ぎ出したかのようだ。
一度京都の糺ノ森という森林に囲まれた場所に訪れたことがあるが、そこを彷彿とさせるような森だ。マイナスイオンを大量に浴びて、リラックスできる。隣の彼女も同じことを考えているのか、大きく伸びをして肌で森の空気を感じているようだった。
彼女は黙ってついてくる。どこか心を許されたような気になったので話を振ってみた。
「あの人は知り合い?」
「ううん、知らない人。私があの人に声をかけたのが悪かったの」
「声をかけた?」
「しんどそうにしていたから。ここに来る人なんて大抵何か抱えているのは当然なのに、性格はそう簡単には変えられないね」
そう言って、彼女は力なく笑った。
「昔からそういった性格だったの?」
詮索するつもりはないよと捉えられるように、あえて軽い調子でそう尋ねる。
「そう。誰かが困ってたら何も考えずに勝手に身体が動いてしまうっていうか…。私は別に見返りも求めてなければ、感謝してほしいとも思っていない。でも、その私の行為に対して鬱陶しいと思う人もいたんだ…。結局いいように使われてこんな世界にまで逃げてきてしまったんだけどさ」
あれ?
ピタッと足が止まった。少し後ろを歩く彼女も足を止めたようだ。
なんだろうかこの感じ。以前にも抱いた感情だ。どこか懐かしさを感じている。
改めて彼女に向き直る。
「アリスってさ、本当に他人に関心がないんだね。ちょっと悲しいな」
その声がいつか見た夢に出てきた少女の声と重なった。
今までは必要なピースのみを集めていたので、どんな絵が完成するのかに関心がなかった。
彼女の顔を見ながら頭の中に散らばったパズルを組み立てた。
それと同時に無意識に髪につけているヘアピンを触っていた。
「そのヘアピン、やっとつけてくれたんだね」
そう言ってマスクを外す彼女。
脳内で完成したパズル。
その姿は、紛れもなくミカだった。
「ミカ……? どうしてこんなところに……」
「それはこっちのセリフだよ。アリスみたいに強い人がどうしてこんな世界に来てるの」
「私は、その……いろいろあって……ミカこそ…」
「知ってるでしょ。私は気丈に振舞ってるだけのとても弱い人間だから」
そう力なく笑うミカ。懐かしい顔だが、そんなミカのことでさえ、今の今まで気づかなかった。
ヘアピン、ホラーハウス、夢に出てきた少女、私の過去の記憶。各ピースを当てはめていけば全て同一のミカだとわかることだったのに。
しかし赤の他人だと思って彼女を助けた。もしかしたら内心気づいていたのか?
頭の中でぐるぐる思考していると、ミカが口を開いた。
「ねぇ、アリス。いまアリスの目には、裏街道はどう映ってる?」
「どう映ってる、とは?」唐突な質問に首を傾げる。
「きれいに色づいてる?明るい?カラフル?」
「確かに、ミカの顔はハッキリと見えるし、この山の葉の青さは新鮮だなって思うけど…」
そう言って私は辺りを見回す。ザァッという音と共に青々とした葉が揺れた。
だが、目の前のミカは少し悲しそうな目をした。
「手遅れになる前に帰ったほうがいいよ」
「え?」
「ここはとても居心地がいい場所。だけど手遅れになると、もう表で生活できなくなる」
「表で?」
「何だってそうでしょ」そう言って、ミカは微笑む。
「一度死んでしまうと、生き返ることはできない」
その瞬間、ミカは何かに撃たれたように身体を逸らして倒れた。水しぶきのようなものが飛んできて反射的に目を瞑る。頬に付着したそれは、とても生暖かくて、ただの水じゃないとすぐに理解した。
おそるおそる目を開ける。
ミカの額には、ハサミが刺さっていた。
「何話してるの? アリス」
私の背後にはメイが立っていた。振り返ると何かを投げた後のように手を前方に伸ばしている。その眼光はもう何度目かになる、闇の抱えた重いものだった。
「メイ……」
「何、この人。裏街道の害でしかないよ」
そう言いながら、メイはミカの元へと歩いていく。
ミカは目を見開いて静止している。額からはドクドクと鮮血が溢れていた。かすかに息があるようで、少しだけ口をパクパクさせていたが、やがて動かなくなった。
その瞬間、胃から何かがこみ上げてきて、思わず近くの茂みに吐き出した。
屋上で見たものは、死体とはいえ見た目はきれいだったからまだ脳がそれと認識していなかったのかもしれない。
だが今、私が目で見ているものはその時と状況が違い、はっきりとそれとわかる凄惨なものだった。
あまりにも唐突に、それもダイレクトに見てしまったことで身体が拒絶反応を起こしていた。
「や、やだ……どうして……」
「どうして?アリスに悪影響だからだよ。もし今の言葉でアリスが帰りたいって思ったらどうしてくれんのさ。ほんと迷惑だね」
メイはそう言うと額に刺さったハサミを抜き、そして今度は胸めがけて躊躇いなく腕を振り下ろした。ズブッという鈍い音と共に真っ赤な鮮血が吹き出す。私は口を押えて顔をそむけた。
「メ…メイ……やめて」
「どうして?この人が大事なの?自分より大事だって思える人がいるの?」
「メイ、どうしたの…?」
「何でみんな裏街道を否定するの?どうして邪魔ばかりするの?ボクはただ構ってほしいだけなのに!」
メイは眉を下げて悲しそうな顔をしながら腕を振り下ろしている。その度に血が噴き出し、辺りは真っ赤な池のようになった。
私は直視できなくて顔を逸らした。視覚的にもメイに向き合って止めることができない。
「メイ。その辺にしておけ」
その瞬間、どこからか声がした。いつもの冷静な声にも今はむしろ安心させられた。
声のした方へ向くと、案の定ガラクが立っていた。
「ガラクも何。邪魔しに来たの」
「そんなんじゃない。文字を教える話だっただろ」
ガラクは脇に抱えていた数冊の本を見せるようにする。そこにはいつもの絵本ではなく、小学生用のドリルがあった。
うーっと唸っていたメイだが、しばらくすると表情を変えて「そうだったね」と笑顔になる。頬にべったりとついた血によって、その笑顔がかえって狂気に見えた。
私は黙ったままガラクを見る。彼は私の視線に気づきながらも構う様子はないが、いつものように無視しているのではなく、今は何も言うな、と言っているように捉えられた。
ガラクは踵を返し、街へと歩き出す。
「とりあえず風呂だ。帰るぞ」
「はーい」
メイはガラクに続いて歩き出す。
ガラクはあまりにも冷静だ。屋上の探索の時には、すでにメイがこのような一面を持っていることを知っていたのかもしれない。だからこそ屋上の光景を目撃しても慌てることなかったのではないのか。
遊び終わった子どものおもちゃを片づけるような自然な振る舞いだった。
先を歩く二人に遅れて私もアパートへと歩き始める。
少し歩いて、この位置からなら衝撃も弱いだろうと振り返る。
ミカらしき身体がある場所は、真っ赤な池のようだった。もうピクリとも動かないが、それでも血の鮮やかさが、先ほどまで生きていたことを物語っていた。
かつての友人がこのような状況になってもなお、死に対しては冷静に向き合っていた。
ミカは私のことを強い人だと言った。でもそれは違う。強い人は考えることを諦めたりなんかしない。私は現実に立ち向かう意欲すら湧かなくなったから、一番簡単な逃げの方法を取ろうとしている。
「結局、どこまでも他人行儀なんだよね……」
胸の前で小さく手を合わせると、足早にガラクたちの背中を追った。