行きとは別に、回り道をして自宅に向かう。
右手には川が広がっていた。橋の下ではBBQを楽しむ若者グループが何組か確認できる。肉の焼かれる音と、甲高い笑い声によって橋が共鳴する。川辺には小さな子どもがはしゃいでいた。この暑い中、BBQなんてよくできるものだ。
だが、彼らの眩しくて純粋な笑顔が見られて、これが物語の立ち位置の違いなんだろうな、と思う。
左手には住宅が並んでいた。目の前にある花壇には、とてもきれいな花が咲いている。雑草は生えておらず、花に栄養がいき渡っているようで、太陽に向かって真っ直ぐ咲いていた。丁寧に手入れが施されているようだ。ピンク、白、紫、色とりどりに咲く花に見惚れて、無意識に足を止めていた。
「きれいでしょ、その花。おばちゃん、頑張って育てたのよ」
ちょうど玄関から出てきた住人と鉢合わせた。その顔を見てあれ?と引っかかる。
思考を巡らせた結果、ホームセンターでレジをしていたおばちゃんだと思い出す。
「この花はアスターと言ってね。ちょうど今が時期なの。昔は恋の花占いにも使用された花よ」
好き、嫌い、好き、と花をちぎる動作をしながらおばちゃんは言う。私は苦笑する。
おばちゃんは所持していたハサミで、花の茎を切り始めた。突然の行動に目を丸くしていると、「はい」と私に切った花三本を渡した。
「せっかくきれいに咲いたんだから、お裾分け」
「あ、ありがとうございます……」
花に見惚れていたから、気を遣ってくれたのだろうか。恐縮に思いながらも手元の花に目を落とす。どれもカラフルで美しい。
自然と花を顔に寄せていた。仄かに香り、脳に癒し効果をもたらせた。
「その制服、花高の人なんだね。あなたもBBQを?」
「いえ、私は偶然、ここを通っただけで……」
おばちゃんへ顔を向けると、彼女は孫を見るような目で、土手の方へ視線を向けていた。
「おばちゃんが働いている店にも、よく花高の人が来るのよ。高校生活なんて一瞬だからね。楽しめるだけ楽しんでおきなさいよ」
「はぁ……」
そう生返事すると、おばちゃんはコロッと表情を変えて、頬に手を当てる。
「しっかしBBQといえば炭だけど、木炭だけなんだね。以前、練炭を買ってく高校生が来たから、うっかり練炭でもできるものだと思っていたわ」
心臓が飛び出そうになった。おそるおそるおばちゃんの顔を窺うが、私の顔を覚えてないらしく、気づいてる様子はない。
「もうすぐ夏休みも終わるだろうけど、残り少ない夏を楽しんでね」
「はい」
軽く会釈をしながら、その場を後にした。
腕時計を見る。針は午前十一時二十三分を指していた。
帰宅するとそのままリビングに向かった。冷蔵庫に冷やしてる麦茶を飲んで、渇いた喉を潤す。干乾びた身体がスポンジのように膨れていく感覚だ。おばちゃんから貰った花も、水を入れた適当なコップに差した。
身体が復活してからは、リビングにあるDVDプレーヤーをセットする。レンタルした作品の中で、まずは『青い夏』を手に取った。
数秒後、ホーム画面が表れる。この作品ではガラクが主演を演じていたので、ホーム画面に大きく彼のビジュアルが映った。
「ガラク……全然、今と変わらない……」
髪や服装はキャラクターであるものの、顔やスタイルが、裏街道にいるガラクそのままだ。目が白いことで、より一層きれいに見える。
この作品が公開されたのは二○○七年で、ガラクが現役で高校生だった頃の作品だ。彼が裏街道に来た時期を考えても、外見が変わらないのは当然だろう。
私は、帰宅途中にコンビニで購入したポテトチップスを開けて、テーブルに広げる。鑑賞の準備が整った後、本編再生ボタンを押した。
現実世界でもあるような高校が舞台であり、キャラクターも特殊能力も持たない、ごく等身大の高校生。それこそ、先ほどテレビで見た世界と同じなのかと錯覚するほどだ。
この作品では、ガラクは高校球児のエースを演じていた。キャラクターではあるものの、それでも彼が演じるのは現実的で、自然な球児そのものだった。
だからこそ物語の世界に介入しやすく、気づけばポテトチップスをつまむ手が止まっていた。
「これ、本当に投げてるのかな……」
映画の中のガラクは、正しくエースそのものだった。とても速い球を投げているが、あまりにも自然なので合成にも見えない。演技をする為に、演技とは別の技術までつけたのだろうか。
小説の中でも目を覆うほどに眩しかった世界。それらにビジュアル、音、そして生身の人間ならではの生き生きとした感情が加わり、さらに華やかで輝かしい物語へと変貌していた。
そんな世界に引き込まれ、気づけば私も物語の中のキャラクターと同じく白熱し、感動し、歓喜していた。まるで同じステージに上がったかのような感覚になり、鑑賞後にはフルマラソンを走り切った後のような爽快感が訪れた。
今まで避けていた道。だが、案外完走するのも気持ちいいものだと知った。
私は、ソファに寝転がりながら、夜まで映画を堪能していた。
いつの間にか眠っていたようだ。時計を見ると午前八時半を回っている。
飛び起きた。裏街道に帰らなくては。
映画鑑賞時に寝落ちしたことで、服は着替えてない。案の定、制服は皺になっていた。それに風呂も入っていない。身体が起きたことにより、空腹も感じていた。
やることが多いな。まずはシャワーに入ろうと身体を起こした。
眠っていたことで、メガネがずれて外れた。慌てて手で目を覆うが、特に違和感は感じなかった。
おそるおそるリビングにある鏡を見るが、そこにはいつもの素朴な私の顔があるだけで、特に変わった様子はない。目も白かった。
「一日表にいたから、目が治ったのかな……」
おもしろ味のない顔にも、今は少し安堵した。そのまま立ち上がって浴室へ向かう。
九時には裏街道に帰ると伝えていたので、慌てて支度する。シャワーも二分で出てきたので、本当に女子か疑いたくなった。
洗濯用にもう一着ある制服に着替える。前回クリーニングに出してから初めて着用するので、皺がなく、清潔な香りがする。無意識に背筋が伸びていた。
テーブルに広げたポテトチップスをひとつつまんで片づけ、散乱したDVDを片づける。
それらを所持し、リビングを出ようとドアに向かったところで救急箱が目に入り、思わず立ち止まる。
ガラクの足が心配だった。裏街道では自然治癒が望めない。だから薬の効能に期待するしかなかった。
だが、私が治療に使用したのは、コンビニで売っている、どのケガにでも使用できる薬の為、ほぼ応急措置としかなっていないはずだ。
裏街道が誕生した時期よりも、今の方が薬も進化しているだろう。救急箱から傷に効きそうな薬を適当に見繕った。
時計を見ると、八時四十五分だった。戻るまであと十五分ある。そう判断した瞬間、急いで階段を駆け上がって部屋に入る。
机にDVDと花の入ったコップ、救急箱から取った薬を置く代わりに、財布を手に持ち、外に飛び出した。
自転車で五分もかからない距離に、二十四時間営業の薬局がある。財布の中を覗き、一万円札が二枚あると確認すると、きず薬や消毒液、ガーゼ、サポーターなど、値段を見ずにカゴに放り込んでいく。
慌ててレジに向かったことと、カゴに入っている品からも、レジの店員さんも気持ち急いで対応してくれた。
部屋に戻り、財布を机に置く。
DVDのレンタル期限の書かれたレシートを確認すると「二○一九年九月四日 午前九時」と書かれていた。明日、帰って来た時に返却しなければ。
購入してきた品が入った袋に、救急箱から取った薬を入れる。エアコンも切り、準備が整った後、鏡の前に立った。
メガネをしているから表情は読めないが、以前より背筋が伸びていた。堂々と地に足をつけ、まっすぐに前を見据えているので錯覚かと思った。
そんな自分を誇らしく思い、鏡に身を乗り出した。
鏡と通じている謎の暗い空間に出ると、表に帰る時とは違い、真っ暗な空間に戻っていた。
一人で抜けられるか心配だったが、前方を見ると、すぐに出口のようなものが見えた。足元など気にかけずに、光を目指して駆けていた。
出口を通ると、いつもの裏街道が一望できる場所に出る。
今かけているメガネは、表の人間の目のようなものだろう。辺りは裏街道に初めて訪れた時のようにとても暗く感じた。メガネを外しても景色は変わることなく、暗いままだった。目が生き返ったんだ、とはっきり実感することができた。
だが逆に、周囲を認識することに時間がかかった。隣のベンチにガラクが腕を組んで座っていることにも中々気づけず、そのおかげで肩を飛び上がらせることになった。
私が裏街道を発つ際も、ガラクはベンチに座っていた。もしかして、ずっとそこにいたのだろうか。
しかしガラクは、私の存在に気づく様子はなく、微動だにしない。
「ガラク……?」
呼びかけても返答がない。
心臓が高鳴り不安を煽った。
心配になり、屈んで顔を覗き込むと、———驚くべきことに、眠っていた。
「珍しい……」
ガラクが眠っている姿は初めて見る。
ここを発つ前、いろいろなことがあった。ガラクはケガまで負った。普段あまり行動しない彼にとったら、相当なエネルギーを消費したはずだ。それに、私がいなくなったことで気が抜けたのかもしれない。
とても気持ちよさそうに眠っているので、起こすべきか迷った。
茫然と見つめていた。こんなにまじまじとガラクの顔を見るのも初めてだった。映画で見た顔と変わらずに、きれいで整った顔だ。
「寝込みを襲うつもりか?」
突然、目が開いてそう言った。私は飛び退いた。
「お……起きてたの!?」
「気配がするから目を覚ましたら、目の前におまえがいたんだ」
ガラクは動じることなく告げる。私は恥ずかしくなって顔を逸らした。
ガラクは首を捻り、私に尋ねる。
「メガネ、どうだったんだ?」
「あ、えっと、特に問題ないと思う……壊れたりもしてないし、普通に生活できたよ」
そう言いながら、メガネをガラクに渡した。
むしろかけていることを忘れるほどに違和感なく見えていた。日常使いに適切だろう。
ガラクは、私の顔をまじまじと見る。急いで戻ってきたので身なりに気が回っていなかった。無意識に顔を逸らす。
「いい目をしてるな」
突如、予想外の言葉が聞こえてきた。驚いた顔で振り向くと、ガラクは僅かに目を細めていた。
予期していなかっただけに、一瞬、自分に向けられた言葉だと認識できなかった。
ガラクは身体を起こして街を見渡す。そんな彼を横目で見る。
さすが元人気俳優といったところか。彼の発言は、あまりにも自然だった。
***
それから私たちは、持参した薬で再度手当する為にアパートに戻った。
階段を使用しない一階の空き部屋、一〇二の部屋に入った。そこも変わらずにふとんやタオルなどの設備が整っていたので、心の中でメイに感謝した。
ふとんをしき、そこにガラクが座って足を伸ばした。たくさん持参した薬の類にガラクも珍しくかしこまった態度だった。
「ガラクはさ、いつ表にくるの?」
手当しながら尋ねる。止血と応急措置が上手くいったみたいで、すでに血は止まっていた。
「とりあえずは、この傷が治ってからだな」そう言って、太ももを指差す。
「ただでさえ目が死んでるんだ。なるべく万全の準備をしてから向かうつもりだ」
ガラクの言葉には、未来への希望が秘められた輝きを放っている。とても力強くてまっすぐだ。
薬を持参したことで、彼の旅立ちを後押しできたようで嬉しくなる。
今までは自分に無関係なことは見ないふりしていた。
だが、案外人に尽くして満たされるのは気分がいいものだ、と実感した。
「そういえば、ガラクの出てる映画、何本か観たよ。どれも最高だった」
その言葉を聞いたガラクは、怪訝な顔をした。
「何で、わざわざ」
「だって、やっぱり気になるもん。それに、小説を貸してくれたのは、ガラクの方でしょ。まさか全部、ガラクが関わっていた作品だとは思わなかった」
本心を素直に伝えると、ガラクは目を細めて微笑んだ。
「いい作品だろ。だからおまえに薦めたんだ」
自分が見られることには不快感を示したが、作品のことになると素直になる。ガラクは本当に作品を大切にして仕事に取り組んでいたんだな、と再確認した。
「でも、あれって本当に投げてたの?凄く球速かったけど」
『青い夏』を見た時に抱いた疑問だ。
「そうだな。まぁ少し加工は施されてるだろうが、紛れもなくオレが投げてた」
「合成じゃなかったんだ……」
「今の技術は知らんが、オレはあまり好きじゃないんだ。撮影の前に二ヶ月ほど型を身につけるために練習したな。当時は一四〇キロ近くまで出せるようになった」
ガラクは上半身だけでボールを投げるように腕を動かす。その動きがまさに映画で見たフォームそのままだった。
やはり撮影の為に練習していたんだ。それほど仕事に対して、また作品に対してガラクの熱意が感じられて心を打たれた。細身でありながらも不健康に見えていなかったのは、努力の賜物だったんだ。
「でも、仕事以外でも時間を使っていたなんて、さすがだね」
感心して口にすると、ガラクは天井を見上げて答える。
「知識でも技術でも、何だって身につければ、何かと役に立つことがある」
「投手の経験も?」
冗談で口にしたが、ガラクは一瞬考え込んで両手を広げた。
「例えば、うるさい奴に向かって、本を投げたりとか」
手当てが済むと、ガラクはしばらくこの部屋で安静にすると言った。
スマホを確認すると「二○一九年八月二十九日十三時二十五分」と表示された。裏街道にいるのも、あと半日ほどだ。
特に用事もなかったが、私もこの部屋に残った。ガラクもそれに関しては何も言わなかった。
他愛ない話をして、たまにメイの影がちらついて重い空気になり、気を逸らす為に本の話題を振り、その度にガラクはネタバレに怯え、そんな様子を見て笑いあい―――
そして気づけば、二人とも眠っていた。
「本当に死ぬのか?」
部屋を出ようとする私に、ガラクは尋ねた。
今日は八月三十日、タイムリミットだ。
私は数秒黙った後、顔を上げてガラクを見る。彼はまっすぐ私に顔を向けていた。
「私さ、ガラクの映画、観たって言ったよね。特に『青い夏』は今年、甲子園初出場した私の高校と重なって、とても心に響いたんだ」
目標は大きさではなく、持つことに意味があるのだろう。例え小さな目標でも、所持しているだけで生きる意味になるには違いないのだから。
人間はいずれ死ぬ。その運命は誰だって変わらない。だからこそ私は、最後は自分で決めようと思ったんだ。
「何の話だ」
「そのDVD、返却期限が九月四日なんだよね。せっかくなら、期限いっぱい堪能してからにしようかなって、思ってさ」
第四部 完