第五セメスター:五月④



 私は隠すことに必死だった。
 あの日は、あの後解放されて飲み会に戻ったが、体調不良を言い訳にすぐに帰宅した。それから、海老原くんはもちろん、天草でさえ、無意識に避けるようになってしまった。

 全部、私が油断してしまったせいだから。

 できるだけ普通に振舞った。部活内でも業務連絡をする際も、海老原くんも普通だった。
 だが、常に緊張の糸が張っていたようだ。

「昨日、海老原くんの家が……」

「家に行ったの!?」
 部室内、後輩たちが話していた言葉が届き、私は思わず声を上げた。

「い、いや、海老原くんの家が近くにあるって知ったって話で……」

 突然、話に割り込んだ私に、後輩は怪訝な表情を浮かべる。海老原くんは、何事もないような澄ました顔をしている。

「どうかしましたか? 空さん」海老原くんが純粋な瞳で問う。

「い、いや、何でもない……」
 やり辛くなり、私は、顔を引き攣らせた。

 普通に挨拶し、廊下ですれ違った時も普通に挨拶する。あまりにもの平然とした毎日に、一ヶ月経った今では、あの日が錯覚だったのではと思うようになっていた。

 だが、油断した頃に現実を突きつけられる。

『空さん。お腹が減りました。明日うち来てください』

 夜、海老原くんからメッセージが届いた。短いメッセージだが、その意味は解っていた。

 家にいけば何をされるのか、そして行かなければどうなるのか。

 明日は土曜日。講義もなければ偶然バイトも入れていない、天草と会う予定もない貴重な完全オフ日だ。もしかしてこちらの予定すら把握しているのでは、と感じるほどの気持ち悪いタイミングだ。

 私は、思考がおかしくなっていた。土屋さんの一件から、改めて恋愛は人を歪めてしまうものだと実感した。
 逆らうことなんて、できない。

「空さん。来てくださると信じてましたよ」

 次の日、海老原くんは笑顔で出迎える。
 目立たないよう帽子にマスク、と露骨に変装スタイルの私には気にも留めない。

 私は無言で彼の部屋に入る。海老原くんは最大限に私をもてなした。

「空さんの為にたくさんオモチャを用意したんですよ。たっぷり時間があるので、今日はたくさん遊びましょうね」

 海老原くんは、無邪気な子どものようなあどけなさで笑う。室内に置かれた大量の玩具に私は顔が引き攣った。

***

「おまえ、最近変だぞ」
 
 天草の自宅内。映画を見ている時、天草が私に触れた時に、ついに指摘された。思わず頬が、ピクリと反応した。

 最近、肌に触れられるだけで反射的に身体が反応するようになった。強張って硬くなる。確実に海老原くんの一件以降だ。
 その反応は、天草に触れられる時も出てしまった。

「どうしたんだ?」

 天草は優しく問う。言葉が見つからず、私は唇を噛み締める。
 彼に後ろめたいことがあること、そして彼の優しさが温かくて、意に反して涙が溢れた。私は隠しごとが下手だ。

「ごめん……ごめんなさい…………」

「お、おい、どうしたんだよ」

「ごめんなさい……」

 もう隠すことはできない。
 私は、正直に打ち明けることにした。

 当然と言えば当然だが、天草は怒りをあらわにした。だが、私ではなく、海老原くんに対してだった。

「言っただろ。男って下心ないやつの方が珍しいんだって」
 天草は、冷静な声で諭す。その声は、怒りを抑えるような荒々しさが感じられた。

「本当に……ごめんなさい……。でも、データがどうなるか恐くて、逆らえなかった」

 そう打ち明けると、天草は頭を掻く。

「おまえは、自己犠牲をしすぎるんだ」

 土屋さんのことも含んでいるとは伝わった。確かに私は、私のせいでと考えていた。全て筒抜けで返す言葉がない。

「正直、あいつは最初から嫌いだった。ずっとおまえにくっついてるからさ。俺もちゃんと見張っていればよかった……俺こそ悪い」

 その夜は、何度も抱かれた。私も精一杯、彼の愛に答えた。
 天草は私の身体を夢中にまさぐる。理性に抗うように少し乱暴で、だが温かみのある手で、触れられるたびに安心感が包まれた。
 今までの出来事を忘れさせてくれるように上書きされ、そして体内が浄化されるようだった。

「おまえには俺がいる。もうあいつのことなんて忘れてくれ」

 天草が何度もそう囁く。

 他の人が入る隙間なんてない。私には、天草がいるんだ。
 私はその日からは、心を入れ替えた。

***



「空さん。俺のこと避けてます?」

 部活動中。海老原くんがそう言った。
 捨てられた子犬のような潤んだ悲しそうな瞳。華奢な身体に薄めのカーディガンとシンプルな服。普段は全く異性に関心がなさそうな草食系にしか見えない。

「そうかも」

 グッと堪える。騙されるわけにはいかない。

「構っていただきたいので、今晩ウチ来てください」

 海老原くんが声を落として言った。
 だが、私はもう言いなりにならない。

「悪いけど、もう行かない」

「どうして?」

「私には、恒星しかいないから」

 その言葉に、海老原くんは僅かに嫌悪感を示す。私は視線を合わせないように言葉を続ける。

「もう、こんな関係も終わり。私はあなたの気持ちには応えられない。だから、わかって」

 ハッキリと口にした。後ろに天草が支えてくれている力強さがあった。

 海老原くんは、しばし呆然とするが、やがて表情を一変し、静かに涙を流した。
 予想外の反応に、私は目が丸くなる。

「海老原くん……?」

「僕に、しませんか?」

「え?」

「僕、本当に空さんが好きなんです……。今までは見てるだけでいいって思ってたけど、やっぱり無理でした……彼女になってください」

 海老原くんは、ボロボロ泣きながら言う。応えられないとハッキリ伝えたはずなのに、聞いていなかったのだろうか。
 涙を流す海老原くんは、妙に神々しかった。さすがに二度同じことを伝えるのも胸が痛いとはいえ、良い顔はしていられない。

「ごめんなさい……。恒星を裏切ることはできない」

「……そうですか」

 海老原くんは、ピタリと泣き止むと、私に顔を向ける。その瞳は、先ほどとは打って変わって濁っていた。

「僕、おかしいです……。普通、こんな場合は、データをばらまくだとか強行手段に出ると思うんです。空さん優しい方ですし、自傷してもいいかもしれません」

 ゾワッと悪寒が走った。懸念していた最悪の反撃だ。
 だが、海老原くんは、悲し気に視線を落とす。

「でも、そんなことしたら、空さんが悲しむでしょう。僕、先輩に嫌われたくないんです。ただ寂しかっただけですから。だから、僕が関わることで空さんが迷惑なら、もう何もしません……」

 そう言うと、海老原くんは、背を向ける。

「さようなら。先輩」

 私の傍から離れる海老原くん。今にも消えてしまいそうな哀愁漂う背中に、「ねぇ」と思わず口が開く。

「安心してください。データは全て消しました。大丈夫です。粘着系ではないので」

 海老原くんはそう言うと、そのまま学校を出た。

 離れられると怖い、と咄嗟に声をかけていた。海老原くんがこのまま私の知らないところへ行くと、彼がどうなるかが不安だった。
 海老原くんを思ってのことなのか、またその現実を知った私がどう思うのか。八方美人なのか自己犠牲なのか。

 おかしくなっているのは、私の方なのかもしれない。

***