第一章『青天に映える白』③




お父さんが家でよくプロ野球を見ていただけに、少しは野球の知識がある。
ただ、球場に訪れた経験はなかったので、変に緊張した。

「広い……!」

球場内に入ると、雲ひとつない真っ青な空が目に飛び込む。
惜し気もなく曝け出された日が眩しくて帽子をかぶり直す。観客席を見回すと、まだ九時前でありながらもたくさん人が入っていた。
電光掲示板には、両チームの高校名が表示されている。私の通う紫野学園高校は、後攻のようだ。
グラウンドに顔を向ける。しっかりとならされた土に白線が映え、傍らで両チームの選手がウォーミングアップを行なっている。すでにシートノックは終えていた。

選手が集まる輪の中に、ハヤミくんの姿があった。彼は捕手のようで、防具を身体につけていた。背番号は2だ。初めて見る彼のユニフォーム姿がとても新鮮に映った。

茫然と眺めていると、偶然ハヤミくんと目が合う。彼は目を細めて笑った。チームメイトが近寄り、私を一瞥すると彼を揶揄うように弄り始めた。
今から試合なのに緊張感が感じられずに苦笑する。純粋に試合が楽しみでソワソワしているようにも見える。

私は、紫野学園高校側の応援席に腰を下ろす。そのタイミングで試合開始のアナウンスが鳴り響き、かけ声と共に球児は走り出した。

***

目が離せなかった。

試合は乱打戦となり、快音が鳴り響くたびに球場がどよめいた。試合前まではふざけあっていた選手も、今は白球から一切、目を逸らさない。

チームメイトの熱いかけ声、快晴に突き抜けるブラスバンドの演奏、一喜一憂する観客の反応。その全てが試合をさらに白熱させた。
テレビでは感じられない球場の空気に、震えが止まらなかった。

延長戦にもつれ込む。相手チームに追加点が入り、裏の攻撃へと移った。
この回で、一点でも取らないと敗退となる。応援席は張り詰めた空気になった。

初回で一本ヒットが生まれ、犠打で得点圏にランナーを進める。続く打者は、慎重に球を選別して、フルカウントまで粘る。投手も打者も次で決めるといった覚悟が滲んでいた。

私は胸の前で手を握って祈る。
その瞬間、今日一番の快音が球場に響き渡った。

自販機でスポーツドリンクを購入し、紫野学園高校の選手が集まる場へと向かう。みんな笑顔で各々休息をとっていた。

チームメイトと話すハヤミくんを見つけ、おそるおそる近づくと、彼は私に気づいて手を挙げた。

「決勝進出、おめでとう」

先ほど購入したスポーツドリンクをハヤミくんに差し出した。彼は、「ありがとう」と照れ臭そうに受け取る。

「最後、祈ってくれてたでしょ?」ハヤミくんが尋ねる。

「え?」

「オレ左打ちだから、三塁側の応援席がよく見えるんだ」とバットを構えるポーズをする。
まさか見られていると思わずに赤面した。

「一点ビハインドのツーアウト二塁で少し緊張してたんだ。でも風嶺が見えて力みが抜けてさ。そのおかげでさよなら。こちらこそありがとう」
ハヤミくんの濁りのない笑顔に頬が緩んだ。

「おいシュン。おまえが調子いいのは女子が見てくれてるからかよ」

後ろからチームメイトがニヤニヤした顔で近づく。

「そりゃ、女の子に応援されると、やる気が出るに決まってるよ」

ハヤミくんはあっさりと言う。それを聞いたチームメイトは、彼を指差して「今の聞いたか?」と私に訴える。

「こいつ、活躍したからって調子乗りやがって」チームメイトはハヤミくんの首に腕をかける。

「カズキの足がなけりゃ同点だった」ハヤミくんは笑いながら腕を払う。

「あーずるい。そういうところずるい」

ハヤミくんの爽やかな返答に、チームメイトは毒気が抜けた顔で茶化す。

みんな浮き立っている。先ほどグラウンドで見ていた彼らとは違い、今は普通の男子高校生にしか見えない。微笑ましくて口元が緩んだ。
バスが到着し、集合の合図がかかった。チームメイトは走って戻る。

「決勝、明後日なんだけどさ。テレビでもやるから、もし時間あったら見届けてよ」

ハヤミくんは振り向きざまに告げると、同じく輪の中に戻った。私は手を振って、彼らの背中を見届けた。

軽い気持ちで足を運んだが、かなり気分転換になった。普段は鬱陶しいと感じる日差しも汗も、この球場で味わうには、とても気持ちがいいものだ。
だが、三時間近く屋外で観戦していたので、さすがに疲労を感じた。私も帰宅する為に出口へ向かう。

球場の空気から、私自身かなり高揚していたのだろう。

そのおかげで、この時、私を見る視線には気づけないでいた。

 

***

 

シャワーから上がると、スマホにメッセージが届いていた。知らない友だちだが、内容を見るとハヤミくんだった。

『ハヤミです。お礼が伝えたくてグループから登録しました。今日は観に来てくれてありがとう!』

無駄のないストレートな文面だ。メッセージまで爽やかな空気が漂っている。

『こちらこそ誘ってくれてありがとう。とても楽しかったよ』

メッセージを送信した後、あっと思い出し、再び文字を打ち込む。

『決勝戦。また応援しに行くね』

明日登校すると、火曜日からは夏休みだ。テレビでも放送すると言っていたが、球場でしか感じられない空気を再び味わいたいと思った。

『本当?嬉しい。頑張れるよ』

返信と共に、ゆるい動物のスタンプが届く。
口元が緩み、私もスタンプを送信してメッセージアプリを閉じた。

新鮮な気分だった。今までは恋人を作らないと決めていただけに、無意識に異性とは距離をとっていた。それこそ、リョウヘイくらいしか話せる異性はいなかった。

『恋愛ゲーム』を盾に、現状を変えるきっかけにもなるはずだ。
幸い、ゲームが終了する三ヶ月の間に、夏休みと体育祭がある。その為にもまずは、何事も積極的に行動しよう。

意志を固めたところでお腹が鳴った。

悔しくもリョウヘイの話から、舌が牛肉を欲していた。それこそ頭から離れなかった。今日は以前訪れた遠方のスーパーへ行こう。

「恋愛は、特売の牛肉……」と呟きながら、カバンを手に取った。

 

***

 

今日は終業式で午前のみ。
教室内が騒がしい。受験勉強があるとはいえ、明日から始まる夏休みにみんな浮き立ってる。私も本当は、受験講座の間に旅行と海に行く予定があった。

あれから何度か病院に足を運ぶものの、依然としてナナミは目を覚ます気配を見せない。無意識に彼女の座席に顔を向けていた。
だが今日は、笑顔で手を振るハヤミくんの顔が目に入った。

「この時間にいるの珍しいね」

「今日は朝練なくてさ」
昼からがっつりあるけど、とハヤミくんは続ける。

確かにいつもより席が埋まっているなと感じていた。

ハヤミくんの手元にあるプリントに目がいく。スコアのようなものだ。
私の視線に気づいた彼は、あぁこれ、と言ってプリントを手に取る。

「明日の対戦高校の。さすが甲子園常連校というか。ややこしくってさ」

「そっか。ハヤミくんキャッチャーだもんね」

「うん。投手が全部オレ任せにするから余計に」ハヤミくんは苦笑する。

普段見る彼からも、周りから頼られる人だろうとは感じられた。

「シュン。これ」

突如、冷静で淡々とした声が聞こえる。

振り向くと、私の後ろにクラスメイトの桃山 明日香(モモヤマ アスカ)が立っていた。かなり小柄だが、きれいな顔立ちに黒くてまっすぐ伸びた髪からも大人な印象を受ける。

「あぁ悪い。助かるよ」

ハヤミくんは、モモヤマさんの手に持つ紙袋を受け取った。
彼女は私を一瞥すると、そのまま席へと戻った。私は首を傾げる。

観察するような鋭い視線だった。彼女とはあまり話したことはないが、あまり良い印象は持たれていないのだろうか。

始業のベルが鳴り、自分の席へと戻った。

 

***

 

校長の無駄に長い挨拶を聞き流し、宿題を受け取ると、終業式は終了した。
「また講習でな~」といった挨拶が繰り返される中、私も帰宅の準備を進める。

今日の夕食は、リョウヘイ母に頂いたそうめんにしよう、とぼんやり考えていると、大きなスポーツバッグを背負ったハヤミくんが脇を通り過ぎた。

「じゃ、会えたら明日」ハヤミくんは笑顔で言う。

「うん。応援してるね」
手を振って答えると、彼は颯爽と教室を後にした。

茫然と背中を見送っていると、背後に気配を感じてびくりと反応する。

振り向くと、モモヤマさんだった。私とハヤミくんのやりとりを見ていたようだ。

「えっと……どうかした?」

反射的に驚いたことに恥ずかしくなり、頭を掻きながら尋ねた。

「風嶺さんって、シュンが好きなの?」
モモヤマさんは淡々と尋ねる。

「え」

「昨日、球場に来てたでしょ?」

何故、私が観戦に行ったと知っているのだろう。だが、その理由もすぐにわかる。

彼女の腕が微かに焼けていた。彼女も昨日、球場に訪れ、私の姿を見かけたんだ。

「えっと……」

何と返答すれば適切か頭を悩ませた。

恐らくモモヤマさんの言う「好き」は、私の知る「好き」の感情と違う。それこそ恋愛ゲームで必要とされる感情の方だ。
だが、私にはそれがわからない。とはいえ、嫌いでないのは確実だ。

私が返答に困っていると、同意と捉えたのかモモヤマさんが顔を落とした。

「実は私、シュンと幼馴染で……」モモヤマさんは細い声で呟いた。

はっとして彼女を見る。表情こそ変わらないものの、視線を逸らして、緊張の感じられる態度だった。

あぁ、なるほど。と私は思う。
彼女は口下手なのかもしれない。この展開、漫画やドラマで見たことがある。

「心配しないで。大丈夫だから」

安心させるように伝えると、彼女は少し目を丸くして顔を上げた。続ける言葉も浮かばず、私は荷物を手に取り、そそくさとドアを抜けた。

湿気の孕んだ雨の香りがする。空を見上げると、暗い雲が立ち込めていた。
今日は午後から雨天予報が出ていたと思い出し、足早に自宅へと向かった。

幼馴染。その言葉が私に刺さった。

モモヤマさんは、ハヤミくんが好きなんじゃないのか。
勝手な妄想だが、身近に感じられて見逃せなかった。関係を崩したくない気持ちは痛いほどわかる。

恋愛ゲームとはいえ、恋人関係になる必要はなく、元々その気もなかった。

ただ、少しだけ胸がざわついている自分がいた。

 

***