第一章『青天に映える白』④




球場周辺は、以前来た時よりも人で溢れていた。さすが決勝戦、メディア陣もたくさん来ている。私は慌てて中に入った。
通路を進むと、先日と変わらない快晴が目に飛び込む。球場から見る空がきれい、という言葉もわかる気がした。
球場内に入ると、外野までほぼ満員状態だった。紫野学園は先攻で一塁側だと確認すると、足早に応援席に向かって席を探した。

運良く席が空いていたので腰を下ろす。グラウンドの方に顔を向けた時に、前方の席に座るモモヤマさんに気づく。
大きめのツバつき帽子にアームカバー、首にはタオルをかけ、足元には保冷ボックスと観戦慣れしている装備だ。彼女はまっすぐグラウンドに目を向けている。私は小さく息を吐く。

大丈夫、二人の仲を邪魔したりはしない。ただ、純粋に応援くらいはさせてほしい。

球場アナウンスが鳴り響き、決勝戦が開始した。

試合は八回裏、紫野学園高校が一点先制している状態だった。継投により、相手チームに的を絞らせないでいた。盛大な金属音が鳴り響くが、フライで処理して交代。
九回表、紫野学園高校にヒットが続き、一点追加したところで交代。さらに差をつけた。
九回裏、この回をきっちり抑えれば甲子園だ。会場全体が緊張感で包まれる。

私も手に汗握って観戦した。
うちの高校は、何度か甲子園に足を踏み入れた経験がある。私が一年の時にも出場したはずだ。だが今まではきっかけがなく、別世界だと感じていたので関心を抱いていなかった。
しかし、ハヤミくんがチームにいるというだけで、甲子園という舞台を一緒に願っている自分がいた。

ミットにボールが収まる音が響く。得点圏にランナーを置いているが、あとアウトひとつに迫る。

だが、そこから思いがけない事態が起こる。

投球が乱れて捕手が体勢を崩す。ミットからボールが逸れ、その間に得点圏にいたランナーは三塁へ進塁した。
ランナー一、三塁に変わる。投手も捕手も目を白黒させていた。

球場全体が息を呑む。前回とは状況が正反対だ。ここで一本でも出てしまうと、形勢が逆転する。
目を閉じて願う。しかし、思いは虚しいものだった。

快音と共に、三塁側から大歓声が起こった。

相手高校の校歌が球場に響き渡る。口ずさむ選手の顔は笑顔だった。
拍手が起こり、応援席まで元気よく走っていった。

紫野学園高校の選手も応援席の前までやって来る。普段あんなにふざけあっていたチームメイトも、今はみんなむせび泣いていた。彼らの涙は観客の涙腺まで緩めた。
だが一人、ハヤミくんだけはそんなチームメイトの背を擦り、整列を促した。

表彰式が終わり、ぞろぞろと観客たちが球場を後にする。
私は、紫野学園高校の選手が集合する場所に向かった。地面にしゃがみ込み、いまだ涙を流す選手が目に入る。慌てて周囲を見回すも、彼の姿がない。

少し離れた自販機でドリンクを購入するハヤミくんに気づき、声をかけようと近寄るが、思わず静止した。
ハヤミくんは、静かに涙を流していた。先ほどまでチームメイトを支えていたので、みんなの前では泣くのを我慢していたんだ。
胸が苦しくなり、声がかけられなかった。

呆然と立ち尽くしていると、モモヤマさんがハヤミくんに声をかけるのが目に入る。
彼女は真顔のままタオルを渡し、ハヤミくんは、涙を流しながらもいつもの爽やかな笑顔で対応した。

私は、顔を逸らして出口へと向かった。

***

スーパーで夕食の買い出しをして帰路につく。いつものようにニュースを流すも、今日は頭に入らなかった。
スマホを手に取り、メッセージアプリを開く。結局、声をかけられなかったので、一言メッセージを入れた。

『今日は本当にお疲れ様。いい試合をありがとう』

何度も推敲した結果、シンプルでありきたりな文になる。送信するとアプリを閉じて、天を仰ぐ。

球場に訪れて感じたのは、あの場には、試合の結果以上に動かされるものがあることだ。
大勢の人が小さな白球を追いかける情熱、一体感、興奮。
熱中できるものがない私にとっては、球場という場所がとても熱く感じた。
そして、そんな熱を全身で発するハヤミくんの姿が、素直にかっこいいなと尊敬した。

ずっとハヤミくんのことが頭から離れなかった。普段は爽やかな笑顔で周りから頼られる存在だからこそ、初めて見た彼の泣き顔が胸に刺さった。
だが、彼を思い返すたびに、モモヤマさんの存在がちらついた。

きれいごとだとはわかっているが、ゲームがあるとはいえ、他人の感情を弄ぶことはしたくない。
でも正直、どう進むべきか悩んでいる自分はいる。

二階で物音がした。珍しく姉も部屋で何かしているのか。私の作った夕食は食べてくれているようだが、もうずいぶん姿も見ていない。

私は溜息を吐き、夕食の準備を再開した。

 

***

 

ゲームもあるが、今年は受験もある。三年の夏休みをいかに過ごすかが鍵だった。
すでにいくつか、オープンキャンパスに参加する予定も立てていた。

「リョウヘイはさ、どこにするか決めてたりするの?」
大学のパンフレットをめくりながら尋ねる。

「いやー特に。適当なとこでいいかなって」
同じくリョウヘイも、床に寝そべりながら大学のパンフレットを眺める。

今日は金曜日。いつも通り夕食にお邪魔していた。今夜のメニューは天ぷらで、油のぱちぱち弾ける音が二階まで響いてる。
明日は、近場の大学に二人でオープンキャンパスに訪れる予定だ。

私は顔を上げてリョウヘイを見る。

「そんな適当でいいの?」

「大学は勉強っつーより、人脈作りに行くようなもんだろ」リョウヘイはあっけらかんと答える。

「オレの兄貴を見てみろよ。あんなちゃらんぽらんでも、人脈だけは広いおかげで、四年で卒業して仕事もしてる」

「確かに」そこは納得した。

五つ上のリョウヘイの兄は、言ったらなんだが、かなり自由な人だった。見かけるたびに隣にいる女の人は変わっていたし、朝学校に向かう時に道端で眠っていたりもした。酒、たばこ、女、といった三大要素を好んでいた。

そんな彼が、卒業して就職もしたと聞いた時には、人は変わるものなんだなと驚いた。ちなみに今は家を出て美人の彼女と同棲しているらしい。

「まぁ、私も特に決められてないからなぁ」

金銭的な面で絞りつつはあるものの、ひとまず大学に進学し、生活に困らない程度稼げる職場に就職できればいいと考えている。漠然とした将来に向かって走ってるに過ぎなかった。
だからこそ、明確な目標を掲げて進路選択していた姉をとても尊敬していたんだ。

「だろ?周りもそう言ってるやつが多いんだって。ただな」
リョウヘイは身体を起こす。

「高校卒業したら、家は出ようって思ってる」

「え?」

「これは前から決めてたことだけどな。学費はさすがに全部は払えねーから、少し出してもらうけど。でも、来週からまたバイトも始める」

「そ、そうなんだ……」

いつものように変な理屈が繰り出されると思っていただけに、真面目に将来を告白したリョウヘイに動揺した。何だか取り残された気分になり、急激に寂しさが襲った。

「おまえがオレを選んでたら、変わってたかもしんねーな」

リョウヘイの投げやりに呟く声が届く。もはや自虐ネタとして扱っているようにも思える。私は口を噤んで顔を向けた。

だが、リョウヘイはふと思い出したように、口を開く。

「兄貴はよ、品種も消費期限表示も書かれてねぇ肉を無差別に手に取った。それが和牛のこともありゃ、腐ってて腹を下すこともあったろ。そのおかげで目が鍛わり、情報元も増え、品種を選別できるようになった。結果、霜降り和牛に辿り着いた」

確かにリョウヘイ兄の彼女は、お嬢様大学出身で、容姿も頭脳も優れた人だと聞いていた。
私は数秒黙り、言葉を選ぶ。

「それは、私に対してのアドバイス?それともリョウヘイの宣誓布告?」

「兄貴の人生を振り返っただけだ」リョウヘイはあっさり言う。「ただな」

「ただ?」

「理には適ってるだろ」

私は腕を組む。「私には、表示のない肉を手に取る勇気はない」

「肉は大抵、焼けば食える」リョウヘイはぶっきらぼうに答えた。

 

長テーブルがずらっと並ぶこの大教室内には、すでにたくさんの人が座っていた。
後方が騒がしい。オープンキャンパス時の印象も、受験に関わるとは話で聞いているものの、初めて訪れる大学にみんな浮き立っているとわかる。

「知ってるか?この大学は、講義のノートが学外で販売されてるらしいぜ。だからわざわざ面倒な板書をとらなくっても、それを手に入れさえすれば、単位もほぼ確実らしい」
隣に座るリョウヘイは、目の前の冊子の束を手で弄びながら言う。

腕時計を見ると、学部説明会が始まるまで、まだ十五分あった。残念ながら雑談に付き合う時間があるようだ。

「でも、講義に出たら、わざわざ買う必要はないよね」と素朴に感じた疑問を投げかける。「講義に出たら、タダでノートが手に入る」

「不思議なことに、大学生になった途端に、講義に毎回出るって当たり前のことができなくなるらしい」
リョウヘイは、都市伝説でも話すかのように口にした。

「そんなことあるの?」

漫画やドラマではよく見られるものの、実際授業をサボるという行為は、中々できるものじゃない。一日でも休むだけで、周囲に後れを取るものだ。
だから「授業を出ない」という選択肢がそもそも浮かばなかった。

だが、リョウヘイは「大学は、今までのオレらの中の「学校」というイメージを覆すものでよ」と大げさに前置きして語り出す。

「大学は、教授によって評価基準が変わる。毎回小テストを行って期末テストがない人もいれば、出席が評価対象にならずにレポートさえ出せば済む人もいる。だからだれるんだろうな。いわば、四年間で必要単位数が取れるかのゲームに近いってもんだ」

「単位取りゲーム」と思いつきを口にすると、「しかもそれは、金によって左右される」とリョウヘイは付け加える。

「単位も評価も時間も自由も全ては金でやりとりされるんだ。金さえ積めりゃ参加できるし、クリアまでのプレイ時間を伸ばすことも可能だ。大学は汚いところだ」と『入学案内』と書かれたパンフレットを手に持ちながら罵倒する。

「リョウヘイ。受験する前に落とされるよ」私は無意識に周囲を見回していた。
だがリョウヘイは、「勘違いすんな」と私を指差す。

「今のはゲームに参加する可能性のある奴らの見解だ。少なくともおまえは該当しない」

「何でそんなこと言えるの」興味はないもののそう尋ねると、「ゲームに参加する可能性のある奴はひと目でわかる」と返答があった。

「それは教室のどこに座ってるかってことだ。それは広い教室ほど顕著に表れる」

その言葉を聞いて、ふと今座っている席を見た。私たちが座っている席は前から二列目だ。周囲はまだ空席はあるが、後ろを振り返ると、隙間なく席がうまっていた。

リョウヘイに顔を向ける。

「だって黒板の文字が見えないし」

「不参加の奴は、みんなそう言う」彼は満足気に頷いた。

「でも、そんなおまえらでも、汚い世界に参入できる道はあるんだ」
まるで朗報だ、といったテンションで切り出すので「別に参入したいとは思わないけど」と眉間にしわを寄せた。一体こんな話、どこから仕入れてるんだ。
しかし、リョウヘイは話すことをやめない。

「講義ノートは、買うだけじゃなくて売ることもできる。そもそも講義ノートは、学生からノートを買い上げて生まれるもんだ。今まで価値の見いだせなかった板書、この世界ではそれが金になる」

リョウヘイは、どうだ、と口角を上げた。
私は顎に手をやり「それはありかも」と呟いた。

***

次の学部説明開始まで、キャンパス内を探索していた。

巡回する警備員や、様々なサークル案内の貼られた掲示板も、大学特有に感じられる。
装飾的なアーチのある道を進んでいくと、何かを記念したプレートや彫刻が飾られており、小道の脇には手入れされた花壇にベンチがいくつか並んでいた。
芝生に足を踏み入れると、柔らかな弾力と共に、刈りたての新鮮な青い香りが舞う。奥のテラスでは、男女グループが旅行パンフレットを片手に談笑していた。

「すごいね。大学って感じがする」
私は忙しなく目をキョロキョロ動かす。

この大学は、一か所に全ての校舎が収容されているので、地図がないと迷うほどに広い。
高校とはかけ離れた自由できれいなキャンパスに、テーマパークにでもきたような錯覚に陥った。

遠くから工事の騒音が聞こえて現実に引き戻される。確か来年に新校舎が建つ、とパンフレットに記載されていた。

「あれ? 風嶺」と声がかけられたのは、突然だった。