「うしろ、通ります」
その一言が言えなかった。喉まで息が通らず、唇が接着されたように開かず、言葉として紡げない。そのため、通路が人で塞がれて通れないときは、遠回りしてでも別の道を使う。
だがいまは朝の登校時間、すなわちクラスメイトと自由に話せる貴重な時間でもある。教室一番端の窓側にある私の席へ向かう通路は、残念ながらどの通路も人で塞がれていた。私の席だけまるで無人島のように孤立している。
今日は忘れものを取りに帰ったことで、普段より少し登校が遅れた。三十分ほど余裕をもって家を出たので、一度家へ戻ろうとも登校時間には十分間にあう。だが、クラス内の人口密度は十分遅れるだけで、ずいぶん変わるものだ。
通路を塞ぐ人たちは、話に夢中で私に気づかない。存在感が薄いと自覚しているので、いまさら落ちこむこともなかった。
私は、マスクをつけ直すと、スクールバッグを両手で抱えるように持つ。諦め半分で息を吸うと、身を縮めて静かに通った。
半分ほど通りすぎたとき、「あ、ごめんごめん」と、道を塞ぐ人物はやっとこちらの存在に気づき、身体を机へよせる。だが、意識をこちらへ向けたのも一瞬で、すぐに友人との談笑へ戻った。
孤立した無人島へ辿り着くと、カバンを下ろして小さく溜息をついた。私の名前は夕雨 小夜(ユウアメ サヨ)のため、名簿順だと大抵最後になる。案の定二年でも最後になり、座席は窓側一番奥となった。
学校はこれからだというのに、すでに疲労を感じていた。これからは、忘れものに気をつけなければいけないものだ。
カバンからノートなどを取り出し、引き出しに入れる。窓の外から、登校する生徒の騒がしい声が届く。温かい穏やかな気候と、花弁の散った桜の木が、春の終わりを告げていた。
私は、話すことが苦手だ。自分の発言で、相手に迷惑をかけていないか、手間ではないかといった不安が浮かび、脳内を埋めつくす。思考すればするほど、口が鉛のように重くなり、開かなくなる。その顔が怒っているように見えるのか、相手には「機嫌悪い?」と尋ねられる始末だ。弁解するにも表情筋が固く、感情が顔に出づらいので伝わっているかは定かでない。そして気づけば言葉として発するタイミングを逃すのだ。
顔を隠すために、また口を塞ぐためにマスクをつける。たった一枚の布切れが、話さなくてもいいのだと安心させてくれた。感染症が流行して以降、マスクは日常的な品となり、つけていても理由を尋ねられることもない。マスク文化には感謝していた。
ドアがガラリと開くと同時に、「はよ~!」と明るい声が教室中にこだました。その声に反応するように教室内が騒がしくなる。
登校時間終了である八時二十分に近づくにつれて教室内に入る生徒も増えるが、すぐに誰が登校したのか伝わった。いまでは毎朝の馴染みとなった光景だ。
私も声に引かれたように顔を向けていた。教壇前、人の輪の中心にいる声の主。柔らかい髪を横に長し、つり上がった目に整った眉と好感のある顔立ち。目を引く鮮やかなオレンジ色のパーカーを着用し、校則の範囲内で制服をカジュアルに着こなしていた。
暁 璃空(アカツキ リク)。私とは正反対の人種だった。
暁のことは、一年生の頃から知っていた。基本、休み時間には廊下に出て友人と談笑し、雑味がなく通る笑い声は、廊下中に響いていた。その楽しそうな声に引き寄せられるように人が集まる。彼の明るさと壁を感じさせない性格から、男女ともに人気のある人物だ。
そんな暁と、二年になって同じクラスになったと知ったとき、少しの期待と不安がつのった。
暁は、誰とでも打ち解け、その場にいるだけで明るくなる目立つ人物だ。同じクラスになったことで楽しいクラスになるのでは、と気分も高まったものだ。自分にはないものを持つ彼に、内心憧れがあるのかもしれない。それに楽しく会話している人物は、芸能人のように遠くから眺めるだけでも気持ちが伝染する。
だが、もしも近くの席になったときに話しかけられたら、もしも話さなければいけない機会が訪れたら。
暁の声はとても通り、話すだけで存在感が浮かびあがるほどだ。楽しそうな声に、今のように無意識に目が引かれる。だからこそ話しかけられると、他の人から注目されやすい。そんな中、この私がうまく会話できるわけがないのだ。
きっと暁にとったら、気軽に話しかけてるだけだ。だが、私のような陰の人種は、陽の人間と話すだけでも緊張するのだ。
そんなありもしない不安ばかり浮かびあがる。そもそも、よほどの偶然が重ならないかぎり話す機会も訪れないだろう。実際、新学期がはじまり一ヶ月が経とうとする四月下旬の今も話したことがない。
だが、クラスという小さな箱の中では可能性がないとは言えない。可能性の低いことを懸念し、勝手に不安になるのが私の特性でもある。口下手なくせに、おもしろくない人間と思われたくないだなんてずるい気持ちもあった。
私は、教室内を軽く見回す。一番人の集まる暁のいる教壇前は、クラス内でも目立つ人たちが中心だ。そして教壇から離れた机ごとに、数人の仲の良い人たちが集まる。例えるならば、暁たちのいる教壇周囲は本島、それ以外は離れ島といった感じだった。無論、私は無人島に孤立状態だ。
この人は怒りっぽいな、この人は数学が苦手なのか。反応は人によって違うもので正解が変わる。そのため正解を得るためにも人間観察は必要な行為であり、もはや癖となっていた。まだ一ヶ月経っていないクラスではあるが、大抵の人となりは、把握していた。
だが、その観察結果が生かせていないのが現状だ。それに、あまり周囲を見過ぎると、かえって不審者となってしまう。
私は顔を下げると、読書用の本を開き、自分の世界へ入る。同じ教室内ではあるが、自分と暁では、別の世界にいるような感覚になった。
これが私の、日常だった。
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